敦盛 小判鮫。 Fate/Grand Orderアイテム一覧

上洛上京物語

敦盛 小判鮫

at 2020-06-25 18:06 at 2020-05-01 11:38 at 2020-04-19 13:26 at 2020-04-18 16:29 at 2020-03-28 16:05 at 2020-03-21 21:49 at 2020-03-16 17:40 at 2020-03-14 13:14 at 2020-02-26 22:38 at 2020-02-25 17:39 at 2020-02-23 19:04 at 2020-02-17 14:02 at 2020-02-16 14:15 at 2020-02-07 17:21 at 2020-02-02 18:56 at 2020-01-30 22:25 at 2019-12-29 14:24 at 2019-12-28 17:58 at 2019-12-27 19:40 at 2019-12-01 19:54 今日第18回手賀沼エコマラソンに出場した。 ハーフとはいえマラソンと名の付くレースに始めて参加した。 今年の3月下旬からダイエット目標を達成するには、走る以外にないとの判断でランニングを始めて、6月にこの大会にエントリーした。 6月にハーフマラソン出場を意識して地元のランナーズクラブに入会してから丁度5ヶ月になる。 その間7月15日に始めて20Km走を走り靱帯を痛めて、約一ヶ月間走ることを止めてビハビリに専念することとなった。 フィットネスクラブに通い、膝への負荷の少ないペタルマシンによる歩行と筋トレと水泳で下半身と太股の筋力アップを図り、やっと9月からランニングを再開し10月には3回の20Km走を完走してこの大会に備えてきた。 ハーフとはいえ念願のマラソン大会に参加できたことが一番の成果だというべきかもしれないが、しかし掲げた目標とタイムを達成することができて本当によかった。 これまでの積み重ねの成果を現実に手にすることができたこと程嬉しいことはない。 朝10時の号砲を聴いたのは先頭のスタート地点から310m後方である。 それは事前の案内で指定されたスタート地点であり、予定通りだったが、実際に動き始めたのは、なんと2分後だった。 やっと走ることができると思いきや、走るというより歩ける状態になったに過ぎない。 ようやくスタート地点に辿り付いたのはそれから4分45秒後だった。 6分45秒のロスタイムは想定外である。 4分を予測していたので大幅な遅れだと思った。 やっと走りはじめたが、14時からの降雨との予報に反して、雨がぱらぱら降り始めた。 これも予想外。 しかし半袖と七分タイツで露出する肌にはワセリンを予め塗っていたので、降雨も発汗を抑える天の恵みと受け入れた。 当初5Km迄は「我慢!我慢!」の走りで、1Km6分45秒を想定して、iphone4Runkeeperを左手にもって制御しながら走っていたが、周りのランナーは走りが早く、6分45秒の私はどんどん置き去りにされる状態となった。 「3km以内にペースメーカーになるランナーを捜せ」と本を思い出して辺りを見廻したが、自分の背後を見てぺースメーカーを捜すのは困難と判断し、一番体型と歩幅の似ている目印になる派手なウエアで走る前方のランナーを探して、追走することにした。 5Km迄ペースは6分30秒と15秒早くなってしまった。 これはすこし早いかなと感じたが、しかし雨の効果で湿度が高いこともあって、走れる予感にまかせて、徐々に速度を上げた。 ランナーズハイかもしれない。 6kmを過ぎた段階でやっと累計ラップが1Km7分00秒となった。 スタート地点迄の6分45秒遅れを何とか挽回して、やっと制限時間内での完走の展望をもつことができた。 しかし目標とする2時間20分を切るためには、残りを6分10分台で走らなければならない。 従ってペースメーカーランナーを変えなければならない。 6分前後の派手な着衣のランナーを物色し小判鮫の如くまた追走することにした。 13キロの最高標高地点迄6分10秒台で走るしかない。 身体も特段の負荷を感じることがないので、行けるところ迄行けという気持ちで追走する。 日蓮宗「本妙寺」の看板が遠くに見えてきた。 長い登りにさしかかり、ここが勝負だと腹を括った。 ここで速度を落とさず走り切り、下り坂は「6分を切るラップで刻め」と自分に言い聞かせた。 なんとか、登り切り下りはできるだけ歩幅を狭くして負荷の架からない走りを意識して走りきった。 ここからゴール迄は身体能力ではなく意志の力で走るしかない。 つねにラップをみて6分10秒を超えたら鞭を打って速力を上げるだけである。 鞭を打つたびにランナーズクラブのメンバーの顔がよぎってきた。 ようやく20Kmの標識が見えてきた。 あと1Km強である。 沿道の応援の声が激しくなるのが分かる。 ペースメーカーにしたランナーには抜かれたくないとの思いから、最後の500mを全力ダッシュで駆け抜けることになった。 ようやくみんなの支援でゴールを手にすることができた。 通称「けんくん」神社。 天下を統一した織田信長の偉勲を称えて、明治天皇が明治二年に創建したという。 豊臣秀吉は、本能寺の変で斃れた織田信長の遺骨を自らの権力継承の証として探し回ったが、発見することができず、正親町天皇の勅許を得て、ここ船岡山東麓に、廟所をさだめたものと思われる。 ここには、桶狭間で戦利品として持ち帰った敵将今川義元所有の「義元左文字」の太刀や太田牛一自筆本の「信長公記」など信長縁りの宝物があるという。 毎年10月19日に開催される船岡祭りは、信長が永禄11年(1568年)に始めて上洛した日に由来する。 祭礼には、拝殿にて、桶狭間の奇襲出陣の祭に舞われた「敦盛」が金剛流で披露された。 「人間五十年 下天の内をくらぶれば、夢もぼろしんの如くなり ひとたび生を得て 滅せぬ者のあるべきか」 建勲神社 拝殿 舞:敦盛 胡蝶舞 下関条約の清国全権代表:李鴻章 すでに2回にわたり、尖閣諸島領有に関する見解とともにその解決のための共同管理の提案に賛同する署名を表明してきたが、これまで述べられていない尖閣諸島の領有に関する論評【岩波書店世界11月号「尖閣問題に内在する法理的矛盾〜「固有の領土」論の克服のために(羽根次郎)」があったので、ここに紹介する。 論議するに値する論評であると思う。 台湾出兵である。 『これによって、琉球がわが国の版図であることの形跡を表しました。 しかしながらまだはっきりとした結論を得るには難しく、琉球の帰属を巡り、各国から異議が持ち出されることがないだろうとまでは言い切れません。 この措置に清朝駐日公使何如璋は、属国とする琉球への命令に「これを許せば、中国が宗主権をもつ「朝鮮」「台湾」にも及ぶ」との危機感からこれに猛烈に抗議したという。 日本政府はこのグラントの意図に沿って、以下の提案を清朝に行ったという。 『わが日本の商民が中国の内地で貿易を行う際に一律西洋人と同じ扱いにすべきであります。 またそうなれば、わが国も琉球の宮古島と八重山山島を中国の領土と定めて、両国の国境線を引いても構いません』(李鴻章と折衝した竹添真一郎口上書)つまり、中国内地の通商権の取得のために宮古島と尖閣諸島を含む八重山諸島を中国領とすることを提案したということに他ならない。 また日本国内では「台湾基隆の石炭鉱脈につながる琉球南部諸島(これを先島諸島という)を放棄する意志のないこと」を表明するに及び、先島諸島は日本領に止まったという。 『井上はここで、尖閣諸島が「清国の国境にも接近」しており、各島の中国名もあることなどを根拠に「国標を設置し、開拓などに着手するのは、またの機会に譲」るべきと述べている。 3)尖閣諸島の領有権に関する歴史認識について 尖閣諸島に関する領有権に関して、両国の歴史認識との観点から留意すべきことが二つあるという。 一つは、中国の伝統的な「版図観」であり、もう一つは、明治政府による琉球処分との関わりである。 『「両国に属したる邦土も各々礼をもって相待ち、聊かも侵越することなく永久安全を得せしむべし」とあり、この「邦土」の概念の曖昧さを付く森有礼に対して、清朝全権大使李鴻章は、「では、将来条約改正の時に属したる邦土に「十八省及び高麗、琉球という文言を書き添えるべきですね」と応えたという」。 つまり清朝は、属国を「外藩」として中国の一部を構成すると解釈していたという。 従って1885年(明治18年)9月沖縄県令による標抗設置に対して、外務卿井上肇は、尖閣標抗は、すなわち「琉球問題」に波及することとなり、この1885年段階では北洋艦隊をもつ中国に勝ち目がないとの判断から却下したものであるという。 また中国は「琉球」を属国と判断するのは「朝貢・冊封・元号(正朔)」の関係をもつ国であり、税や政治はその属国に任せる統治手法をとるが、しかし中国の一部を構成するとの認識をもっていたと言う。 日本の標抗設置に至る日清間交渉で、尖閣諸島に関する領有に関する記録は皆無であるという。 それは、事実上の琉球領有を意図する琉球藩及び沖縄県設置に清朝高官は、強く反対するが、琉球海域に存在する尖閣諸島も当然ながら、琉球王国内であることから、その領有をあえて主張する必要がないからである。 尖閣諸島の帰属問題は、つまり琉球諸島の帰属問題であることを知っておくことが不可欠であると言う。 4)日清戦争と尖閣諸島の帰属について 琉球諸島の帰属問題は、日清戦争によって日本が台湾を割譲したことをもって決着することとなった。 下関条約は、尖閣を含む琉球諸島南部(先諸島)を国内問題(沖縄県所属)であるとの認識から、尖閣諸島はおろか琉球列島の帰属問題も交渉の俎上に上ることもなかったと言う。 つまり、実態としてはともかく、法理的な意味で沖縄の帰属問題は、棚上げにされてしまった。 しかも、尖閣諸島もまた割譲の対象としてではなく、ぎりぎりのタイミングで沖縄県の管轄に編入されたために下関条約の議論から抜け落ちてしまったという。 5)結語 『尖閣諸島放棄を企図したのは、中国ではなく、日本である。 そして沖縄全体の帰属を争った清朝には、尖閣諸島に限った帰属問題を争う論議を出す必要がなかった。 この二点が不可視化されることで尖閣諸島は「固有の領土」たる地位を手に入れる。 外務省のホームページにはこの2点の説明がない。 』 以上 1)原子力発電所のウラン使用量について 広島原爆で燃えたウランの総量は800g。 100万kWの原子力発電所1基が1年運転する毎に燃やすウランの重量は1000kg(1トン)である。 2)福島原発事故による放射能(セシウム137)について セシウム137(半減期30年)は、大気中に放出された分だけでヒロシマ原爆の168発分に相当する。 また太平洋側にこれと同等程度のセシウムを流したと思われる。 3)現在も進行形の福島原発原子炉の状況について 4号機は骨組みだけの状態だが、穴のあいている最上階の下の壁の向こうのあるプールに広島原発5000発分に相当する使用済み核燃料が沈んでいる状態にある。 再び地震で建屋が崩れた場合の惨状は計り知れない。 4)放射能観測情報の見方について 政府の発表した放射線分布に色分けがしてあります。 濃い青色で塗られたエリアは1平米6-10万ベクレルの地域です。 くすんだ緑色が1㎡3-6万ベクレル。 地図でいえば、宮城県と茨城南部と北部、群馬県と千葉県の北部、新潟県、埼玉県、東京都の一部がこれに該当する。 5)1㎡3-6万ベクレルの汚染地域の意味について 私の勤務する原子炉実験室には、放射線被曝を外部に持ち出さないために放射線管理区域を設けている。 この区域は、水、食べ物、寝たりすることができないエリアである。 自分の実験着の汚染状態を測定しないと外(通常の汚染されていない空間)には出られない仕組みになっている。 自分に付着した放射能が1㎡4万ベクレル以下にならないとそこから出られない。 つまりくすんだ緑色地帯は、放射線管理区域に当たるということです。 (管理区域を指定した法律は、現在反故にされ年間1ミリシーベル基準に収斂させた)この地域も避難地域にしなければならないということである。 6)強制避難地域の広さと被害について すでに失われた大地は、琵琶湖の1. 5倍に相当する。 放射能で汚染された土地は、そのまま使い物にならない土地になったということ。 上記の土地を含めると相当膨大な土地と水が汚染されたことを忘れてはならない。 またこれに伴い汚染食料で第一次産業が崩壊し、生活が破壊されたことは言うまでもない。 人間だけでなく、名前をつけた牛も馬も放置せざるをえず餓死させてしまった。 金銭的に計れることは、損害賠償させるべきである。 東京電力に責任を取らせることが必要である。 7)子供を被曝させないことについて 子供は、原発開発の責任を問えない世代だが、しかしその最大の被害者は子供である。 放射線癌死の依存数から説明したい。 結論は、1000万人中全年齢平均で3731人が癌死するということ。 30歳平均で3855人が癌死する。 0歳時で15152人。 55歳平均で49人である。 子供であればあるほど被曝させてはならないということである。 8)原発の生み出す「死の灰」について 日本の原発は1966年開始したが、発電量は7兆キロワット。 生み出した死の灰は、広島原爆の120万発分に上る。 半減期を補正した場合でも90万発分の死の灰が日本国土に残っている。 最近学術会議が立法化した地層処分への反対を表明したが、遅すぎると思う。 9)核燃料の300年監視について 政府は、使用済み核燃料を300年監視すると言う。 300年前といえば赤穂浪士の討ち入りのあった元禄年間に当たる。 そのような時代感覚で「監視」が可能であるという認識自体が不遜だと思う。 10 「原発をやめても停電など起きない。 1930年以降の発電設備容量と最大需要電力量のグラフから言えることは、電気の特性から必要な最大需要電力量はほぼ水力と火力の発電量で賄うことができることである。 それでも足りなくなったら、自家発電量を設備容量で稼働すれば、十分賄うことができるのです。 この講演会では、二回忌野清志郎のライブコンサートの録画が放映された。 「原発反対」のメッセージを載せた演奏曲DVDは発禁状態で、流通から遮断されたと言う。

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「羽田空港沖での航空機撮影セミナー」T4

敦盛 小判鮫

北海盆唄 北海道 三橋美智也 2. 江差追分 北海道 浜田喜一 3. 道南盆唄 北海道 佐藤松子 4. 津軽山唄 青森 吉沢浩 5. 秋田おばこ 秋田 斎藤京子 6. 鯵ヶ沢甚句 青森 成田雲竹 7. 北海大漁節 北海道 吉沢浩 1. ソーラン節 北海道 三ケ森渓鳳 2. ホーハイ節 青森 成田雲竹 3. あがらっしゃれ 山形 大西玉子 4. 秋田音頭 秋田 藤川照子 5. ひでこ節 秋田 武花烈子 6. いやさか音頭 北海道 大塚文雄 津軽じょんがら節 青森 浅利みき LP2〜東北編 1 1. 花笠音頭 山形 大月みやこ 2. 秋田船方節 秋田 山崎悦子 3. 長持唄 宮城 吉沢浩 4. リンゴ節 青森 華村純子 5. 正調俵つみ唄 青森 館松栄喜 6. 相馬流れ山 福島 吉沢浩 7. 八戸小唄 青森 早坂光枝 1. 真室川音頭 山形 大塚文雄 2. 津軽よされ節 青森 福士りつ 3. 嘉瀬の奴踊り 青森 大塚文雄 4. さんさ時雨 宮城 吉沢浩 5. 秋田大黒舞 秋田 藤浪詠子 6. 新タント節 秋田 斎藤京子 7. 弥三郎節 青森 吉沢浩 LP3〜東北編 2 1. 謙良節 青森 三橋美智也 2. 紅花摘み唄 山形 山崎悦子 3. 相馬二遍返し 福島 吉沢浩 4. 新庄節 山形 佐藤節子 5. 秋田甚句 秋田 角田正孝 6. 久保田節 秋田 吉沢浩 7. 生保内節 秋田 佐藤節子 1. 十三の砂山 青森 ペギー葉山 2. 南部牛追い唄 岩手 吉沢浩 3. 沢内甚句 いわれ 早坂光枝 4. 外山節 岩手 岩花賢蔵 5. 豊年こいこい節 宮城 斎藤京子 6. 本荘追分 秋田 武花烈子 7. 長者の山 秋田 吉沢浩 LP4〜東北編 3 1. 相馬盆唄 福島 三橋美智也 2. 塩釜甚句・ハットセ 宮城 峰岸とし子 3. 大漁祝い唄 福島 吉沢浩 4. 沢内さんさ踊り 岩手 華村純子 5. 夏の山唄 宮城 吉沢浩 6. 宮城野盆唄 宮城 斎藤京子 7. からめ節 岩手 佐藤松子 1. 新相馬節 福島 吉沢浩 2. 大漁唄い込み 宮城 原田直之 3. 最上川舟唄 山形 上條恒彦 4. ドンパン節 秋田 早坂光枝 5. 南部木挽唄 岩手 岩花賢蔵 6. 玄如節 福島 歌川重雄 7. 会津磐梯山 福島 山崎悦子 LP5〜関東編 1. 常磐炭坑節 茨城 吉沢浩 2. 磯節 茨城 福田佑子 3. 日光和楽踊り 栃木 原田直之 4. 潮来甚句 茨城 佐藤松子 5. 大島節 東京 大島りき 6. 上州馬子唄 群馬 藤堂輝明 7. 新島大漁節 東京 青沼新子 1. 木更津甚句 千葉 黒田幸子 2. 秩父音頭 埼玉 佐藤松重 3. 白浜音頭 千葉 佐藤松子 4. 箱根馬子唄 神奈川 吉沢浩・忍直樹 5. 網のし唄 茨城 福田佑子 6. 草津湯もみ唄 群馬 佐藤松子 7. 銚子大漁節 千葉 吉沢浩 LP6〜関東・中部編 1. 佐渡おけさ 新潟 原田直之 2. 八木節 群馬 江利チエミ 3. 越中おわら節 富山 竹氏修 4. 縁故節 山梨 佐藤松とよ 5. 大島あんこ節 東京 大島亜也 6. 草津節 群馬 吉沢浩 7. 新津松坂 新潟 佐藤松子 1. 小諸馬子唄 長野 吉沢浩 2. 木曽節 長野 坂本博士 3. 両津甚句 新潟 原田直之 4. 三階節 新潟 小花 5. 郡上節 岐阜 光本佳し子 6. 米山甚句 新潟 佐藤松子 7. 伊那節 長野 吉沢浩 LP7〜中部・近畿編 1. 尾鷲節 三重 尾鷲節保存会 2. 岡崎五万石 愛知 光本佳し子 3. ノーエ節 静岡 吉沢浩 4. 三国節 福井 佐藤松子 5. 麦や節 富山 早風隆昌 6. 十日町小唄 新潟 早坂光枝 7. デカンショ節 兵庫 三橋美智也 1. ちゃっきり節 静岡 三橋美智也 2. 名古屋名物 愛知 光本佳し子 3. 山中節 石川 一楽 4. 江州音頭 滋賀 真鍮家文子 5. 奈良地方の子守唄 奈良 米谷威和男 6. 福知山音頭 京都 佐藤松子 7. 相川音頭 新潟 吉沢浩 LP8〜近畿・中国編 1. 安来節 島根 黒田幸子 2. 伊勢音頭 三重 佐藤松子 3. 河内音頭 大阪 司英二 4. 三十石舟唄 大阪 吉沢浩 5. 桑名の殿様 三重 佐藤松子 6. 三原やっさ 広島 三橋美智也 7. 出雲音頭 島根 黒田幸子 1. 串本節 和歌山 二葉百合子 2. 関の五本松 島根 黒田幸子 3. 下津井節 岡山 石山天山 4. 敦盛さん 広島 佐藤松子 5. 淡海節 三重 佐藤松子 6. 宮津節 京都 江利チエミ LP9〜中国・四国・九州編 1. 阿波踊り 徳島 二葉百合子 2. よさこい節 高知 ペギー葉山 3. 田原坂 熊本 菊太郎 4. 伊予節 愛媛 佐藤松子 6. しげさ節 島根 吉沢浩 7. 金比羅船々 香川 下谷二三子 1. 黒田節 福岡 大塚文雄 2. ひえつき節8宮崎 照菊 3. しばてん音頭 高知 下谷二三子 4. 長崎のんのこ節 長崎 佐藤松子 5. 祖谷の粉ひき唄 徳島 宮沢浩 6. 貝殻節 鳥取 梅若朝塚 7. 炭坑節 福岡 三橋美智也 LP10〜九州・沖縄編 1. おてもやん 熊本 菊太郎 2. 五木の子守唄 熊本 二葉百合子 3. 島原地方の子守唄 長崎 樫山文枝 4. キンキラキン 熊本 菊太郎 5. 鹿児島浜節 鹿児島 岩崎三郎 6. コツコツ節 大分 菊太郎 7. 本博多節 福岡 佐藤松子 1. 刈干切唄 宮崎 菊太郎 2. 博多子守唄 福岡 佐藤松子 4. 鹿児島おはら節 鹿児島 前園とみ子 5. 谷茶前 沖縄 米須清昌・首里春子 6. 鳩間節 沖縄 首里春子 7. 安里屋ユンタ 沖縄 仲宗根美樹 LP11〜懐メロ決定版・お座敷はやり唄 1.

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江戸・東京ときどきロンドン

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at 2020-06-25 18:06 at 2020-05-01 11:38 at 2020-04-19 13:26 at 2020-04-18 16:29 at 2020-03-28 16:05 at 2020-03-21 21:49 at 2020-03-16 17:40 at 2020-03-14 13:14 at 2020-02-26 22:38 at 2020-02-25 17:39 at 2020-02-23 19:04 at 2020-02-17 14:02 at 2020-02-16 14:15 at 2020-02-07 17:21 at 2020-02-02 18:56 at 2020-01-30 22:25 at 2019-12-29 14:24 at 2019-12-28 17:58 at 2019-12-27 19:40 at 2019-12-01 19:54 今日第18回手賀沼エコマラソンに出場した。 ハーフとはいえマラソンと名の付くレースに始めて参加した。 今年の3月下旬からダイエット目標を達成するには、走る以外にないとの判断でランニングを始めて、6月にこの大会にエントリーした。 6月にハーフマラソン出場を意識して地元のランナーズクラブに入会してから丁度5ヶ月になる。 その間7月15日に始めて20Km走を走り靱帯を痛めて、約一ヶ月間走ることを止めてビハビリに専念することとなった。 フィットネスクラブに通い、膝への負荷の少ないペタルマシンによる歩行と筋トレと水泳で下半身と太股の筋力アップを図り、やっと9月からランニングを再開し10月には3回の20Km走を完走してこの大会に備えてきた。 ハーフとはいえ念願のマラソン大会に参加できたことが一番の成果だというべきかもしれないが、しかし掲げた目標とタイムを達成することができて本当によかった。 これまでの積み重ねの成果を現実に手にすることができたこと程嬉しいことはない。 朝10時の号砲を聴いたのは先頭のスタート地点から310m後方である。 それは事前の案内で指定されたスタート地点であり、予定通りだったが、実際に動き始めたのは、なんと2分後だった。 やっと走ることができると思いきや、走るというより歩ける状態になったに過ぎない。 ようやくスタート地点に辿り付いたのはそれから4分45秒後だった。 6分45秒のロスタイムは想定外である。 4分を予測していたので大幅な遅れだと思った。 やっと走りはじめたが、14時からの降雨との予報に反して、雨がぱらぱら降り始めた。 これも予想外。 しかし半袖と七分タイツで露出する肌にはワセリンを予め塗っていたので、降雨も発汗を抑える天の恵みと受け入れた。 当初5Km迄は「我慢!我慢!」の走りで、1Km6分45秒を想定して、iphone4Runkeeperを左手にもって制御しながら走っていたが、周りのランナーは走りが早く、6分45秒の私はどんどん置き去りにされる状態となった。 「3km以内にペースメーカーになるランナーを捜せ」と本を思い出して辺りを見廻したが、自分の背後を見てぺースメーカーを捜すのは困難と判断し、一番体型と歩幅の似ている目印になる派手なウエアで走る前方のランナーを探して、追走することにした。 5Km迄ペースは6分30秒と15秒早くなってしまった。 これはすこし早いかなと感じたが、しかし雨の効果で湿度が高いこともあって、走れる予感にまかせて、徐々に速度を上げた。 ランナーズハイかもしれない。 6kmを過ぎた段階でやっと累計ラップが1Km7分00秒となった。 スタート地点迄の6分45秒遅れを何とか挽回して、やっと制限時間内での完走の展望をもつことができた。 しかし目標とする2時間20分を切るためには、残りを6分10分台で走らなければならない。 従ってペースメーカーランナーを変えなければならない。 6分前後の派手な着衣のランナーを物色し小判鮫の如くまた追走することにした。 13キロの最高標高地点迄6分10秒台で走るしかない。 身体も特段の負荷を感じることがないので、行けるところ迄行けという気持ちで追走する。 日蓮宗「本妙寺」の看板が遠くに見えてきた。 長い登りにさしかかり、ここが勝負だと腹を括った。 ここで速度を落とさず走り切り、下り坂は「6分を切るラップで刻め」と自分に言い聞かせた。 なんとか、登り切り下りはできるだけ歩幅を狭くして負荷の架からない走りを意識して走りきった。 ここからゴール迄は身体能力ではなく意志の力で走るしかない。 つねにラップをみて6分10秒を超えたら鞭を打って速力を上げるだけである。 鞭を打つたびにランナーズクラブのメンバーの顔がよぎってきた。 ようやく20Kmの標識が見えてきた。 あと1Km強である。 沿道の応援の声が激しくなるのが分かる。 ペースメーカーにしたランナーには抜かれたくないとの思いから、最後の500mを全力ダッシュで駆け抜けることになった。 ようやくみんなの支援でゴールを手にすることができた。 通称「けんくん」神社。 天下を統一した織田信長の偉勲を称えて、明治天皇が明治二年に創建したという。 豊臣秀吉は、本能寺の変で斃れた織田信長の遺骨を自らの権力継承の証として探し回ったが、発見することができず、正親町天皇の勅許を得て、ここ船岡山東麓に、廟所をさだめたものと思われる。 ここには、桶狭間で戦利品として持ち帰った敵将今川義元所有の「義元左文字」の太刀や太田牛一自筆本の「信長公記」など信長縁りの宝物があるという。 毎年10月19日に開催される船岡祭りは、信長が永禄11年(1568年)に始めて上洛した日に由来する。 祭礼には、拝殿にて、桶狭間の奇襲出陣の祭に舞われた「敦盛」が金剛流で披露された。 「人間五十年 下天の内をくらぶれば、夢もぼろしんの如くなり ひとたび生を得て 滅せぬ者のあるべきか」 建勲神社 拝殿 舞:敦盛 胡蝶舞 下関条約の清国全権代表:李鴻章 すでに2回にわたり、尖閣諸島領有に関する見解とともにその解決のための共同管理の提案に賛同する署名を表明してきたが、これまで述べられていない尖閣諸島の領有に関する論評【岩波書店世界11月号「尖閣問題に内在する法理的矛盾〜「固有の領土」論の克服のために(羽根次郎)」があったので、ここに紹介する。 論議するに値する論評であると思う。 台湾出兵である。 『これによって、琉球がわが国の版図であることの形跡を表しました。 しかしながらまだはっきりとした結論を得るには難しく、琉球の帰属を巡り、各国から異議が持ち出されることがないだろうとまでは言い切れません。 この措置に清朝駐日公使何如璋は、属国とする琉球への命令に「これを許せば、中国が宗主権をもつ「朝鮮」「台湾」にも及ぶ」との危機感からこれに猛烈に抗議したという。 日本政府はこのグラントの意図に沿って、以下の提案を清朝に行ったという。 『わが日本の商民が中国の内地で貿易を行う際に一律西洋人と同じ扱いにすべきであります。 またそうなれば、わが国も琉球の宮古島と八重山山島を中国の領土と定めて、両国の国境線を引いても構いません』(李鴻章と折衝した竹添真一郎口上書)つまり、中国内地の通商権の取得のために宮古島と尖閣諸島を含む八重山諸島を中国領とすることを提案したということに他ならない。 また日本国内では「台湾基隆の石炭鉱脈につながる琉球南部諸島(これを先島諸島という)を放棄する意志のないこと」を表明するに及び、先島諸島は日本領に止まったという。 『井上はここで、尖閣諸島が「清国の国境にも接近」しており、各島の中国名もあることなどを根拠に「国標を設置し、開拓などに着手するのは、またの機会に譲」るべきと述べている。 3)尖閣諸島の領有権に関する歴史認識について 尖閣諸島に関する領有権に関して、両国の歴史認識との観点から留意すべきことが二つあるという。 一つは、中国の伝統的な「版図観」であり、もう一つは、明治政府による琉球処分との関わりである。 『「両国に属したる邦土も各々礼をもって相待ち、聊かも侵越することなく永久安全を得せしむべし」とあり、この「邦土」の概念の曖昧さを付く森有礼に対して、清朝全権大使李鴻章は、「では、将来条約改正の時に属したる邦土に「十八省及び高麗、琉球という文言を書き添えるべきですね」と応えたという」。 つまり清朝は、属国を「外藩」として中国の一部を構成すると解釈していたという。 従って1885年(明治18年)9月沖縄県令による標抗設置に対して、外務卿井上肇は、尖閣標抗は、すなわち「琉球問題」に波及することとなり、この1885年段階では北洋艦隊をもつ中国に勝ち目がないとの判断から却下したものであるという。 また中国は「琉球」を属国と判断するのは「朝貢・冊封・元号(正朔)」の関係をもつ国であり、税や政治はその属国に任せる統治手法をとるが、しかし中国の一部を構成するとの認識をもっていたと言う。 日本の標抗設置に至る日清間交渉で、尖閣諸島に関する領有に関する記録は皆無であるという。 それは、事実上の琉球領有を意図する琉球藩及び沖縄県設置に清朝高官は、強く反対するが、琉球海域に存在する尖閣諸島も当然ながら、琉球王国内であることから、その領有をあえて主張する必要がないからである。 尖閣諸島の帰属問題は、つまり琉球諸島の帰属問題であることを知っておくことが不可欠であると言う。 4)日清戦争と尖閣諸島の帰属について 琉球諸島の帰属問題は、日清戦争によって日本が台湾を割譲したことをもって決着することとなった。 下関条約は、尖閣を含む琉球諸島南部(先諸島)を国内問題(沖縄県所属)であるとの認識から、尖閣諸島はおろか琉球列島の帰属問題も交渉の俎上に上ることもなかったと言う。 つまり、実態としてはともかく、法理的な意味で沖縄の帰属問題は、棚上げにされてしまった。 しかも、尖閣諸島もまた割譲の対象としてではなく、ぎりぎりのタイミングで沖縄県の管轄に編入されたために下関条約の議論から抜け落ちてしまったという。 5)結語 『尖閣諸島放棄を企図したのは、中国ではなく、日本である。 そして沖縄全体の帰属を争った清朝には、尖閣諸島に限った帰属問題を争う論議を出す必要がなかった。 この二点が不可視化されることで尖閣諸島は「固有の領土」たる地位を手に入れる。 外務省のホームページにはこの2点の説明がない。 』 以上 1)原子力発電所のウラン使用量について 広島原爆で燃えたウランの総量は800g。 100万kWの原子力発電所1基が1年運転する毎に燃やすウランの重量は1000kg(1トン)である。 2)福島原発事故による放射能(セシウム137)について セシウム137(半減期30年)は、大気中に放出された分だけでヒロシマ原爆の168発分に相当する。 また太平洋側にこれと同等程度のセシウムを流したと思われる。 3)現在も進行形の福島原発原子炉の状況について 4号機は骨組みだけの状態だが、穴のあいている最上階の下の壁の向こうのあるプールに広島原発5000発分に相当する使用済み核燃料が沈んでいる状態にある。 再び地震で建屋が崩れた場合の惨状は計り知れない。 4)放射能観測情報の見方について 政府の発表した放射線分布に色分けがしてあります。 濃い青色で塗られたエリアは1平米6-10万ベクレルの地域です。 くすんだ緑色が1㎡3-6万ベクレル。 地図でいえば、宮城県と茨城南部と北部、群馬県と千葉県の北部、新潟県、埼玉県、東京都の一部がこれに該当する。 5)1㎡3-6万ベクレルの汚染地域の意味について 私の勤務する原子炉実験室には、放射線被曝を外部に持ち出さないために放射線管理区域を設けている。 この区域は、水、食べ物、寝たりすることができないエリアである。 自分の実験着の汚染状態を測定しないと外(通常の汚染されていない空間)には出られない仕組みになっている。 自分に付着した放射能が1㎡4万ベクレル以下にならないとそこから出られない。 つまりくすんだ緑色地帯は、放射線管理区域に当たるということです。 (管理区域を指定した法律は、現在反故にされ年間1ミリシーベル基準に収斂させた)この地域も避難地域にしなければならないということである。 6)強制避難地域の広さと被害について すでに失われた大地は、琵琶湖の1. 5倍に相当する。 放射能で汚染された土地は、そのまま使い物にならない土地になったということ。 上記の土地を含めると相当膨大な土地と水が汚染されたことを忘れてはならない。 またこれに伴い汚染食料で第一次産業が崩壊し、生活が破壊されたことは言うまでもない。 人間だけでなく、名前をつけた牛も馬も放置せざるをえず餓死させてしまった。 金銭的に計れることは、損害賠償させるべきである。 東京電力に責任を取らせることが必要である。 7)子供を被曝させないことについて 子供は、原発開発の責任を問えない世代だが、しかしその最大の被害者は子供である。 放射線癌死の依存数から説明したい。 結論は、1000万人中全年齢平均で3731人が癌死するということ。 30歳平均で3855人が癌死する。 0歳時で15152人。 55歳平均で49人である。 子供であればあるほど被曝させてはならないということである。 8)原発の生み出す「死の灰」について 日本の原発は1966年開始したが、発電量は7兆キロワット。 生み出した死の灰は、広島原爆の120万発分に上る。 半減期を補正した場合でも90万発分の死の灰が日本国土に残っている。 最近学術会議が立法化した地層処分への反対を表明したが、遅すぎると思う。 9)核燃料の300年監視について 政府は、使用済み核燃料を300年監視すると言う。 300年前といえば赤穂浪士の討ち入りのあった元禄年間に当たる。 そのような時代感覚で「監視」が可能であるという認識自体が不遜だと思う。 10 「原発をやめても停電など起きない。 1930年以降の発電設備容量と最大需要電力量のグラフから言えることは、電気の特性から必要な最大需要電力量はほぼ水力と火力の発電量で賄うことができることである。 それでも足りなくなったら、自家発電量を設備容量で稼働すれば、十分賄うことができるのです。 この講演会では、二回忌野清志郎のライブコンサートの録画が放映された。 「原発反対」のメッセージを載せた演奏曲DVDは発禁状態で、流通から遮断されたと言う。

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