アガペー 意味。 アガペーって何ですか??高2が分かるように教えてください!

アガペーって何?すぐ分かるイエス・キリストの愛!

アガペー 意味

日本語で「愛」とは一語ですが、古典ギリシャ語では「愛」には3種類の意味があります。 アガペー、フィリア、エロスです。 人間にはこの3つの愛が必要だと言われています。 アガペー・・・母なる愛、無償の愛、愛の中でも「犠牲」が愛としてとらえられるのはアガペーだけです。 フィリア・・・・友情、純粋な心で愛すること。 兄弟愛。 エロス・・・・必ずしも肉体的なことを表現したものではなく、「エゴ」と「エゴ」のぶつかり合いの(お互いのエゴを理解しあう)愛です。 男女の愛。 子供が生まれると、母からアガペー(無償の愛)を学び、母離れしたあと思春期までフィリア(友情)を学び、そのあとで男女の愛(エロス)を学ぶと言われます。 そして親になり、また子供にアガペーの愛を伝えて行きます。 この順番で愛を得られないと、(母なる愛を得られない子供)はそのあとの2つの愛も自然に習得するのが難しくなります。 また、この3つの愛は交互に表れたりします。 親子でもアガペーからフィリアの愛に変化しますし、エロスの愛がアガペーやフィリアの愛になったりもします。 キリストの弟子は最初はアガペーの愛でキリストを愛しましたが、のちフィリアの愛に変化したとも言われています。 上記の解説は昔読んだカトリック系の本に書いてあったことですので、探せば3つの愛についてもっと詳しく書かれていると思います。 それから、遠藤周作(クリスチャン)の「私が捨てた女」という小説では、「人間がアガペーの愛(犠牲の愛)だけで満足した人生を送ることの難しさ」が語られています。 まだ読んでいませんでしたらおすすめです。 これがアガペーの愛です。 旧約では神に羊を捧げていましたが、新約ではキリストが純粋無垢な神の子羊としてその血を捧げました。 このことでキリストは救世主となり、たくさんのキリスト教徒が生まれたと言うことではないでしょうか。 「隣人愛」はキリストがたとえ敵であろうと「隣人を愛しなさい」と言ったことです。 敵や罪びとを愛しなさい。 と言ったキリストの愛は「無差別」であり、何の見返りもなく人類を罪から救った愛は「無償」であり、アルファでありオメガであるキリストは私の言葉は永遠である。 と言っています。 つまりキリストの愛は「無限」です。 昔、ユダヤ人は律法によって神を崇拝していました。 旧約を読むとたくさんの戒律があります。 ですが、キリストは戒律よりも大事なのは「愛」である。 と述べ伝え人気が出たため、それまでの信仰を覆す危険思想と思われました。 また、司祭はその地位を守るためキリストを殺す必要がありました。 たとえば、ユダヤ人が売春婦に石を投げるのを叱ったり、当時嫌われていた収税人をかばったり、当時戒律を守らずに罪びととして虐げられた人々をキリストが愛した例がたくさんあります。 聖書を読めば分かります。 神学・哲学いずれの専門家でもありませんが回答失礼します。 アガペーとは、簡単に言えば「神の愛」のことです。 神は人間がどんなに不完全で罪深い存在であっても、人間を憎むことなく愛してくれます。 とかく人間は、かつて好きだった相手も何か自分に不都合な言動があったりする相手を憎んだり嫌ったりしがちです。 また、違う相手が好きになるとかつて愛した人には無関心になったりと、いわゆる「愛情」は増減します。 しかし、神の人間への愛は減ることがありません。 また神は相手も選びません。 いわゆる「いい人」であろうと、【罪びと】であろうと、変わらずに神は愛します。 さらに、とかく人間は愛する相手に対して、「自分がこんなに愛情を示してるんだからあなたもそれに答えてよ」と、「愛の見返り」を求めがちですが、神は人間から何の見返りも求めません。 人間が「見返り」のつもりで行っている儀式や生贄なども、神が求めているものではなく、人間の自己満足によるものです。 それが「隣人愛のモデル」とされている理由は、当時の西洋社会において、近隣社会住人の排除や差別につながりがちだった社会に対するアンチテーゼであったからだと思われます。 相手が誰であれ、自分に対して得か損か(利害関係の有無)に関係なく愛する、というところが(当時の)人間と神の違いであり、人間も神が人間にそうするように、人間同士も普遍的に愛し合う(=支え合う)ことが必要だ、と説いているわけです。 イエスはさらに、隣人(や家族)を愛するだけなら誰でもしている。 もっと広く、「汝の敵(自分に不都合な相手)を愛せよ」と言っています。 この思想は、ユダヤの主流である律法主義者や、象徴的権威を持つ神殿主義者から危険視されていました。 それまでのユダヤ教の思想を、根本的に覆しかねない物だったからです。 律法主義「人は律法を遵守しなければならない。 さもないと罪びととなり、罰を受ける」 イエスの教え「律法主義者の言う罪びとだろうと何だろうと、神は愛してくださるし、救ってくださる。 そもそも、完璧に律法を遵守している人間なんて、この世のどこにもいないじゃないか!」 神殿主義「神に祈りを聞いてもらうために、さまざまな儀式(有料)を受けなさい。 神殿税(当然有料)を納めなさい。 祈りを捧げなさい(ついでに寄付金も納めなさい)」 イエスの教え「だから、神はそんな見返りは欲してないって言ってるじゃねーかよ! 神の家を、盗人の家にしたのはお前らだろーが!」 ということで、「こいつをこのままにしておいたら、俺たちの立場がヤバい。 しかも、親分のローマ帝国にも怒られちゃう」となり、告発され処罰された、という感じです。

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アガペー

アガペー 意味

概要 [ ] 最初に辞書における語義の説明に軽く触れ、次に、伝統的な用法、各宗教における説明で人々の間に定着している意味を解説し、その後現代の多様な用法まで、歴史に沿って解説する。 辞典等の主要語義の解説 [ ] では、次のような語義をあげている。 親兄弟のいつくしみあう心。 ひろく、やへの思いやり。 男女間の愛情。 大切にすること。 かわいがること。 めでること。 〔〕 神が、全ての人間をあまねく限りなく いつくしんでいること。 〔〕 渇愛、愛着(あいじゃく)、愛欲。 「」の説明では第八支に位置づけられ、迷いの根源として否定的に見られる。 日本語の「愛」の意味の変遷 [ ] 日本の古語においては、「かなし」という音に「愛」の文字を当て、「愛(かな)し」とも書き、相手をいとおしい、かわいい 、と思う気持ち、守りたい思いを抱くさま 、を意味した。 に入り、西洋での語義、すなわち英語の「love」やフランス語の「amour」などの語義が導入された。 その際に、「1. の愛の概念、2. 的な愛の概念、3. 小説の至上主義での愛の概念」などの異なる概念が同時に流れ込み、現在の多様な用法が作られてきた。 伝統的な説明、宗教的な説明 [ ] 古代ギリシア・キリスト教での愛 [ ] において最大のテーマとなっている愛と言えば、まずなによりも である。 そのアガペーとはいかなるものなのか、その特質を説明するにあたって、キリスト教関連の書物や西欧文化圏の書物では、あえて4種類の感情(すでに時代から考えられていた4種類の"愛"、いずれもギリシア語表現。 )について説明している ことが多い。 それらは以下のとおり。 キリスト教では家族愛。 (古代ギリシアでは風、火、水、土を結合させる愛、であった。 キリスト教では性愛。 (古代ギリシアでは自己を充実させる愛、であった。 キリスト教では隣人愛。。 (古代ギリシアでは友人の友人に対する愛。 キリスト教では真の愛。 (古代ギリシアではあるものを他よりも優遇する愛、であった。 )新約聖書においては「神は愛です」( 4:8, 16)に代表されるように、神の本質が愛であり、特にを通して愛が示されている。 「アガペー」及び「フィーリア」は聖書に用いられているが、「エロス」は用いられていない。 イエスは言った「されど我ら汝らに告ぐ、汝らの敵を愛し、汝らを迫害する人のために祈れ」( 5:44)と。 ここに自分を中傷し敵対する相手であれ、神の子供として、また、罪を贖われた者として、隣人とみなして赦し合うべきであるという、人類愛の宣言がある。 は対神徳として信仰、希望、愛を掲げたが、「そのうち最も大いなるは愛なり」( 13:13)と言い、「山を移すほどの大いなる信仰ありとも、愛なくば数うるに足らず」(同13:2)、「愛を追い求めよ」(同14:1)としるし、すべての徳とキリスト教における愛の優位性を確立した。 また彼は、神の永続的な無償の愛を恩寵 charis( 1:5、ほか)と呼び、これはのちに gratiaとラテン語訳されて、キリスト教神学の原理的概念として重んぜられたのである。 西欧の伝統、キリスト教のにおいては、愛は非常に大きなテーマである。 キリスト教においては、「神は愛である」としばしば表現される。 また、「無条件の愛」もたびたび言及されている。 また、主の名と、の妻の名と、愛、これら三つの言葉は、発音がよく似ている。 神の愛はしばしば歴史記述を通して具体的に語られる。 概要としては、愛を受けるに相応しくない者に、神の自由な一方的な選択によって愛が与えられ、その者が、たとい神から離れようとも、神は見捨てない、という内容である。 では、7章8節「ただ、あなたに対する主の 愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、が支配する奴隷の家から救い出されたのである。 」と翻訳されている。 では、)下1章26節「あなたを思ってわたしは悲しむ/兄弟ヨナタンよ、まことの喜び/女の 愛にまさる驚くべきあなたの愛を。 」と翻訳されている。 では、下1章26節「あなたを思ってわたしは悲しむ/兄弟ヨナタンよ、まことの喜び/女の愛にまさる驚くべきあなたの 愛を。 」と翻訳されている。 では、22章2節「神は命じられた。 「あなたの息子、あなたの 愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。 わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。 」 」と翻訳されている。 では、6章5節「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を 愛しなさい。 」と翻訳されている。 なお、主は、10章9節にも記されているとおり、の 嗣業を意味する。 では、19章18節「復讐してはならない。 民の人々に恨みを抱いてはならない。 自分自身を愛するように隣人を 愛しなさい。 わたしは主である。 」と翻訳されている。 では、20章6節並びに5章10節「 わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。 」と翻訳されている。 仏教での愛と慈悲 [ ] における、いわゆる"愛"(英語でloveに相当するような概念)について説明するには、「愛」と翻訳されている概念と、「慈」や「悲」と翻訳されている概念について説明する必要がある。 愛 tRSNaa () 人間の最も根源的な欲望であり、原義は「渇き」であり、人が喉が渇いている時に、水を飲まないではいられないというような衝動をいう。 それに例えられる根源的な衝動が人間存在の奥底に潜在しており、そこでこれを「愛」とか「渇愛」と訳し、時には「恩愛」とも訳す。 広義にはを意味し、狭義にはと同じ意味である。 また、この「愛」はに組み入れられ、第八支となる。 前の受 感受 により、苦痛を受けるものに対しては憎しみ避けようという強い欲求を生じ、楽を与えるものに対してはこれを求めようと熱望する。 苦楽の受に対して愛憎の念を生ずる段階である。 kaama (カーマ) kaamaはふつう「性愛」「性的本能の衝動」「相擁して離れがたく思う男女の愛」「愛欲」の意味に用いられる。 これを「婬」と表現することが多い。 では、については抑制を説いたが、後代のになると、男女の性的結合を絶対視するの影響を受けて、仏教教理を男女の性に結びつけて説く傾向が現れ、男女の交会をそのもの、あるいは仏道成就とみなす傾向さえも見られた。 密教がによって日本に導入された時は、この傾向は払拭されたが、平安末期に(俗にと混同される)が現れ、男女の交会を理智不二に当てはめた。 性愛を表すという語も、この流れであり、しばしば用いられる。 慈悲 preman, sneha preman, snehaは、他人に対する、隔てのない愛情を強調する。 子に対する親の愛が純粋であるように、一切衆生に対してそのような愛情を持てと教える。 この慈愛の心を以て人に話しかけるのが愛語であり、愛情のこもった言葉をかけて人の心を豊かにし、励ます。 この愛の心をもって全ての人々を助けるように働きかけるのが、の理想である。 仏教でも人のことを深くおもい大切にする、という概念はある。 ただし「tRSNaa」や「kaama」の中国語での翻訳字として「愛」の字を当てたため、別の字を翻訳字として当てることになったのである。 特にでは、がと並んで重要なテーマであり、初期仏教の段階ですでに説かれていた。 最古の仏典のひとつとされる『』にも慈悲の章がある。 あたかも母が己の独り子をばように、一切のに対しても、無量のを起こすべし。 全世界に対して無量の慈しみの心を起こすべし(『』 ) 一切に対する純化された想い(心)をという。 それは仏だけでなく、普通の人々の心のの中にもあるものだと大乗仏教では説く。 (や)は、慈悲の象徴ともされ、慈悲を感じることができるように表現されている。 儒教での愛 [ ] は、人がふたり居るときの完成した愛であるが、は、その実現困難性について「仁人は身を殺して以て仁を成すことあり」といい、愛に生きるならば生命を捧げる覚悟が必要だとした。 仁は対人関係において自由な決断により成立する徳である。 孔子は仁の根源を血縁愛であるとした(「孝弟なるものはそれ仁の本をなすか」)。 そしてこの自己犠牲としての愛と、血縁愛としての自己保存欲との間に、恭(道に対するうやうやしさ)、寛(他者に対する許しとしての寛大)、信(他者に誠実で偽りを言わぬ信)、敏(仕事に対する愛)、恵(哀れな人に対するほどこし)などが錯綜し、仁が形成されるとした。 一方で孔子は「吾れ未だ徳を好むこと色を好むが如くする者を見ざるなり」と述べた。 は仁と義に対等の価値をみとめ、利と相反するものとしたが、は義即利とみて、孟子と対立した。 仁をただちに愛としないのは愛を情(作用)とみ、仁を性(本体)とみているからである。 愛の対象 [ ] 詳細は「」を参照 社会的な人間にとって根源的な愛の形態の一つ。 自分自身を支える基本的な力となる。 ( 英語でself-love とも。 narcissism の訳語として用いられることもある。 ) 生まれてきたばかりの赤ん坊は、保護者と接しながら自己と他者の認識を形成する。 その過程で 成人するまでに 自身が無条件に受け入れられていると実感することが、自己愛の形成に大きく関与している。 「自分が望まれている」事を前提に生活できることは、自身を大切にし自己実現に向かって前進する土台となり得る。 また、自己に対する信頼が安定すること、自分という身近な存在を愛せることは、その経験から他者を尊重することにも繋がる。 らからは、自己愛が育って初めて他人を本当に愛することができるようになる、としばしば指摘されている。 自分を愛するように、人を愛することができるという訳である。 自分を愛せない間は、人を愛するのは難しいと言われる。 しかし子供によっては、虐待されたり、自身の尊厳を侵されたりするような環境に置かれることがある。 この場合、その子供は努力次第で逆境に打ち勝ち、人格者に成長する可能性もあるし、自己愛が希薄な自虐的な性格になるなど可能性もある。 もし後者で自己愛を取り戻すには、自身が無条件で受け入れられていると強烈に実感する体験がかぎの一つとなる。 周囲から見て精神的に未熟な者が、恋愛の最中に「恋している自分に恋している」と評されることがある。 これは、対象を愛して 気分が舞い上がりなどして いる自己に酔っている、また、パートナーがいるという優越感に浸っている状態を揶揄するものである。 しかし、本人の認識も、他者も、恋愛の対象も、全面的に真に相互的な恋愛感情を抱いていると誤認しやすい。 「 自己愛にはいくらかの傾向が見出されるが、いずれも全く個別的なものではなく重なり合っていると言えるだろう [ ]」と言う [ ]。 家族愛 [ ] の(1880年) 性的な愛、あるいは愛と性をまとめて扱う場合に「」という言葉が使われる例もある。 なお、「愛」という言葉は、文脈・状況によっては性交そのものを指す例もある(「いっぱい愛して」など)。 は、あらゆる形式の愛が性への盲目的意志に人間を繋縛するものであるとの理由で愛を断罪する。 しかし、その主著には独自の「性愛の形而上学」の考察が含まれている。 それによれば、愛はすべての性欲に根ざしているのであり、将来世代の生存はそれを満足させることにかかっている。 けれども、この性的本能は、たとえば「客観的な賛美の念」といった、さまざまな形に姿を変えて発現することができる。 性的結合は個人のためではなく、種のためのものであり、結婚は愛のためにではなく、便宜のためになされるものにほかならない。 フロイトは性欲のエネルギーをリビドーと名づけ、無意識の世界のダイナミズムの解明につとめたが、とくに幼児性欲の問題は従来の常識的な通念に大きな衝撃を与え、性愛の問題の現代的意味の追求への道を開いた。 たとえばD.Hロレンスの文学は、性愛のいわば現代文明論的な意味の探求を一つの中心課題としているものといってよい。 サルトル、ボーヴォワールらの実存主義者たちにも、人間論の中心問題としての愛、性欲の問題への立ち入った究明の試みがみられる。 生殖とは、生物の個体が自己の体の一部を基として自己と同じ種類の別の個体を生じる現象をいう。 個体にはそれぞれだいたい一定の寿命があって死滅するが、生殖によって種属の絶滅がふせげる。 生物には個体維持の本能とともに生殖を全うしようとする種属保存の本能があり、両者を生物の二大本能という。 生じた個体はその基となった個体とかならずしも同似ではないが、一定の世代数をへて同似のものにもどる。 ) 恋と愛 [ ] The Kiss - Gustav Klimt 男女間・(者における)同性間の愛は、日本語においては 恋という言葉でも表現できる場合もある。 なお、恋も必ずしも人間に対してのみ持つ感情ではない。 植物、土地、歴史等への気持ちにも「恋」という表現が用いられることがある。 恋と愛の両方を英語ではLoveと表現する。 英語におけるLoveと日本語における恋と愛はイコールではない。 これは両言語を用いる各種族の歴史観、宗教観、思想の相違による。 日本語において「ラブ」「Love」は若者の言語や芸術では恋、愛両方を表す言葉として頻繁に用いられている。 滅ぶべきものの本性は可能な限り無窮不死であることを願うが、それはただ生殖によって古いものから新しいものをのこしていくことによって可能である。 この愛を一つの美しい肉体からあらゆる肉体の美へ、心霊上の美へ、職業活動や制度の美へ、さらに学問的認識上の美への愛に昇華させ、ついに美そのものであるイデアの国の認識にいたることが愛の奥義である。 プラトニック・ラブはもとこのような善美な真実在としてのイデアの世界への無限な憧憬と追求であり、真理認識への哲学的衝動である。 しかしプラトンは美しい肉体への愛を排除するものでなく、イデアに対する愛を肉体的なものへの愛と切りはなして考えるものでもない。 憎しみは、怒りや反発など無数の意識に対する過去および未来にわたる一つの信任であり、これらの無数の意識の超越的統一である。 しかし、日常の不純な反省にあっては、「私がかれに反発するのは憎いからだ」とこの関係は逆転され、憎しみは怒りや反発が流出する源としてとらえられる。 プラトンは、エロスは神々と人間との中間者であり、つねに欠乏し、美しいものをうかがい、智慧を欲求する偉大な精霊(ダイモン)であるという。 生殖の恋も愛智としての恋も、ともに不死なるものの欲求である。 恋の奥義は地上の美しいものどもの恋から出発して、しだいに地上的なるものを離れ、ついに永遠にして絶対的な美そのものを認識するに至ることにある。 脚注 [ ] 注釈 [ ]• 『』および『』の冒頭に献呈する相手の名として「テオフィロ様」とあるが、テオ(テオス)は「神」のことで、「神を愛する者」という意味の名である。 は、「言葉を愛すること」という意味からやを指す。 は、「人類を愛すること」という意味で、人類への愛にもとづいた様々な慈善活動を指す。 philharmonie は、「フィレイン」と「」の組み合わせであり、ハーモニーを愛すること、という意味から、交響楽演奏などの意味で使われている。 出典 [ ]• 竹取物語のかぐや姫の昇天の段には「翁をいとほしく愛しとおぼしつることも失せぬ」といった表現もある• スコット・ペック『愛と心理療法』創元社, 1987年, など• ひろさちや 『完全図解 仏教早わかり百科』、1999年12月1日、38頁。 平凡社 哲学事典• 平凡社 哲学事典• 平凡社 哲学事典• 平凡社 哲学事典• 平凡社 哲学事典• 平凡社 哲学事典• 平凡社 哲学事典• 平凡社 哲学事典 参考文献 [ ]• 『愛と心理療法』、1987年、。 『』、1991年、。 ドニ・ド・ルージュモン『愛について — エロスとアガペ』平凡社、1993年、。 『愛とゆるしの心理学』, 1996年、。 『愛の論理』, 2000年、。 ジャック・アタリ『図説「愛」の歴史』原書房、2009年、。 カーター・リンドバーグ『愛の思想史』教文館、2011年、。 関連項目 [ ] で 「 愛」に関する情報が検索できます。 ウィクショナリーの ウィキブックスの ウィキクォートの ウィキソースの コモンズで() ウィキニュースの ウィキバーシティの• - 恋愛は嫉妬を生む。 - 極度に情愛の高まった男女間・異性間が達する。 :愛欲にかかわる• - 愛はアイルランドの漢字表記の略称でもある。 - 国で主に使われるで標準的に用いられるとは、この2文字から始まる。 外部リンク [ ]• (文献)• (英語) - 「愛の哲学」の項目。 (英語) - 「愛」の項目。

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エロスとアガペーの違いとは?哲学におけるエロスの意味

アガペー 意味

忙しい人の為の解説 「アガペー」とは、キリスト教の新約聖書において用いられている愛の概念である。 その特質は、神から与えられ、人々に平等に降り注ぎ、また無償の愛であるとされる。 「 貧乏人こそ救われる」というイエス・キリストのアガペーは、ルールを重んじて、富豪に有利なユダヤ教と深く対立した。 アガペーの概念はどうやってできたの? そもそも、アガペーって「無償の愛」だとかなんとかいうけど、何がそんなにすごいのか? 実はこの「無償の愛」ってかなりやばい。 何がやばいって、愛を無償だと説いたせいでイエス・キリストは死刑になったし、色んな伝道者が殉死(宗教活動で死ぬこと)してしまったんだよね。 このことを話すために、まず当時エルサレムを支配していた「パリサイ人」から軽くおさらいしてみよう!それから、イエスの行った宗教活動の様子の概略を説明する。 ルールを重んじたパリサイ人 パリサイ人とは、紀元前6世紀ごろから紀元後1世紀くらいまで主流だったユダヤ教のグループのことだ。 パリサイ人は基本的に「律法(ルール)」を重んじ、ルールを厳しく守ることこそ良い行いだと思っている集団なのだ。 「パリサイ」には「分離する者」という意味が込められていて、「ルールを守らない人とは違う!」って言っていたくらいなんだ。 また、パリサイ人は、成功した人を優遇していたんだよね。 その考えの背景にあったのは、「裕福な人は努力したから裕福だし、貧乏な人は努力しなかったから貧乏なんだ」っていうパリサイ人の理想があったんだ。 当時のエルサレムの貧富の格差は激しくて、貧乏人は男性は盗みを働いたり、女性は身を売ったりしてお金を稼がなきゃいけない状況にあった。 そんななかで、そもそも「貧乏人にルールを守るのは無理!」となって、貧乏人の不満はたまる一方だった。 救世主と呼ばれたイエス・キリスト こうなったら、エルサレムの貧乏人たちは、「誰かこの状況を助けて!」ということになる。 そうして、誰もが宗教革命を起こすべく、数々の人が指導者になろうと広場で演説を行なったんだよね。 ひときわ目立った思想を説いていて、明らかに人気が高かったのがイエス・キリストだ。 イエスの元に弟子も集まり、本格的な宗教活動になった。 弟子たちも、イエスならこのエルサレムをパリサイ人の支配から救ってくれると期待しながら慕った。 イエス一行は宗教活動をするために、数々のパリサイ人との議論に勝たなきゃならなかった。 信者の前で丸め込まれてしまったら、カリスマとして体面が立たない。 勝って、自分の宗教こそが一番だということを示すため理論武装をしなきゃいけなかった。 イエスの弁舌は最強だった。 イエスの最強さのカギとなった思想の中心にあったのが「 アガペー」なのである。 なぜ「 無償の愛」であるアガペーが強かったのか? 敵にも平等に降り注がれるアガペーとは? 「無償の愛」というのは最大の矛にして、最大の盾である。 パリサイ人「おいおい、君たちの無償の愛?そんなものあるのかね?」 イエス「あります」 パリサイ人「じゃあ、敵の俺のことも愛せるというのか?」 イエス「はい、愛しています」 パリサイ人「は?そんなことあるもんか!これならどうだ!バチーン!!(右の頬を叩く音)」 イエス「どうぞ、左の頬も叩いてください」 パリサイ人「は?おかしいんじゃないの?怒れよ!」 イエス「怒りません。 私は汝の罪を許します。 さあ、左の頬も叩いてください」 パリサイ人「参りました」 というわけだ。 このようにして、幾多のパリサイ人も破り次第にイエスの信者が増えていった。 しかし、イエスの思想というのはあくまで「無償の愛」だ。 そのために、イエスは敵を愛し、貧乏人を愛し、「 究極の平等の愛」を実践していった。 次第に信者を増やし、大きな勢力となっていっても、イエスは宗教活動そっちのけで小汚い盗人や、卑しいとされていた娼婦ばかり気にかけていたのである。 それを見て、後にキリスト教の布教に大きな役割を果たす パウロを含めた弟子たちは「ん?なんかこいつおかしいぞ?宗教活動してても、全然パリサイ人をこらしめないじゃないか!」って感じで不満をためることになる。 というか、「敵をも愛せよとか正気か?俺たちは長年パリサイ人に苦しめられてきた。 イエスはその状況を救ってくれるんじゃないのか!」となるのも、まあ、当たり前だ。 せっかく「打倒パリサイ人」という反旗を掲げて立ち上がっているのに、「その人たちも愛します」とか意味が分からない。 一体イエスは何がしたかったんだ? アガペーが大切な言葉である理由 多分宗教活動の際に、イエスも一緒になってパリサイ人をいじめ始めていたら、きっとここまでキリスト教が大きな勢力になることはなかっただろう。 どうしてキリスト教がこんなに繁栄したのだろうか?原因は勿論一つには特定できないけど、この「アガペー」を巡るエピソードが一つの答えになっている。 さて、アガペーの思想がどのように洗練されるのか、その様子を説明しよう! イエスの反感が高まってくる 弟子たちの、イエスに対するヘイトはだんだんと集まってきた。 更に、イエスの説いた「無償の愛」はそもそも裕福なパリサイ人にとっては厄介な思想だ。 なぜなら、無償の愛が存在したら、自分の富を貧しいものに配分しなきゃいけないからである。 誰でも、自分の利益を奪われるのは嫌だろう。 そういった感情も相まって、だんだんイエスはいろんな人に嫌われ始めてしまう。 当の本人のイエスはそんなことはお構いなしに「アガペー」を説くのである。 「貧しいものこそ救われるべきである」という思想を貫き、病人に親切にする。 しかし、弟子たちの憎悪と、パリサイ人の反感は頂点にまで達し、ついに一番弟子であるユダの裏切りによってイエス・キリストはハメられ、死刑判決を受けるのである。 イエスの十字架にアガペーを見出したパウロ そうして、イエスは多数の信者と、敵であったパリサイ人、そして弟子たちに見守られながら、十字架にかけられて死ぬのである。 パウロは考えた。 実はイエスは逃げようと思えば逃げられたのだ。 何故イエスは逃げなかったのだろう? そして、イエスは死ぬ間際まで、自分の利益について何も考えず、ただ他の人のために教えを説いていた。 イエスって一体何なんだ?そうして、パウロはハッとするのである。 イエスは十字架で、「 自己犠牲的な愛」を体現したのだと…。 イエスのアガペーは、「無償の愛」を究極にまで突き詰めたがゆえに、敵や貧乏人にも降り注がれ、更には自己利益を一切求めないがために、自己犠牲的になることに気が付いた。 「イエスにずっと付き添っていたからわかる。 アガペーはイエスの生き方そのものだったのだと!」 そうして、パウロは弟子一番の伝道師となり、西へ東へとキリスト教を布教していくのである。 アガペーを中心としたキリスト教は各地でも今までの「自己利益的」な宗教と真逆の思想であるために、受け入れと迫害を繰り返していった。 まとめ アガペーの中心的な思想は、「無償の愛」「平等の愛」そして「自己犠牲的な愛」である。 キリスト教一の伝道師であるパウロが新約聖書に「アガペー」をもっとも用いて布教した。 彼はキリストの十字架に深い感銘を受けたのである。 アガペーは、律法(ルール)を重んじ、「裕福な人は努力しているために裕福である」といったパリサイ人の思想と深く対立した。 そうであるがゆえに、イエス・キリストのアガペーの思想は歴史的にも重要な役割を果たすことになったのである。 関連記事.

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