おば みつ pixiv。 #おばみつ 春にあらし【おばみつ】

鬼滅の刃伊黒甘露寺に一目惚れ?カプ名おばみつで靴下や文通関係?

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誰かの腕に、つよくつよく抱かれる夢を見る。 酷く悲しくて、苦しくて、でも確かにそれはしあわせな夢だった。 桜の散りゆく季節。 それはまるで雨のように並木道に降り注ぐ。 街を流れる大きな川の堤防沿いの桜並木は、花見にうってつけの場所だ。 草餅、桜餅、みたらし団子。 次々に浮かんでくるけれど、今は垂涎の思いもこらえたまま、甘露寺蜜璃は健脚を進めた。 広い歩幅で、うつくしい景色も目に留めず、ただただ進む。 女性らしく愛らしい顔立ちに見合わない高い身長、桁外れの腕力。 そして旺盛な食欲。 蜜璃の簡単な構成はこうだ。 三つあみに結わえた色素の薄い長い髪が揺れる。 少しでも力を抜いたら涙がこぼれそうだった。 春になって、新しい生活が始まることに蜜璃は胸を弾ませていた。 だれか素敵なひとに出会えるのではないか。 ずっと夢を見てきた少女漫画やドラマのような恋に一喜一憂できるのではないか。 そんな期待だ。 それなのに、それなのに。 昨日の出来事を思い出すと、それだけで目の奥がつんとする。 一緒に歩いた道を、今日はひとりで歩くことになるなんて。 「ほんとうにここでいいの?」 学生街に位置する定食屋は、年頃の女性が好む外観とは決していえなかった。 蜜璃は今にも音を立てそうな腹を抑えて控えめに笑った。 来てみたかったの、と曖昧な返事をすると、友人の友人の知り合いである同い年の男は納得したような声を出して暖簾をくぐった。 お淑やかに見えているだろうか。 女性らしく見ているだろうか。 蜜璃は名前と年齢しか知らない男の背中の陰で、前髪を整える。 友人に男性を紹介をしてもらったのは、もう何人目だろう。 今度こそ上手くやらなければ、恋愛も恋人も夢のまた夢だ。 最小限の動き席に着くと、すぐに男性の店員がやって来る。 お品書きを眺めるのもほどほどに、男は生姜焼き定食の大盛を注文した。 何度か利用したことがある迷いのなさだ。 慌てる蜜璃に笑いかけると、男はひとつのメニューを指さした。 「これとか、ヘルシーなほうだよ」 サバの味噌煮定食。 その提案に蜜璃がひとつ頷くと、男は店員に注文を通した。 「サバの味噌煮は、ご飯少な目で」 あ、と蜜璃は大きく口を開けたが、声を出すことができなかった。 そうだ、わたしは、お淑やかで小食な普通の女の子。 そのまま目を伏せて、木目が走るのを眺めた。 料理が到着し、他愛もない話に相槌を打ちながら、蜜璃はゆっくりと箸を進めた。 ふっくらとしたサバは確かにおいしい。 小さな口で少しずつ食べ、聞き上手でいて、男性よりもあとに食べ終わる。 そういったことに気を取られすぎていることには、蜜璃も気が付いていた。 だけどそうしないと、うまくできない。 そのせいで味どころか、男の話も表情も、蜜璃はわからないままだった。 「……おかわりは」 同席の男が席を立ったのを見計らったかのように、店員がそう蜜璃に声を掛けてきた。 蜜璃の手元の茶碗には、ゆっくりと食べ進めたおかげで白米がまだ残っている。 おかわりを勧めるタイミングとして良好とはいえない。 「あ、え……い、いらない、です……」 顔の下半分を覆ったマスクに、手ぬぐいを巻き付けた頭。 鋭い目つきだけが覗いている。 店員の男性は少しばかりその瞳を細めたが、蜜璃はまた木目を追いかけていて気が付かなかった。 次の約束を請うメッセージに返信はしなかった。 会ってくれたことだけにお礼を述べるにとどめたのだ。 いつもこうしてうまくいかない。 頑張れば頑張るほど、蜜璃の息が詰まってしまう。 高校を卒業して、田舎を出た。 食べるのがすきだからと調理師の専門学校に入学した。 環境が変われば、蜜璃自身も変われるような気がしていた。 それに、地元では有名になってしまっていた、剛腕で大食いだという周囲の目からも逃れられる。 まっさらな甘露寺蜜璃として、新しい出会いがあると、そう思っていた。 春になってからふたりで出かけた男性はそう多くなかったが、皆おなじような終わり方をした。 蜜璃がもっと頑張れなかった。 それだけだ。 昨日の定食屋に差し掛かったところで、蜜璃は思わず足を止めた。 派手な装飾はないが、達筆で書かれたメニューが掲げられている。 生姜焼き定食にから揚げ定食、カツ丼は卵とじだけでなくソースや味噌、おろしポン酢とレパートリーも豊富だ。 より昨日が悔やまれる。 サバの味噌煮もおいしかったけれど、せめて自分で選びたかった。 できればご飯も大盛りがよかった。 さっきまでそんな気分になれなかったというのに、口内にじわりと唾液が湧く。 まだお昼にも届かない時間だ。 営業前の店には、まだ暖簾も掲げられていないのに、蜜璃の腹時計には時間帯という概念はないのだ。 しかし、昨日初めて店内の様子を目の当たりにしたが、見事に男性客ばかりだった。 さすがに一人で行く勇気はないし、学校の友人にはまだ、この旺盛な食欲をさらけ出してはいない。 「……このお店、気になってたのになあ」 「食べていくか」 「わっ!」 ぼんやりとした意識に突然声を掛けられて、蜜璃は数センチ飛び上がった。 静かな声の主は、昨日おかわりを勧めてくれた男性だった。 おそらく一人でこの店を切り盛りしているのだろう。 調理と配膳に加えて、今日は手に竹ぼうきを携えている。 おそらく開店準備のために出てきたのだろう。 人の気配には敏感な自負のある蜜璃だったが、まったく気が付かなかった。 「入れ」 「あ、は、はい……!」 声を掛けてきた小柄な男性に導かれるまま、蜜璃は店内に足を踏み入れた。 断ることもできただろうに、蜜璃はそうしなかった。 食欲に負けたわけではないと、心内で蜜璃は言い訳をする。 昨日も訪れたはずなのに、初めて訪れたような錯覚に陥っていた。 昨日の自分は、自分であって自分でなかったのかもしれない。 内装も設えも、決して新しくはないが、汚くない。 顔の下半分をマスクで隠した男性が、几帳面に掃除をしている姿が目に浮かぶ。 それに、ボロというわけでもない。 丁寧に手入れされ、磨かれ、清潔さを保っているのだろう。 その年季の入りようから、もしかしたら彼はこの店の数代目なのかもしれない。 肉親より店を譲り受けたのかもしれないし、ここの味に惚れ込んだ彼が以前の店主に弟子入りを志願したのかもれない。 それとも、こういった風合いを好む彼が、中古の一軒家を購入し、改装したのだろうか。 知りたい。 蜜璃は、少し低い位置にある彼の頭をこぼれんばかりの大きな瞳でじぃっと見つめた。 一度も染髪をしたこのないような艶のある黒髪は、ひとつに縛られ、切りそろえられた毛先が束ごとにぴょこぴょこと跳ねている。 結わえているところをほどいたら、肩を少し越すくらいだろう。 その向こうの首は太く、小柄でありながらもその持ち主は男性であることを蜜璃はふと意識した。 「ここに」 すると突然、ぐりんと彼の首が回った。 鋭い目つきが蜜璃を捉える。 それをどこか爬虫類のようだと思ったのは、彼に示されたカウンターの座席のすぐ脇に、蛇の置物があったからだろうか。 まるで本物のようなそれを、角度を変えながら蜜璃が見ていると、男性がまた不意に声を掛けてきた。 「怖いか」 冷然たる目つきとは裏腹に、声色には心配のいろがにじんでいる。 いや、よく見ると細い眉がハの字型だ。 「いえ」 蜜璃は男性に視線を戻すと、思わず笑みをこぼした。 「怖くありません」 蛇も、あなたも。 それならよかった、とひとつ小さくこぼした男性は、すぐに背を向けてしまった。 蜜璃から隠れるようにして額に布をあて、頭部を覆ってどこかたどたどしく端と端を結わえる。 それがひどくかわいらしく、いとおしく思えた蜜璃は、彼に気付かれないように笑った。 席につき、出された水を一口。 昨日と違って、メニューの中から悩みぬいて選んだ豚のしょうが焼き定食は、ほどなくして蜜璃の前に姿を現した。 お皿ひとつひとつに溢れんばかりに盛られた具材、そして何よりどんぶりに山のようによそわれた炊き立ての白米は、空腹の蜜璃にはひどく魅力的に映った。 それは、部活帰りの男子高校生でも目を剥くような量であるが、蜜璃にとってはおいしくいただける範囲内だ。 両手を合わせると、左手のグリーンと右手のピンクのネイルがまるで桜餅のようで、蜜璃はまたしあわせな気持ちになる。 大きな声でいただきます、と言いかけて、蜜璃は思わず周囲を見渡した。 こっそり、隠れるように。 ようすをうかがうように。 店内には、誰もいない。 営業時間を知らせる暖簾も、いまは入口の引き戸の横に立てかけられたままだ。 開店時間前なのだから当然であるが、横並びのカウンター席にも、いるのは蜜璃と、蛇の置物だけ。 すると、カウンターの奥の厨房でなにやら音を立てていた男性が、不意に腕をのばして人差し指を立てた。 その指の先を、蜜璃は目線で追う。 蜜璃から見て左斜め上。 『ご飯おかわり自由』 その文字を見つけた瞬間、蜜璃は思わず声を上げて笑ってしまった。 聞き上手で、非力で、食べるのが遅くて、小食で、お淑やか。 人の目を気にしていた自分がばからしくなってくる。 彼の目には、蜜璃はどう映っているのだろう。 この白米の山を目にしても、なおおかわりの有無を気にするように見えていたのかと思うと、喉の奥が鳴る。 気がついたら、気になるのは周りのことではなく、彼のことばかりになっていた。 「いただきます!」 蜜璃は再び手を合わせ、大きな口に次々と食材を運ぶ。 こってりとした味付けの豚肉は、歯を立てるとかんたんにかみ切れるほどに柔らかい。 炊き立ての甘い白米に、素朴な味わいながら腹の底がじんわりと温まる味噌汁。 付け合せの千切りキャベツも、真っ赤な櫛切りのトマトも、ぜんぶぜんぶ。 「……おいしい」 柔らかく温かい声が思わず漏れる。 そりゃあ、お店なのだからおいしくて当然、と言われればそれまでだ。 言葉を知らない子どものような自らの感想に、蜜璃は急に恥ずかしくなって、首をすくめる。 おどおどとした様子で厨房の彼をうかがった。 そうして大方の予想通り、蜜璃はすぐに目を逸らして、視線を白米に落とすことになった。 しかし、その要因は蜜璃が予測していたものとは全く別のものだ。 彼はひどくやさしい目で蜜璃をみていた。 この炊き立ての白米のような、やわらかな温かさで、いつくしむような、いとおしむような、そんな目だ。 恥ずかしいから見ないでとも、どうしてそんな目で見るのとも、蜜璃は言えなかった。 いや、言わなかった。 そうやってずっと、見ていてほしいと願ったからだった。 定食屋の店主は、名前を伊黒小芭内というそうだ。 蜜璃よりも数センチ身長が低いが、決して華奢ではない。 きっとなにかスポーツや武道をたしなんでいたのだろう。 清潔な真っ白のマスクでいつも顔の半分を覆い、表情がわかりにくい。 それに、唯一覗いている瞳はつり上がっているせいか冷たい印象を受ける。 おっかない店主の店、と揶揄されるのも無理はないと蜜璃は思う。 確かに、伊黒の接客は褒められたものではないのだ。 ただ、それでも客足が途絶えないのは、味と値段と『メガ盛り』と評されるその量だろう。 近くには蜜璃の通う専門学校の他にも大学や高校があり、そこの生徒からは絶大な人気を誇っている。 しかし、蜜璃にとって店主の伊黒は、間違いなく優しいひとだ。 人目を気にする蜜璃を気遣って、開店前の店内に招き入れてくれるのはいつしか恒例となっていた。 あるとき、食事分はもらっていると言う伊黒に「営業時間前にご飯を食べさせてくれる、手間とかいろいろ、あるじゃないですか」と蜜璃も引かなかった。 「何かお返ししたいんです。 あ、ほら、お皿洗いとか! せめて私が使った分だけでも!」 「そうするとこれは賄いということになる」 「う、それじゃあ本末転倒じゃないですか……あ!」 蜜璃は大きな声を上げてぐっと上半身を伊黒に近づけた。 カウンター越しに向かい合っていた伊黒が、即座に一歩後ずさる。 「じゃあ、雇ってくださいませんか? わたし、そこの調理師専門学校の生徒なんです」 接客も得意ですよ、と笑顔を浮かべる蜜璃に伊黒は一度目を見張る。 切れ長のどこか冷たくも見える瞳。 その瞼がやさしく下がって、みかづきがたに細められる。 口元は視認できないが、笑みを讃えているのは間違いない。 この笑顔を知っている。 そんな気がする。 「君が、そう言ってくれるなら」 葉桜が太陽の光を透かすころ、蜜璃は伊黒の細くなる瞳に元気よく頷いた。 「伊黒さん、ちょっと散歩しませんか」 学生でにぎわう昼の営業とその後片付け、そして夜の営業の準備。 それを終えると少しの休憩時間が生じる。 その時間は賄いを味わったあと、少し話をしたり買出しに出かけたりするのだが、今日は蜜璃がそう伊黒を誘った。 そろそろ桜餅の季節が終わってしまう。 蜜璃がアルバイトをはじめて、ちょうどひと月が経つ。 すぐに支度した伊黒は、特に散歩の意義には触れないらしい。 伊黒を連れ出したのにはいくつか理由がある。 ひとつは季節限定の桜餅の食べ納めをしたかったこと、もうひとつは、伊黒と単に並んで道を歩いてみたかったことだ。 言わずとも伊黒は蜜璃の隣を歩き、和菓子屋で桜餅とおはぎを購入する。 自然と弾む足取りでほとんど葉桜になってしまった並木道に差し掛かった。 土手べりに腰を掛けようと誘って、ふたりで川に向かって腰を下ろす。 気温が上がり始めてはいたが、川沿いを走る風は、いくぶんか涼やかだ。 「あったかいお茶があると良かったんですけど。 あ、もう暑いですかねぇ。 梅雨が始まって、終わったら、もう夏ですよ。 伊黒さんは、夏、すきですか? きらいですか?……って、聞いてます?」 伊黒と蜜璃はいつもこうだ。 蜜璃が話の端を発し、そのまま自分で蝶々結びをつくるように連ねていく。 伊黒は静かに耳を澄まし、時折うなずいたり首を縦や横に振ったりするだけなので、確認をとることもある。 そんな一方的にもとれるやり取りも、蜜璃は心地よく感じていたが、さて、伊黒はどうだろう。 「聞いている」 また伊黒はあの優しい目をして蜜璃を見ていた。 どうして、どうしてそんな目をするのだろう。 わかりにくいひと。 ほんとうはとっても、優しいひと。 それは自分だけが知っていればいい。 他の人には「おっかない定食屋の店主」でいてほしい。 そんな意地の悪いことを思ってしまう。 これまでさまざまな男性と会ったり、食事をしたり、映画をみたりした。 どうしても自分をよく見せようとすることばかりに気がいって、相手がどんな目でこちらを見ていたのか、蜜璃は誰一人として思い出すことができない。 それなのに、伊黒がこちらを見てくる目だけは、この優しい目だけは、蜜璃の胸の奥を温めるのだ。 しかし、それだけでなく、ときにはぎゅうっときつく締め付ける。 素敵な男性と知り合って、恋に落ちて、少女マンガや恋愛ドラマのジェットコースターのような感情の起伏に振り回されながら、愛を育む。 蜜璃はそんなことを夢見ていた。 しかし、伊黒との時間は急転直下することも、爆発的なスピードで上昇することも、前後不覚になるほど振り回されることもない。 ただ穏やかに流れる時が優しく蜜璃を包む。 春の海のように、ゆったりとした動きで。 きっとこれが恋であるのだろうと、蜜璃は知った。 背が高くて、男らしくて、ちょっと振り回してくれるような人、だなんて、それは空想上の理想像でしかなくて、蜜璃の中の幻想が作りあげただけのものだ。 ちょっとしたことでもケラケラと笑ってしまう子どもらしさも、食べることがだいすきなところも、平均より高い身長も強い腕っぷしも、すべてすべてすべて、ありのままの蜜璃を優しい目で見ていてくれる。 だいすきなご飯の時間が、彼がいるだけでもっと楽しい時間になる。 これが恋でもなくて、愛でもなくて、しあわせでもないのなら、何だというのだろう。 きっとだれも納得のいく答えはくれない。 なぜならこれは、恋であって愛であって、しあわせだと、蜜璃が感じたからだ。 そして伊黒の優しい目も、同じ意味を持っていたらいいのに。 そう強く、蜜璃は願っていた。 「……伊黒さん!」 たまらなくなった。 蜜璃は両手に桜餅を握ったまま、勢いよく立ち上がった。 膝上丈のフレアスカートが舞い上がり、伊黒の目に焦ったようないろが浮かぶ。 不意に力が込められたせいで、あんこが形をかえてあふれだす。 「わたし、伊黒さんがすき!」 勢いのままに叫んだ蜜璃は、立ち上がるには少々急な勾配の土手で脚を滑らせた。 「わっ!」 「か、んろじっ!」 手から飛び出した桜餅が宙を舞う。 まんまるの太陽に、ピンクとグリーンの餅が重なった。 慌てて腕を伸ばした伊黒が、横抱きにするかたちで倒れこむ蜜璃を抱き留めた。 たくましい腕が蜜璃の身体を力強く抱きしめる。 互いの呼吸が止まる。 とんでもない告白になってしまったが、至近距離で伊黒の目に見つめられて、蜜璃は我知らずのうちに声を漏らしていた。 「わたしを……伊黒さんのお嫁さんに、してください」 飛び上がった桜餅がぽとり、蜜璃の両手の上に戻ってきた。 「……また、君に言わせてしまった」 息を呑む。 舞い戻ってきたのは、桜餅だけではなかった。 大声を上げそうになる。 抱き寄せられた膝の上、力強い腕の力。 垂れ下がる黒髪の隙間から覗く優しい瞳。 笑みを湛えた薄いくちびる。 「勿論だ。 君が俺でいいと言ってくれるなら」 あの夢だ。 誰かにつよく抱かれる、あの夢。 苦しい。 悲しい。 でも、それでも、しあわせな夢。 手を伸ばす。 すべらかな頬に手のひらを寄せると、少しひんやりとしていた。 ああ、なんてしあわせなの。 「い、ぐろさっ、伊黒、さんっ」 桜餅が喉に詰まったように、うまく呼吸ができない。 蜜璃が必死に名前を呼ぶと、伊黒は笑みを深くした。 意外にも節の目立つゆびさきが、頬に添えた蜜璃の手に重なった。 「また……うまれかわれたのね」 どちらともなく引き寄せあい、ふたりの影が重なる。 「ああ。 ずっと君を、探していた」 ふれあったくちびるは暖かく溶け合った。 春の風が、走り抜けていく。 苦しみも悲しみも吹き抜けていく。 [chapter:春にあらし] 「あの日の夜は眠れなかった」 伊黒は薄いくちびるを少々とがらせてそう言った。 蜜璃はまるい瞳をよりまるくして、首をかしげる。 あの日とは、蜜璃が紹介で知り合った同い年の男と伊黒の定食屋を訪れた日のことだ。 もう数か月が経ったというのに、彼はまるで昨日のことのように眉をひそめる。 「……悲しそうな顔をして、君がおれの料理を食べていたから」 ピピ、と伊黒が店の空調をいじる。 どこか恥ずかしさを隠しているようにも見えて、蜜璃は気が付かれないように小さく笑った。 晴れの日が続き、今日はなんと真夏日になるという。 「君のしあわせそうな顔が見たくて、料理を始めたっていうのに」 「え! そ、そうだったの?」 「それに知らない男と一緒に食事をしているなんて、嫉妬でねじきれそうだった」 急に極悪人のような表情になる伊黒に、蜜璃は胸が痛んだ。 記憶がなかったとはいえ、伊黒を傷つけたに違いない。 「ごめんなさい……わたし」 「謝ることじゃない、甘露寺」 「もう甘露寺じゃだめですよ。 お嫁さんになるんですからね」 すると、伊黒は何も言わず、くるりと背を向けて厨房に入って行ってしまう。 これは完全に照れ隠しだ。 「あ、今日はお客さんに包丁なげたらだめですからね、小芭内さん」 「あれは、あのくそがきが」 「くそがきが?」 「いいから準備だ」 「ふふ」 「なんだ」 「しあわせだなーって」 「……そうか」 「小芭内さん、約束守ってくれたんですね」 「……いや、おこがましかったよ」 君をしあわせにする、なんて。 伊黒は小さな声で言った。 「君がしあわせそうに笑うから、おれがしあわせにしてもらっている」 「それは、小芭内さんがわたしをしあわせな気持ちにしてくれるから」 「堂々巡りだな」 「ふふ、それもしあわせです」 今日は久しぶりに、和菓子を買いに行こう。 夏の涼やかでつるんと輝く和菓子がいい。 わらび餅、水まんじゅう、葛切り。 伊黒はどれがすきだろうか。 「さあ、暖簾を出してくれ……蜜璃」 「……はい!」 声に応えて、蜜璃は引き戸を開けた。 穏やかな風が店内に吹き込んでくる。 春も、夏も、そして秋も冬も。 これからずっと、一生、それこそまた生まれ変わっても。 いつか、思い出さないほうが良かったと思うかもしれない、と伊黒は言った。 つらく苦しい記憶でもあるのだからと。 ただ、蜜璃はそうは思わない。 ひとつの確信があるからだ。 みんなみんな、きっと穏やかなしあわせの中で生きている。 そう、きっと。 おいしいものをたくさん食べて、とろけそうなほど優しい目に見つめられて、泣きたいくらいにしあわせにしてもらって。 暖簾を掲げる。 さあ、今日もいちにちが始まる。

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表紙に暗示された伊黒小芭内&甘露寺蜜璃の恋の行方...!!本誌では明かされていない2人の関係【おばみつ】【鬼滅の刃】【きめつのやいば】【考察】※ネタバレ注意

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「まぁまぁ困ったわぁ!」 そうとは思えない伸びやかな声が街の一角に響いた。 胡蝶しのぶは聞き覚えのある声に「あれ?」と買い出し途中の足をとめる。 周りをぐるりと見渡せば、桜餅のような髪色を三つ編みにした女性の後ろ姿があるではないか。 「やっぱり蜜璃さんじゃないですか。 どうしてこんな薬屋通りに?」 「あ〜! しのぶちゃんだわ! お休みの日に偶然会えるなんてとっても嬉しい! 素敵ね!」 ギュウとしのぶは蜜璃に抱きしめられ、はちきれんばかりの豊かな胸が押し付けられる。 薄緑の毛先に桃色の奇抜な髪色を持つこの女性は鬼殺隊の恋柱の甘露寺蜜璃という。 なんでも昔は黒髪だったらしいが、大食漢な彼女が桜餅を何日も食べ続けた為に髪が変色したと、眉唾には信じがたいエピソードをもっている奇特な方である。 そんな彼女、今日は黒い隊服を脱ぎどこにでもいる可愛らしい女学生といった服装であった。 桃色の髪も高い位置で結われ、赤色の大きなリボンが座している。 その蜜璃は嬉しそうに頬を染め「素敵!素敵だわ!」と私との会合を心から喜んでいる様子だ。 膨よかな胸に埋もれるしのぶは小さく苦笑を浮かべた。 しのぶの問いかけた質問は右から左へと流されてしまったようだ。 「先ほど何か悩まれている声が聞こえましたが、なにかここで探し物でも?」 「あっごめんなさい!わたしすっかり舞い上がっちゃって……。 」 「いいえ気にしないでください。 休みが合うことは珍しいですしね。 」 「そうよね〜! しのぶちゃんとたくさんお話したいけど、こればっかりは贅沢言ってられないものね。 あッ!そういえばね! この先に美味しいお店を見つけたのよ! なんでもふわふわの洋菓子が美味しいらしくてね……」 おっとまた話が脱線してきた。 しのぶがコホンと咳をすれば、蜜璃はまたやっちゃったわ!と両手を広げ顔を真っ赤にする。 「ご、ごめんなさいしのぶちゃん!私ったらついつい話をおかしくさせちゃって……。 そうそう! ここにきた理由よね! それはね、私がおつかいを頼まれたからです!! 」 どーん。 えっへんと腰に手を添え、蜜璃は何故か自慢げだ。 一方、しのぶは大きな黒目をぱちぱちと瞬くとすぐにその表情を曇らせた。 「おつかい…ですか?柱である蜜璃さんに?」 「あっ違うのよ!鬼殺隊とは関わりない人だから!」 眉をひそめたしのぶに蜜璃は両手を広げ慌てて否定する。 柱を足にするなんて階級の乱れに繋がりかねない御法度である。 今回は違ったものの、蜜璃さんならひょいひょいと言葉に乗せられてしまいそうだ。 優しい彼女に甘える隊員が今後現れるかもしれない。 (……あぁ、でも彼が許さないか。 ) しのぶの脳裏にネチネチと粘着質……いや、注意深く慎重な男の顔が浮かぶ。 彼が同じ柱である甘露寺蜜璃を特別気にかけているのは周知の事実だ。 その彼にそれとなく話してみようか。 多少暴走するかもしれないが、抑止には最適だろう。 「しのぶちゃん? 突然考え込んだみたいだけど大丈夫かしら? 」 ハッと意識を戻しあわてて謝れば、蜜璃に「いいのよ気にしないでー」と気遣われた。 失態に頬の熱を高めたしのぶはコホンと咳をしなおす。 「それで…おつかい?でしたよね。 」 「そうよ!! でもコレは食べ物ではないみたいだし、とりあえずここに売ってるって言われてきたのだけど、でもお店がたくさんありすぎて迷ってしまったの。 」 がっくりと蜜璃は肩を落としている。 喋るたびに表情がコロコロと変わりとても表現豊かだ。 しのぶはふむと顎に手を添える。 おおよその事情は分かった。 蜜璃さんは誰かしらから買い出しを頼まれたが、買う場所も肝心の物すら把握できていないのだ。 おかしな頼まれごとだ、効率が悪すぎる。 「どういった品目なんですか? よろしければお手伝いします。 」 「えっ!!ほんと…アッ!でも…………う……ごめんなさい!!ひとりで探してきてほしいって頼まれてるのよ。 」 だからごめんなさい。 そう心底申し訳ないと言ったように更に蜜璃は肩を落とした。 おや、少しキナ臭くなってきた。 しのぶは可憐だといわれる笑顔を引っ込め細い眉をたらりと下げるとため息を吐いた。 「そうですか……お手伝いできないのは残念です。 」 「うっ…ごめんなさい。 ほんとは、ほんとはとっても手伝ってほしいのだけど……」 「いいえお気になさらないでください。 ……ところで、その頼まれたお方はどなたなんですか?」 「え? えっとねぇ、三つ先角を曲がったところにある大きな商家の息子さんよ。 少し前に甘味処で知り合ったの。 」 あそこの息子といえば、色魔のボンクラ息子として有名ではないか。 嫌な話の流れにしのぶは目線を鋭いものとさせる。 蜜璃は続いて語った。 「それでね、今日たまたま街で会ったらお困りになっているようでね、この品物どうか買ってきてほしいって頼まれちゃって。 突然だったから驚いちゃったけど、困っている人は助けないとね!!」 この品物と言う蜜璃の手には一枚の紙片がある。 見せてほしいと言ったところで蜜璃を困らせるだけだ。 どうにかして見れないものか。 そんなしのぶの思いが伝わったのか、突然強い突風が辺りに吹き荒れた。 蜜璃の細い指で摘んでいた紙片が風に煽られ飛ばされてゆく。 「あったいへんだわ!紙が!!」 このまま無くなったのを理由にどうにか蜜理を言いくるめておつかいを断念させようか。 だが紙の飛んで行った方向に蛇のようにネチッこい人を見つけ、これは運が良いとしのぶはにっこり笑った。 いつもは屋敷近くにいる虫や鼠を食べているのだが、前回の任務で彼も傷を負ってしまい。 その詫びとして少し高めの餌を買いに来たのだ。 予想以上に良いものが手に入って伊黒はご機嫌だった。 勿論表情には一切出ていない。 これはアイツも満足するだろう、そう鏑丸の待つ屋敷へと足を進めようとした。 その時突如突風が吹いた。 ビュウウと大きな風の音にのって伊黒の顔に小さなものが飛んできた。 流石の反射神経でそれを受け止める。 ぐしゃり、片手に潰してしまったそれはなにやら文字が書かれた小さな用紙だ。 「きゃ〜〜!すみません!!それ私のもので……ってアラァ!伊黒さん!」 「……!か、甘露寺!!」 目に毒な大きな胸を揺らし現れた彼女は、見慣れた隊服姿ではなく、見慣れない私服姿を身に纏っている。 いつものおさげは頭頂で纏められているのか、首筋はスッキリとしており甘露寺の愛らしさを強調させる赤い髪留めが鎮座していた。 なるほどこういうものも好きなのか。 そして、その少し背後には薬屋の紙袋を抱えた蟲柱胡蝶しのぶが涼しい顔で立っていた。 「…と胡蝶もいたか。 」 「うふふ私はついでですか?」 含みのある言葉に眉をひそめる。 だが蜜璃からぎゅっとその手を握られれば、あっという間にしのぶの存在は彼方に消える。 「あーん伊黒さん!素敵!ありがとう拾ってくださって!」 「……あぁ。 甘露寺のものだったのか。 それは良かった。 」 「それ、竹田屋の息子さんから渡された用紙ですものね。 無くならなくて良かったです。 」 竹田屋とは色魔のボンクラ息子の商店である。 スキンシップに気張っている彼にしのぶがそう言えば、メモを返そうとした伊黒の動きが止まった。 「……あの噂の商店の息子か。 」 「? うわさ?」 首をひねる甘露寺の背後からしのぶが答える。 「ええ、そうらしいです。 なんでも偶然会ってわざわざ蜜璃さんにお声かけされたようで。 」 「偶然、わざわざと。 ……なるほど理解した。 」 「え、えっと何のお話かしら?」 オロオロとしのぶと伊黒の顔を交互に見る蜜璃に、しのぶは名案だとばかりに手をポンと叩いた。 「そうです、伊黒さんに頼まれごとをお手伝いしてもらうのはどうですか?」 「え、でも私一人で買ってきてって頼まれているのよ?」 「それはきっと気恥ずかしいからですよ、蜜璃さんが頼るのは女性だと思ったのでしょう。 同じ男性である伊黒さんならなにも問題はないですよ。 」 つらつらと述べてゆけば蜜璃は困った顔で「そうなのかしら…?」と唸る。 腕を組んで思案している蜜璃を横目にメモを持っている伊黒に目線を送る。 そうすれば伊黒は蜜璃が頑なに内緒にしていたメモを開封した。 うんうんと唸っている蜜璃をいいことにしのぶもそれを覗き込む。 そこには綺麗とは言い難い乱雑な筆跡で、いわゆるマニアックな性具の名称が記されていた。 「うわ……。 」 「…………。 」 思わずといった様子でしのぶから声が漏れた。 ビリィッと伊黒の手のひらの中で紙が細切れになる。 紙の断裂音にさすがの蜜璃も目をまんまると開き啞然とした。 「えっえっ!紙が?えっどうしたの伊黒さん!?」 「あら蜜璃さん。 伊黒さんが代わりに行ってくださるようですよ。 」 「そ、そうなの? でもわたしが頼まれたから最後まで……」 「いや、これは俺の方が良いだろう。 悪いな甘露寺、奪ってしまう形になって。 」 「え! そんな!! じゃあお願いしようかしら…???」 伊黒の常にない強引な物言いに蜜璃はたじろいだ様子だったが、首を傾げている間にあっという間に話がついた。 しのぶは伊黒の背から滲み出る怒りを視界の端にフゥと息を吐いた。 とんでもない輩がいたものだ。 女性に対する酷い侮辱で、嫌がらせである。 なまじ豪家の息子であるから周りも止められらずやりたい放題なのだろう。 蜜璃がこの手に関しておぼこくて良かったものだ。 しのぶと伊黒が各々の静かな怒りに身を焦がしていると、蜜璃は「あぁ!これも伝えないとね!」と突然叫んだ。 「あとね!こちらの品物を買ったらご自宅まで運んできてほしいって言われてるの。 」 どうしてかしらね?人差し指を唇に添え蜜璃は可愛らしく首を傾げる。 しのぶは思わず白目になりかけた。 ズキズキと痛む頭に眉間を抑える。 なるほど男はそのままパクリと蜜璃を頂くつもりだったらしい。 正に鴨がネギを背負ってくるというわけだ。 うまく言いくるめられる蜜璃も蜜璃である。 危機管理がなってないに過ぎる。 いつか場を作ってしっかりと説かねばなない……いちおうカナヲにもしておこうか。 「……ほぉ…。 」 (これはフォローのしようがないです……。 ) 伊黒から漏れ出る感情がピリピリと肌を粟立たせた。 流石は柱である抑えられてもその殺気は一級品だ。 周囲の空気が徐々に重くなっていく。 ほんとうにこの伊黒さんにこの件を任せていいのだろうか心配になってきた、主に男の安否が。 一方、蜜璃は肝が座っているのか抜けているのか。 伊黒の殺気をものともせずに「でも流石に殿方の家に一人で行くのはふしだらよねぇ」と呑気に独り言を言っている。 鬼滅隊が守るべき一般人を傷つけるなんて本末転倒である。 この場合、しのぶは隊員として伊黒に「落ち着いてください」と釘を刺さなければいけない。 けれど、これは、立派な変態行為。 個人的には報復、万々歳だ。 しのぶは甘露寺蜜璃の友としてにっこり笑みを伊黒に向けた。 「伊黒さん、患者は蝶屋敷に連れてきてくださいね。 」 「……あぁ了承した。 」 苛立ち気にこちらを見た伊黒は、胡蝶の背中を押す台詞に驚いたようだったが、直ぐに目に爛々と光らせ怒りの表情に戻った。 要は結果として怪我人を出さなければいいのだ。 結果良ければ全て良し。 ボロボロになった男をどう治療してやろうか、しのぶはとびっきりの笑顔を浮かべた。 蛇と蟲が密かに共同戦線を張っていたところ、そんなことをつゆも知らない蜜璃はくるりと振り向いた。 「ところでその品物っていったい何だったの?」 ゲフゥッと激しく隣の男が咳き込んだ。 あらあらとしのぶは頬に手を添える。 爆弾を放った蜜璃は私何か変なこと言ったかしら?といった表情で大きな目をパチパチと瞬いていた。 こちらに「どうにかしろ!」との視線が刺さるが、それを黙殺しコテンと首を傾げた。 「さあ私もさっぱり…なんでしょうね?」 素知らぬふりをしたのは、淑女がいかがわしいものを知っているのが恥ずかしいからだ、決して面白そうだからではない、決して。 伊黒の怒りがしのぶに突き刺さるがすぐに霧散した。 蜜璃が伊黒に曇りない目を向けたのだ。 真っ直ぐな愛しい娘の眼差しに伊黒はタジタジである。 戦闘中でも聞かなさそうなグゥと情けないうめき声をあげている。 「伊黒さん?」 愛らしい蜜璃の顔が伊黒に近づく。 視界の暴力に言葉を詰まらせていた伊黒は限界だと言わんばかりに声を張り上げた。 「……甘露寺はまだ知らなくていい…いや一生知らなくていい…っ!!」 「い、一生ぉ!?」 顔を隠し真っ赤な耳で叫ぶ伊黒と、ガーンとショックを受けて青ざめる蜜璃。 そんなふたりを見て「あはは」と無意識にしのぶは笑っていた。 後日、運悪く包帯大けがを負ったという一般人を伊黒が蝶屋敷に保護してきたそうだ。

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おばみつ

おば みつ pixiv

誰かの腕に、つよくつよく抱かれる夢を見る。 酷く悲しくて、苦しくて、でも確かにそれはしあわせな夢だった。 桜の散りゆく季節。 それはまるで雨のように並木道に降り注ぐ。 街を流れる大きな川の堤防沿いの桜並木は、花見にうってつけの場所だ。 草餅、桜餅、みたらし団子。 次々に浮かんでくるけれど、今は垂涎の思いもこらえたまま、甘露寺蜜璃は健脚を進めた。 広い歩幅で、うつくしい景色も目に留めず、ただただ進む。 女性らしく愛らしい顔立ちに見合わない高い身長、桁外れの腕力。 そして旺盛な食欲。 蜜璃の簡単な構成はこうだ。 三つあみに結わえた色素の薄い長い髪が揺れる。 少しでも力を抜いたら涙がこぼれそうだった。 春になって、新しい生活が始まることに蜜璃は胸を弾ませていた。 だれか素敵なひとに出会えるのではないか。 ずっと夢を見てきた少女漫画やドラマのような恋に一喜一憂できるのではないか。 そんな期待だ。 それなのに、それなのに。 昨日の出来事を思い出すと、それだけで目の奥がつんとする。 一緒に歩いた道を、今日はひとりで歩くことになるなんて。 「ほんとうにここでいいの?」 学生街に位置する定食屋は、年頃の女性が好む外観とは決していえなかった。 蜜璃は今にも音を立てそうな腹を抑えて控えめに笑った。 来てみたかったの、と曖昧な返事をすると、友人の友人の知り合いである同い年の男は納得したような声を出して暖簾をくぐった。 お淑やかに見えているだろうか。 女性らしく見ているだろうか。 蜜璃は名前と年齢しか知らない男の背中の陰で、前髪を整える。 友人に男性を紹介をしてもらったのは、もう何人目だろう。 今度こそ上手くやらなければ、恋愛も恋人も夢のまた夢だ。 最小限の動き席に着くと、すぐに男性の店員がやって来る。 お品書きを眺めるのもほどほどに、男は生姜焼き定食の大盛を注文した。 何度か利用したことがある迷いのなさだ。 慌てる蜜璃に笑いかけると、男はひとつのメニューを指さした。 「これとか、ヘルシーなほうだよ」 サバの味噌煮定食。 その提案に蜜璃がひとつ頷くと、男は店員に注文を通した。 「サバの味噌煮は、ご飯少な目で」 あ、と蜜璃は大きく口を開けたが、声を出すことができなかった。 そうだ、わたしは、お淑やかで小食な普通の女の子。 そのまま目を伏せて、木目が走るのを眺めた。 料理が到着し、他愛もない話に相槌を打ちながら、蜜璃はゆっくりと箸を進めた。 ふっくらとしたサバは確かにおいしい。 小さな口で少しずつ食べ、聞き上手でいて、男性よりもあとに食べ終わる。 そういったことに気を取られすぎていることには、蜜璃も気が付いていた。 だけどそうしないと、うまくできない。 そのせいで味どころか、男の話も表情も、蜜璃はわからないままだった。 「……おかわりは」 同席の男が席を立ったのを見計らったかのように、店員がそう蜜璃に声を掛けてきた。 蜜璃の手元の茶碗には、ゆっくりと食べ進めたおかげで白米がまだ残っている。 おかわりを勧めるタイミングとして良好とはいえない。 「あ、え……い、いらない、です……」 顔の下半分を覆ったマスクに、手ぬぐいを巻き付けた頭。 鋭い目つきだけが覗いている。 店員の男性は少しばかりその瞳を細めたが、蜜璃はまた木目を追いかけていて気が付かなかった。 次の約束を請うメッセージに返信はしなかった。 会ってくれたことだけにお礼を述べるにとどめたのだ。 いつもこうしてうまくいかない。 頑張れば頑張るほど、蜜璃の息が詰まってしまう。 高校を卒業して、田舎を出た。 食べるのがすきだからと調理師の専門学校に入学した。 環境が変われば、蜜璃自身も変われるような気がしていた。 それに、地元では有名になってしまっていた、剛腕で大食いだという周囲の目からも逃れられる。 まっさらな甘露寺蜜璃として、新しい出会いがあると、そう思っていた。 春になってからふたりで出かけた男性はそう多くなかったが、皆おなじような終わり方をした。 蜜璃がもっと頑張れなかった。 それだけだ。 昨日の定食屋に差し掛かったところで、蜜璃は思わず足を止めた。 派手な装飾はないが、達筆で書かれたメニューが掲げられている。 生姜焼き定食にから揚げ定食、カツ丼は卵とじだけでなくソースや味噌、おろしポン酢とレパートリーも豊富だ。 より昨日が悔やまれる。 サバの味噌煮もおいしかったけれど、せめて自分で選びたかった。 できればご飯も大盛りがよかった。 さっきまでそんな気分になれなかったというのに、口内にじわりと唾液が湧く。 まだお昼にも届かない時間だ。 営業前の店には、まだ暖簾も掲げられていないのに、蜜璃の腹時計には時間帯という概念はないのだ。 しかし、昨日初めて店内の様子を目の当たりにしたが、見事に男性客ばかりだった。 さすがに一人で行く勇気はないし、学校の友人にはまだ、この旺盛な食欲をさらけ出してはいない。 「……このお店、気になってたのになあ」 「食べていくか」 「わっ!」 ぼんやりとした意識に突然声を掛けられて、蜜璃は数センチ飛び上がった。 静かな声の主は、昨日おかわりを勧めてくれた男性だった。 おそらく一人でこの店を切り盛りしているのだろう。 調理と配膳に加えて、今日は手に竹ぼうきを携えている。 おそらく開店準備のために出てきたのだろう。 人の気配には敏感な自負のある蜜璃だったが、まったく気が付かなかった。 「入れ」 「あ、は、はい……!」 声を掛けてきた小柄な男性に導かれるまま、蜜璃は店内に足を踏み入れた。 断ることもできただろうに、蜜璃はそうしなかった。 食欲に負けたわけではないと、心内で蜜璃は言い訳をする。 昨日も訪れたはずなのに、初めて訪れたような錯覚に陥っていた。 昨日の自分は、自分であって自分でなかったのかもしれない。 内装も設えも、決して新しくはないが、汚くない。 顔の下半分をマスクで隠した男性が、几帳面に掃除をしている姿が目に浮かぶ。 それに、ボロというわけでもない。 丁寧に手入れされ、磨かれ、清潔さを保っているのだろう。 その年季の入りようから、もしかしたら彼はこの店の数代目なのかもしれない。 肉親より店を譲り受けたのかもしれないし、ここの味に惚れ込んだ彼が以前の店主に弟子入りを志願したのかもれない。 それとも、こういった風合いを好む彼が、中古の一軒家を購入し、改装したのだろうか。 知りたい。 蜜璃は、少し低い位置にある彼の頭をこぼれんばかりの大きな瞳でじぃっと見つめた。 一度も染髪をしたこのないような艶のある黒髪は、ひとつに縛られ、切りそろえられた毛先が束ごとにぴょこぴょこと跳ねている。 結わえているところをほどいたら、肩を少し越すくらいだろう。 その向こうの首は太く、小柄でありながらもその持ち主は男性であることを蜜璃はふと意識した。 「ここに」 すると突然、ぐりんと彼の首が回った。 鋭い目つきが蜜璃を捉える。 それをどこか爬虫類のようだと思ったのは、彼に示されたカウンターの座席のすぐ脇に、蛇の置物があったからだろうか。 まるで本物のようなそれを、角度を変えながら蜜璃が見ていると、男性がまた不意に声を掛けてきた。 「怖いか」 冷然たる目つきとは裏腹に、声色には心配のいろがにじんでいる。 いや、よく見ると細い眉がハの字型だ。 「いえ」 蜜璃は男性に視線を戻すと、思わず笑みをこぼした。 「怖くありません」 蛇も、あなたも。 それならよかった、とひとつ小さくこぼした男性は、すぐに背を向けてしまった。 蜜璃から隠れるようにして額に布をあて、頭部を覆ってどこかたどたどしく端と端を結わえる。 それがひどくかわいらしく、いとおしく思えた蜜璃は、彼に気付かれないように笑った。 席につき、出された水を一口。 昨日と違って、メニューの中から悩みぬいて選んだ豚のしょうが焼き定食は、ほどなくして蜜璃の前に姿を現した。 お皿ひとつひとつに溢れんばかりに盛られた具材、そして何よりどんぶりに山のようによそわれた炊き立ての白米は、空腹の蜜璃にはひどく魅力的に映った。 それは、部活帰りの男子高校生でも目を剥くような量であるが、蜜璃にとってはおいしくいただける範囲内だ。 両手を合わせると、左手のグリーンと右手のピンクのネイルがまるで桜餅のようで、蜜璃はまたしあわせな気持ちになる。 大きな声でいただきます、と言いかけて、蜜璃は思わず周囲を見渡した。 こっそり、隠れるように。 ようすをうかがうように。 店内には、誰もいない。 営業時間を知らせる暖簾も、いまは入口の引き戸の横に立てかけられたままだ。 開店時間前なのだから当然であるが、横並びのカウンター席にも、いるのは蜜璃と、蛇の置物だけ。 すると、カウンターの奥の厨房でなにやら音を立てていた男性が、不意に腕をのばして人差し指を立てた。 その指の先を、蜜璃は目線で追う。 蜜璃から見て左斜め上。 『ご飯おかわり自由』 その文字を見つけた瞬間、蜜璃は思わず声を上げて笑ってしまった。 聞き上手で、非力で、食べるのが遅くて、小食で、お淑やか。 人の目を気にしていた自分がばからしくなってくる。 彼の目には、蜜璃はどう映っているのだろう。 この白米の山を目にしても、なおおかわりの有無を気にするように見えていたのかと思うと、喉の奥が鳴る。 気がついたら、気になるのは周りのことではなく、彼のことばかりになっていた。 「いただきます!」 蜜璃は再び手を合わせ、大きな口に次々と食材を運ぶ。 こってりとした味付けの豚肉は、歯を立てるとかんたんにかみ切れるほどに柔らかい。 炊き立ての甘い白米に、素朴な味わいながら腹の底がじんわりと温まる味噌汁。 付け合せの千切りキャベツも、真っ赤な櫛切りのトマトも、ぜんぶぜんぶ。 「……おいしい」 柔らかく温かい声が思わず漏れる。 そりゃあ、お店なのだからおいしくて当然、と言われればそれまでだ。 言葉を知らない子どものような自らの感想に、蜜璃は急に恥ずかしくなって、首をすくめる。 おどおどとした様子で厨房の彼をうかがった。 そうして大方の予想通り、蜜璃はすぐに目を逸らして、視線を白米に落とすことになった。 しかし、その要因は蜜璃が予測していたものとは全く別のものだ。 彼はひどくやさしい目で蜜璃をみていた。 この炊き立ての白米のような、やわらかな温かさで、いつくしむような、いとおしむような、そんな目だ。 恥ずかしいから見ないでとも、どうしてそんな目で見るのとも、蜜璃は言えなかった。 いや、言わなかった。 そうやってずっと、見ていてほしいと願ったからだった。 定食屋の店主は、名前を伊黒小芭内というそうだ。 蜜璃よりも数センチ身長が低いが、決して華奢ではない。 きっとなにかスポーツや武道をたしなんでいたのだろう。 清潔な真っ白のマスクでいつも顔の半分を覆い、表情がわかりにくい。 それに、唯一覗いている瞳はつり上がっているせいか冷たい印象を受ける。 おっかない店主の店、と揶揄されるのも無理はないと蜜璃は思う。 確かに、伊黒の接客は褒められたものではないのだ。 ただ、それでも客足が途絶えないのは、味と値段と『メガ盛り』と評されるその量だろう。 近くには蜜璃の通う専門学校の他にも大学や高校があり、そこの生徒からは絶大な人気を誇っている。 しかし、蜜璃にとって店主の伊黒は、間違いなく優しいひとだ。 人目を気にする蜜璃を気遣って、開店前の店内に招き入れてくれるのはいつしか恒例となっていた。 あるとき、食事分はもらっていると言う伊黒に「営業時間前にご飯を食べさせてくれる、手間とかいろいろ、あるじゃないですか」と蜜璃も引かなかった。 「何かお返ししたいんです。 あ、ほら、お皿洗いとか! せめて私が使った分だけでも!」 「そうするとこれは賄いということになる」 「う、それじゃあ本末転倒じゃないですか……あ!」 蜜璃は大きな声を上げてぐっと上半身を伊黒に近づけた。 カウンター越しに向かい合っていた伊黒が、即座に一歩後ずさる。 「じゃあ、雇ってくださいませんか? わたし、そこの調理師専門学校の生徒なんです」 接客も得意ですよ、と笑顔を浮かべる蜜璃に伊黒は一度目を見張る。 切れ長のどこか冷たくも見える瞳。 その瞼がやさしく下がって、みかづきがたに細められる。 口元は視認できないが、笑みを讃えているのは間違いない。 この笑顔を知っている。 そんな気がする。 「君が、そう言ってくれるなら」 葉桜が太陽の光を透かすころ、蜜璃は伊黒の細くなる瞳に元気よく頷いた。 「伊黒さん、ちょっと散歩しませんか」 学生でにぎわう昼の営業とその後片付け、そして夜の営業の準備。 それを終えると少しの休憩時間が生じる。 その時間は賄いを味わったあと、少し話をしたり買出しに出かけたりするのだが、今日は蜜璃がそう伊黒を誘った。 そろそろ桜餅の季節が終わってしまう。 蜜璃がアルバイトをはじめて、ちょうどひと月が経つ。 すぐに支度した伊黒は、特に散歩の意義には触れないらしい。 伊黒を連れ出したのにはいくつか理由がある。 ひとつは季節限定の桜餅の食べ納めをしたかったこと、もうひとつは、伊黒と単に並んで道を歩いてみたかったことだ。 言わずとも伊黒は蜜璃の隣を歩き、和菓子屋で桜餅とおはぎを購入する。 自然と弾む足取りでほとんど葉桜になってしまった並木道に差し掛かった。 土手べりに腰を掛けようと誘って、ふたりで川に向かって腰を下ろす。 気温が上がり始めてはいたが、川沿いを走る風は、いくぶんか涼やかだ。 「あったかいお茶があると良かったんですけど。 あ、もう暑いですかねぇ。 梅雨が始まって、終わったら、もう夏ですよ。 伊黒さんは、夏、すきですか? きらいですか?……って、聞いてます?」 伊黒と蜜璃はいつもこうだ。 蜜璃が話の端を発し、そのまま自分で蝶々結びをつくるように連ねていく。 伊黒は静かに耳を澄まし、時折うなずいたり首を縦や横に振ったりするだけなので、確認をとることもある。 そんな一方的にもとれるやり取りも、蜜璃は心地よく感じていたが、さて、伊黒はどうだろう。 「聞いている」 また伊黒はあの優しい目をして蜜璃を見ていた。 どうして、どうしてそんな目をするのだろう。 わかりにくいひと。 ほんとうはとっても、優しいひと。 それは自分だけが知っていればいい。 他の人には「おっかない定食屋の店主」でいてほしい。 そんな意地の悪いことを思ってしまう。 これまでさまざまな男性と会ったり、食事をしたり、映画をみたりした。 どうしても自分をよく見せようとすることばかりに気がいって、相手がどんな目でこちらを見ていたのか、蜜璃は誰一人として思い出すことができない。 それなのに、伊黒がこちらを見てくる目だけは、この優しい目だけは、蜜璃の胸の奥を温めるのだ。 しかし、それだけでなく、ときにはぎゅうっときつく締め付ける。 素敵な男性と知り合って、恋に落ちて、少女マンガや恋愛ドラマのジェットコースターのような感情の起伏に振り回されながら、愛を育む。 蜜璃はそんなことを夢見ていた。 しかし、伊黒との時間は急転直下することも、爆発的なスピードで上昇することも、前後不覚になるほど振り回されることもない。 ただ穏やかに流れる時が優しく蜜璃を包む。 春の海のように、ゆったりとした動きで。 きっとこれが恋であるのだろうと、蜜璃は知った。 背が高くて、男らしくて、ちょっと振り回してくれるような人、だなんて、それは空想上の理想像でしかなくて、蜜璃の中の幻想が作りあげただけのものだ。 ちょっとしたことでもケラケラと笑ってしまう子どもらしさも、食べることがだいすきなところも、平均より高い身長も強い腕っぷしも、すべてすべてすべて、ありのままの蜜璃を優しい目で見ていてくれる。 だいすきなご飯の時間が、彼がいるだけでもっと楽しい時間になる。 これが恋でもなくて、愛でもなくて、しあわせでもないのなら、何だというのだろう。 きっとだれも納得のいく答えはくれない。 なぜならこれは、恋であって愛であって、しあわせだと、蜜璃が感じたからだ。 そして伊黒の優しい目も、同じ意味を持っていたらいいのに。 そう強く、蜜璃は願っていた。 「……伊黒さん!」 たまらなくなった。 蜜璃は両手に桜餅を握ったまま、勢いよく立ち上がった。 膝上丈のフレアスカートが舞い上がり、伊黒の目に焦ったようないろが浮かぶ。 不意に力が込められたせいで、あんこが形をかえてあふれだす。 「わたし、伊黒さんがすき!」 勢いのままに叫んだ蜜璃は、立ち上がるには少々急な勾配の土手で脚を滑らせた。 「わっ!」 「か、んろじっ!」 手から飛び出した桜餅が宙を舞う。 まんまるの太陽に、ピンクとグリーンの餅が重なった。 慌てて腕を伸ばした伊黒が、横抱きにするかたちで倒れこむ蜜璃を抱き留めた。 たくましい腕が蜜璃の身体を力強く抱きしめる。 互いの呼吸が止まる。 とんでもない告白になってしまったが、至近距離で伊黒の目に見つめられて、蜜璃は我知らずのうちに声を漏らしていた。 「わたしを……伊黒さんのお嫁さんに、してください」 飛び上がった桜餅がぽとり、蜜璃の両手の上に戻ってきた。 「……また、君に言わせてしまった」 息を呑む。 舞い戻ってきたのは、桜餅だけではなかった。 大声を上げそうになる。 抱き寄せられた膝の上、力強い腕の力。 垂れ下がる黒髪の隙間から覗く優しい瞳。 笑みを湛えた薄いくちびる。 「勿論だ。 君が俺でいいと言ってくれるなら」 あの夢だ。 誰かにつよく抱かれる、あの夢。 苦しい。 悲しい。 でも、それでも、しあわせな夢。 手を伸ばす。 すべらかな頬に手のひらを寄せると、少しひんやりとしていた。 ああ、なんてしあわせなの。 「い、ぐろさっ、伊黒、さんっ」 桜餅が喉に詰まったように、うまく呼吸ができない。 蜜璃が必死に名前を呼ぶと、伊黒は笑みを深くした。 意外にも節の目立つゆびさきが、頬に添えた蜜璃の手に重なった。 「また……うまれかわれたのね」 どちらともなく引き寄せあい、ふたりの影が重なる。 「ああ。 ずっと君を、探していた」 ふれあったくちびるは暖かく溶け合った。 春の風が、走り抜けていく。 苦しみも悲しみも吹き抜けていく。 [chapter:春にあらし] 「あの日の夜は眠れなかった」 伊黒は薄いくちびるを少々とがらせてそう言った。 蜜璃はまるい瞳をよりまるくして、首をかしげる。 あの日とは、蜜璃が紹介で知り合った同い年の男と伊黒の定食屋を訪れた日のことだ。 もう数か月が経ったというのに、彼はまるで昨日のことのように眉をひそめる。 「……悲しそうな顔をして、君がおれの料理を食べていたから」 ピピ、と伊黒が店の空調をいじる。 どこか恥ずかしさを隠しているようにも見えて、蜜璃は気が付かれないように小さく笑った。 晴れの日が続き、今日はなんと真夏日になるという。 「君のしあわせそうな顔が見たくて、料理を始めたっていうのに」 「え! そ、そうだったの?」 「それに知らない男と一緒に食事をしているなんて、嫉妬でねじきれそうだった」 急に極悪人のような表情になる伊黒に、蜜璃は胸が痛んだ。 記憶がなかったとはいえ、伊黒を傷つけたに違いない。 「ごめんなさい……わたし」 「謝ることじゃない、甘露寺」 「もう甘露寺じゃだめですよ。 お嫁さんになるんですからね」 すると、伊黒は何も言わず、くるりと背を向けて厨房に入って行ってしまう。 これは完全に照れ隠しだ。 「あ、今日はお客さんに包丁なげたらだめですからね、小芭内さん」 「あれは、あのくそがきが」 「くそがきが?」 「いいから準備だ」 「ふふ」 「なんだ」 「しあわせだなーって」 「……そうか」 「小芭内さん、約束守ってくれたんですね」 「……いや、おこがましかったよ」 君をしあわせにする、なんて。 伊黒は小さな声で言った。 「君がしあわせそうに笑うから、おれがしあわせにしてもらっている」 「それは、小芭内さんがわたしをしあわせな気持ちにしてくれるから」 「堂々巡りだな」 「ふふ、それもしあわせです」 今日は久しぶりに、和菓子を買いに行こう。 夏の涼やかでつるんと輝く和菓子がいい。 わらび餅、水まんじゅう、葛切り。 伊黒はどれがすきだろうか。 「さあ、暖簾を出してくれ……蜜璃」 「……はい!」 声に応えて、蜜璃は引き戸を開けた。 穏やかな風が店内に吹き込んでくる。 春も、夏も、そして秋も冬も。 これからずっと、一生、それこそまた生まれ変わっても。 いつか、思い出さないほうが良かったと思うかもしれない、と伊黒は言った。 つらく苦しい記憶でもあるのだからと。 ただ、蜜璃はそうは思わない。 ひとつの確信があるからだ。 みんなみんな、きっと穏やかなしあわせの中で生きている。 そう、きっと。 おいしいものをたくさん食べて、とろけそうなほど優しい目に見つめられて、泣きたいくらいにしあわせにしてもらって。 暖簾を掲げる。 さあ、今日もいちにちが始まる。

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