あぁ 野麦 峠。 100円工女の歴史(あゞ野麦峠)

映画『あゝ野麦峠』ネタバレあらすじ結末|映画ウォッチ

あぁ 野麦 峠

『あぁ野麦峠』の旅 『あぁ野麦峠』の旅 1 はじめに * 日本史Aの授業で、ここ数年、『あゝ野麦峠』を扱っており、いつかは実際に行ってみたいと思っていた。 * 公共交通機関で行ったという情報が少ない。 インターネットで調べても、車やバイクで行ったという報告は多いのだが。 * 実際には、現地(高山市の観光案内所)に行って(行く前日に)資料収集をし、行くかどうかを考えた。 失敗(4の課題のところで述べる)。 手前の植物はクマザサ。 『あぁ野麦峠』には、これには、稲穂のような「ササの実」をつける。 これを飛騨では「野麦」と呼び、往時の人びとは、この実を粉にしてダンゴをつくり飢えをしのいだという。 「野麦峠」という呼び名もおそらくここから生まれたものであろう、とある。 『あゝ 野麦峠』の中で「アー飛騨が見える」と言って死んでいった政井みねの碑。 映画は大竹しのぶさん主演のものが有名だが、もともとは日活のほうが企画は早かった。 しかし、事情で日活の方は流れ、主演する予定であった吉永小百合さんがこの碑を建てたらしい。 後ろに「贈 吉永小百合」とある。 日本唯一の峠の資料館という「野麦峠の館」(0577-59-2820)。 入館料500円。 入ってすぐ15分くらいのVTRを見せられた。 3F〜かたりべエリア(峠にまつわる話)、灯火の歴史 2F〜なるほどエリア(山と蚕の古道具類の展示) 1F〜イベントホール(飛騨の養蚕業・写真展) 野麦峠の館の中には、左の写真のような女工ディスプレイもあちこちにおかれていた。 企業による「罪滅ぼし」のための供養塔?。 「南無阿弥陀仏」と記される。 お助け小屋(0577-59-2409)。 休憩・食事・宿泊等ができる。 宿泊すれば、夜に映画『あゝ野麦峠』を見ることができる。 建物は1970年に野麦集落の古い家屋を移築したもの。 ここに、政井みねの写真がかざってあった。 みねの写真が見つかったときの新聞記事(1988年6月11日付け『中日新聞』)も展示してあった。 前ページの石像はちょっとこわい感じだが、実際はかわいらしい感じの女性であった。 昼食・野麦定食。 1200円。 ご飯の中に稗が混じっていた。 おいしかったよ。 当時、工女宿といわれたものはただ単に工女を泊めるというばかりではなく、送り迎えはもちろん、検番たちの工女募集の根拠地となり、工女荷の集散までやって、あたかも信州製糸の出張所のような役割を果たしていた。 (『あぁ野麦峠』より) 上の写真は、『あゝ野麦峠』にも登場する旅館「八ツ三館」の玄関。 明治時代に岡谷の製糸工場の検番宿として多くの女工や出迎えの家族で賑わいを見せた。 4 課題 * 結局、悩んだ結果、行くことを決断したのは、高根村観光開発公社に問い合わせたところ、「地元にもタクシーがある」との一言であった。 初めは、高山市から1日タクシーを貸し切ろうかなぁとも思ったが、前日に乗ったタクシーの運転手さんの話によれば、4〜5万くらいかかるかも、と。 これはきびしいなぁと思って、問い合わせをしたのだ。 ただ「地元にもタクシーがある」とのことばに、ちょっと油断してしまった。 数台はあるだろうと思っていたら、1台しかなかった。 事前に連絡を入れなかったため、上ヶ洞のバス停で降りてから、1時間待たされた。 ま、温泉に入って時間をつぶしたから、よかったものの……。 * 上ヶ洞から20分ほどいったところに、「野麦の里」というのがある。 ここは「野麦の館」「野麦学舎」「野麦の里公園」の3つからなる。 「野麦の館」では食事や宿泊ができるほか、山菜狩りや紅葉ウォークといった季節のツアーが好評。 「野麦学舎」はこの地区で実際に校舎として使われていた建物。 * 次に行くときは、この「野麦の里」からちょっと行ったところに「旧道入り口」があるので、そこから実際に歩いて野麦峠を越えて、長野県側(松本)に行きたい。 野麦集落から野麦峠まではおよそ2時間。 野麦峠を越えて長野県側の奈川村の川浦という集落には「扇屋」という当時の女工宿を再現した展示館がある。 野麦峠からはおよそ1時間のところ。 そこからは村営バスがでているらしい。 * 高根村の行事 野麦峠山開き(5月1日)…神事のあとに女工に扮した保育園児による餅つきが行なわれ、通行客に振る舞われる。

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あぁ噂通り。野麦峠スキー場に行ってきました!

あぁ 野麦 峠

製糸工場の女工さんだった明治生まれのお年寄り達に、聞き取り調査したものを本にまとめた。 故郷を前に野麦峠で死んだ若き製糸工女みね。 富国強兵政策に押しつぶされていった無数の娘たちの哀しい青春を描く、 戦後ノンフィクションの名作! 明治から大正にかけて、外貨を稼ぐ手だては、生糸でした。 養蚕が日本を支えていた時代、その陰では10代、20代のうら若き製糸工女たちの悲惨な生活がありました。 諏訪地方には豊富な水のおかげもあり、製糸工場が集中していました。 周辺農村部から集められた大半の少女達は、山深い飛騨の山中の村々から連れてこられた貧しい農家の子供達であった。 多くの少女達が半ば身売り同然の形で年季奉公に出されたのだった。 工女たちは、朝の5時から夜の10時まで休みもほとんどなく過酷な労働に従事しました。 工場では、蒸し暑さと、さなぎの異臭が漂う中で、少女達が一生懸命、額に汗をしながら繭から絹糸を紡いでいた。 苛酷な労働のために、結核などの病気にかかったり、自ら命を絶つ者も後を絶たなかったという。 (以下 ああ野麦峠より抜粋) 工場づとめは監獄づとめ 金のくさりがないばかり 籠の鳥より監獄よりも 製糸づとめはなおつらい 工場の寄宿には厳重に鉄の桟がはめられていた。 逃げた工女があれば監視員はいっせいに馬で四方にとび、各街道、峠、後には各駅をおさえ、たちまちつかまって引きもどされる、それは文字通りの監獄であった。 「それでも行かずばならない。 そういうもんじゃと思って歯を食いしばって、みんなのあとについていったのでございます」(明治23年生) 当時、百円といえば大変な大金だった。 百円工女になることは彼女たちの誇りだった。 だからこそ、無理をしてでも百円工女になるよう頑張った。 しかし、そんな頑張りもつかの間のこと。 重労働に疲れ、いつしか体は病気にむしばまれ、廃人同様となって工場の片隅に捨て置かれるようになってしまった。 ああ飛騨が見える (ああ野麦峠より抜粋) 明治42年11月20日午後2時、野麦峠の頂上で一人の飛騨の工女が息を引きとった。 名は政井みね、二十歳、信州平野村山一林組の工女である。 またその病女を背板にのせて峠の上までかつぎ上げて来た男は、岐阜県吉城郡河合村角川の政井辰次郎(31)、死んだ工女の兄であった。 角川といえば高山からまだ七、八里(約30キロ)、奥越中(富山)との国境に近い、宮川沿いの小さな部落である。 ここから岡谷まで七つの峠と30数里の険しい山道を、辰次郎は宿にも泊らず夜も休みなしに歩き通して、たった2日で岡谷の 山一林組工場にたどりついた。 「 ミネビョウキスグヒキトレ 」という工場からの電報を受取ったからである。 辰次郎は病室へ入ったとたん、はっとして立ちすくんだ。 美人と騒がれ、百円工女ともてはやされた妹みねの面影はすでにどこにもなかった。 やつれはててみるかげもなく、どうしてこんな体で十日前まで働けたのか信じられないほどだった。 病名は腹膜炎、重態であった。 工場では辰次郎を事務所に呼んで十円札一枚を握らせると、早くここを連れだしてくれとせきたてた。 工場内から死人を出したくないからである。 辰次郎はむっとして何かいいかけたが、さっき言ったみねの言葉を思い出してじっとこらえて引きさがった。 「 兄さ、何も言ってくれるな 」 みねはそう言って合掌した。 飛騨へ帰って静かに死にたがっているのだと辰次郎はすぐ察した。 みねはそういう女だった。 準備して来た背板に板を打ちつけ座ぶとんを敷き、その上に妹を後ろ向きに坐らせ、ひもで体を結えて工場からしょい出した。 作業中で仲間の見送りもなく、ひっそりと裏門から出た。 辰次郎は悲しさ、くやしさに声をあげて泣き叫びたい気持をじっとこらえて、ただ下を向いて歩いた。 しかし、みねは後ろ向きに負われたままの姿で、工場のほうに合掌していた。 その時、 「おお 帰るのか、しっかりしていけよ、元気になってまたこいよ」 あとを追ってきた門番のじいさんが一人だけ泣いて見送ってくれた。 「 おじさん、お世話になりました 」 「元気になってまた来いよ、心しっかりもってな」 二人はお互いに見えなくなるまで合掌していた。 辰次郎はこの門番の言葉にやっと救われた思いで歩き始めた。 それはこの岡谷に来て初めて聞く人間らしい言葉だったからだある。 彼は、松本の病院へ入院させるつもりで駅前の飛騨屋旅館に一泊した。 この旅館の経営者中谷初太郎は辰次郎たちと同郷の河合村角川出身者で、その彼も一緒になって、みねに入院することを勧めたが、飛騨へ帰るというみねの気持は変らなかった しかたなし辰次郎はまたそこもしょい出して、いよいよ野麦街道を新村、波田、赤松、島々、稲核、奈川渡、黒川渡、寄合渡、川浦と幾夜も重ねて、野麦峠の頂上にたどりついたのが11月20日の午後であった。 その間みねはほとんど何もたべず、峠にかかって苦しくなると、つぶやくように念仏をとなえていた。 峠の茶屋に休んでそばがゆと甘酒を買ってやったが、みねはそれにも口をつけず、 「 アー飛騨が見える、飛騨が見える 」と喜んでいたと思ったら、 まもなく持っていたソバがゆの茶わんを落して、力なくそこにくずれた。 「 みね、どうした、しっかりしろ 」、辰次郎が驚いて抱きおこした時はすでにこと切れていた。 「みねは飛騨を一目みて死にたかったのであろう」、そういって辰次郎は六十年も昔のことを思いだして、大きなこぶしで瞼を押え声をたてて泣いていた。 当時の彼の衝撃が想像される。 <政井みねの墓> 実存した政井みねの墓は、河合村角川(つのがわ)にある専勝寺の真裏にあります。 河合小学校の隣 地元の方がなさるのでしょうか、このお墓だけにきれいな花が供えてありました みねの妹「ふよ」も糸ひき稼ぎに行きました。 その後病気で帰り、長い病の後同じ腹膜炎で亡くなりました。 当時は、今のように健康保険があるわけでなく医者代は高く、せっかく稼いだ少しばかりの金はたちまち消えてしまう。 よほど重症にならない限り、医者にかかるということをしなかった。 結核は不治の病とされ、 村の年寄り衆は病気で帰る工女に出会うと生きているのにすでに仏に向かうように合唱して見送ったという。 工女千人について23人という高率の死亡推計があり、その7割が結核という。 野麦の雪は赤く染まった (ああ野麦峠より抜粋) 次の日はいよいよ野麦峠にかかる。 山沿いの道は、降りつもった雪の上にほそぼそと続いていた。 乗鞍に源を発する益田川の源流なのであろうか、急傾斜の谷をななめに通っているこの道は、夏は快適な峠道なのに、吹雪になるとがらりとようすが変って、二月三月の残雪ころは堅い氷の刃となり、権太という野麦のボッカ(荷負稼業の人)でさえ足を踏みはずして死んだという〈権太アラシ〉の難所と変る。 「工女衆がよく落ちた谷はこの辺でございます。 みんな帯をといてつなぎ合わせておろしてやり、それでやっと救いあげたこともございました。 峠の地蔵様が笹原の中に立っているのはその付近で、あの谷はどれだけ多くの工女の命をのんだか知れません。 わしらは先の人に離れないようにヒモで体を結び合わせ、峠の地蔵様に念仏をとなえながら一足一足命がけでついていったのでございます」(明治15年生) その女の悲鳴が野麦の谷々に響きわたり、峠の地蔵様はそれを黙って見守っていた。 パンツもなかった明治のこと、腰巻きのすそは凍ってガラスの破片のようになり、女のモモは切れて血が流れ、ワラジをいくら取り替えてもたびは凍り、足は凍傷にふくれ、宿についてもすぐ火にあたることはできなかった。 「野麦峠の雪は赤く染まった」とよく聞くが、それは腰巻きの染料が雪に溶けたものであることがあとでわかったが、そればかりでなく、この女たちの足から流れた血も混じっていたことであろう。 峠の寒さは手足ばかりでなく、ワシは目玉が凍みてしまい、長いこと目医者に通いました。 こんなことならいっそくるんじゃなかったとその時は思いましたが、ワシが糸ひきが好きでしたからまた何年も行きました。 (明治25年生) 野麦を越えるときは、この辺の衆はみんな水さかずきをして出たもんです。 何しろ野麦の雪が赤く染まったという話を年寄りからよく聞いた。 (明治35年生) やんちゃな吹雪にあっても、大勢でお助け茶屋にも入れず、表にむしろを敷いて野宿したそんなひどいことが三度ありました。 (明治15年生) 何百、何千という工女がお互いに体をひもや帯で結んで、大きな声で励まし合い、念仏を唱えながら峠を越えていくのを見た。 なかでも、十二、三の少女をねえさんたちがかばいながら、吹雪の中を行く姿は悲壮なものだった。 工女たちは家に帰りたいの一念で、幾千という足で踏み固めて通り抜けてしまうが、そうでなかったらあんな吹雪の峠は、いくら頑強な男でも通れるものではなかった。 (明治14年生).

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あゝ野麦峠とは

あぁ 野麦 峠

こんにちは!田中でございます。 皆様、冬のシーズンいかがお過ごしでしょうか。 今週は秋田に出張に行っておりました。 出張中は雪が降り大変でした。 でも、やっぱり雪国っていいですねぇ。 当初のシーズンイン前はもう少しBC的な活動をしたいと考えていてと思い登山とかを始めてみたのですが、今シーズンは暖冬で思ったようにはいきませんでした。 ですので、方向転換をして今シーズンは行ったことのないエリアに行ったりして旅行を素直に楽しもうと思っています。 当初のオフからブログを読んでいる方には申し訳ないです「BC行くって言ってオフに本読んだり登山したりしてたくせに」とツッコまれればもう何も言えません。 そんな理由もあり、今回はお友達とワイワイとレジャーの旅いきました!ということで、長野県の松本市にある野麦峠スキー場に行ってきたお話です。 いいところでしたよ! 穴場スキー場検索1位!野麦峠。 さて、雪バカ日誌の記事の中でも冬になると人気が出るのが「ぜひとも行ってほしい!? いや行かないで!穴場スキー場5選」と言う記事なんですが、これが人気な理由は「スキー場 穴場」でgoogleで検索すると2番目に上がって来るからなんです。 じゃあ、1番目はどのページなのかと言うと「という記事なんです。 なるほど!野麦峠スキー場は穴場なのかと言うことで今回は野麦峠スキー場にお邪魔してみました。 なにを持って穴場なのかは個人の主観でございますのでね、ファジーな感じでとらえていただければ幸いです。 野麦峠スキー場について マックアースグループのスキー場です(2015年現在)。 東京からだと中央道の松本ICを使いそこからさらに1時間と言った感じ。 高井戸から4時間と言った感じですね。 伊那IC使った方が快適だという話もありますのでご検討くださいませ。 あまり中央道エリアのスキー場っていかないのですが、所用時間はそんなに変わらないですねぇ。 エリアとしては乗鞍・木曽エリアに分類されるようです。 中部エリアからも首都圏エリアからもアクセスがイイという事です。 中部エリアのお友達と滑りに行くときには結構いい場所ですね。 松本ICからは1時間。 片側1車線の158号線を使うことになります。 道中は猛々しいお山や開放的なダムなどの景色が広がりとても素敵です。 しかし、うねうねとアップダウンのある道で運転手泣かせでございます。 車酔いしやすい人は酔い止めをお持ちくださいませ! 田中は早割前売り券の「マックアース信越エリア共通券(¥3200)」と言うのを使いしました。 このチケットの裏面にはこの野麦峠スキー場は書いていなかったのですが、チケット売り場で聞いてみたらと使えるよとのことでした。 リフト券代は大人休日¥4000。 2015-16シーズン リフト4本。 だけど上部コースはバリエーション多数だよ! 縦に長いスキー場です。 中心にクワッドが走っており、その上部と下部に別のリフトがかかった構成です。 スキー場最上部からの眺めはかなりイイです!自分の中でもトップ3に入る眺めの良さでした。 中心のクワッドリフトまわせばそれなりのロングライドが楽しめます。 上部に行けば複数のコースで遊べるよといった感じです。 パークはないです。 斜度に関しても全体として急な部分が多い印象です。 地形はほぼないなので、スケートライクに跳ねたり回ったりという滑り方と言うよりもギュンギュン風を切ってカービングで滑る雰囲気です。 この辺はアサマ2000と似ていると言えば伝わりやすいかもしれません。 バーンも固め。 緩斜面は1コースだけなので初心者には向いていないスキー場だという印象です。 個人的には、中心のクワッド回しで滑走しするのがスノーボード的にはいい遊び方かなぁと思いました。 バーン的には固めの急斜面がメインなのでカービングが楽しめるかと思います。 全体の雰囲気としてビュンビュン飛ばすスキーおじさんやヘルメットにハードブーツのアルペンスノーボーダーに愛されているようです。 逆に初心者系の人はあまり居ませんでした。 あと、最近の流行りの非圧雪コースが設定されていますが、このスキー場の非圧雪には絶対に期待してはいけません。 圧雪放棄コースと言った方がよいでしょう。 田中が行ったときはスキーヤーが作ったコブがガチガチに凍っており、その上に1cm程度だけ新雪が乗った状態でした。 とても滑れたもんじゃなかったです。。 さて、穴場としての感じはいかがなのか。 田中は穴場スキー場が大好物でございます。 ここは穴場のスキー場だよ!と言われたらすぐにでも行きたい気分になります。 勝手にJASA 全日本穴場スキー場協会 と言う団体でも作ってやろうかと思っています。 全体とすれば、ここは人が少なく快適で前評判通り人は少なくカービングターンをする方には好まれるスキー場だと思います。 2月の1週目の土曜日に行ったのですがリフト待ちはゼロでした! 人が少ないのでスピードを出してストレスなく自分の思った通りにターン弧を描ける快感があります。 ただ、それしか遊び方がないかなぁという感じです。 固めの急斜面が多いスキー場なので、フリースタイルのスノーボード好きにはつまらないと思います。 パークがあるわけでもないですし、良質なパウダーがあるのに競争率が低いという訳ではないんですよね。 ここが人がいなく穴場言われるのにはそれなりの理由があって、固い急斜面バーンが多いスキー場だからでしょう。 スキーやカービングでの滑走がハマる分、そういう人以外にはお勧めできないスキー場だなぁと言った感じです。 この辺は滑るスタイルでいろいろ感想が違ってきそうです。 正直言ってあまり声を大にしてみんなにここはおすすめ穴場ですとは言えないといった感想を持ちました。 でも、久々にターンを見つめなおしジックリと滑れたので個人的には超楽しいスキー場だと思います!!ガッツリと滑ったので久々に足腰がパンパンになりました。 3店満点 と言うわけで、今回は野麦峠スキー場に行ってきたお話ございました。 実はこの後、白骨温泉にお泊まりして翌日はMt. 乗鞍で滑ろうと考えていたのですが、急に親戚の訃報が入ってしまい、翌日の早朝には東京に帰ってきた田中でございます。 白骨温泉のお宿はすごく良かったのでおすすめですね!今週末は大阪・名古屋に住んでいるお友達と富山で現地合流してシャルマン火打と立山山麓に行ってくるぞー!と思っていますが、雨予報でどうなることやらです。 それでは皆様よいスノーボーディングライフをお過ごしください。 田中でした。 関連エントリ: 雪バカ日誌の人気記事(過去30日)•

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