ウイグル チベット。 チベット・ウイグルが中国から分離独立する可能性|上岡 龍次(うえおか りゅうじ)|note

日本人が知らない「新疆ウイグル自治区」の衝撃的な日常風景

ウイグル チベット

チベット問題とは?場所はどこにあるの? チベット問題とは、チベット自治区に住むチベット人と中国政府が対立している問題のことをいいます。 なぜ対立しているのかというと、 現在は中国の1自治区とされているチベット自治区は、かつては別の国家でした。 そうした状況の中、チベット自治区でのチベット人の地位の向上を求め、チベット住民とそれを許さない中国政府との間で対立が続き、それが問題となっています。 チベットの場所は、中華人民共和国の西側(地図の黄色マークの場所)にあります。 北側には同じく民族弾圧が国際的に注目されている、ウイグル自治区があります。 西側はインドと国境を接しています。 チベット人の虐殺 チベット人に対する虐殺でチベット亡命政府による発表では120万人、中国政府による発表でも30万人が殺害されました。 チベット人の人口600万人に対してです。 チベット僧に対する弾圧 15万人の僧侶と尼僧は弾圧によって、約1,500人に減らされました。 人権侵害 思想が原因で逮捕・投獄され、弁護士を自分で選べない、裁判まで長期間待たされるなど正しい裁判が行われていません。 寺院が破壊行動の対象に 数千あったチベット仏教の寺院がほとんど破壊されてしまいました。 信仰の自由がない チベット族の政治的・精神的指導者である ダライ・ラマ14世の写真を寺院以外の場所で掲載すると処罰されます。 ダライラマ14世はノーベル平和賞を受賞するような人物ですが、中国当局からすると、 独立を扇動するテロリストのような立場とされています。 <ダライ・ラマ14世とオバマ前大統領>• 環境破壊 広大なチベット自治区内に 核実験場をつくり、核廃棄物や産業廃棄物の捨て場としている疑惑があります。 出典: 出典: 出典: チベット問題!抗議のために僧や住民が焼身自殺 チベット問題ニュースでもっとも見聞きしていて辛い事件が、抗議のため毎年何人ものチベット人が 焼身自殺を行うことです。 私も実際にYoutubeで動画を見ると衝撃が走りました。 1950年 中国によるチベットへの武力侵攻が始まる。 1951年 チベットの首都ラサが陥落。 1952年以降 チベット各地で頻繁に大規模な対中蜂起が起きるが中国軍により鎮圧・平定され、その度に数万~十数万人の犠牲者が出る。 1959年3月10日 身の危険を感じたダライ・ラマ14世が インドへ亡命。 同じ日に、チベット各地で中国軍への一斉蜂起( チベット蜂起)。 これ以降3月10日にはデモが行われるようになる。 1966年 中華人民共和国のチベット自治区が発足。 2008年 チベット族の暴徒達が長剣やナイフで武装し、銀行や中国人の商店を襲撃し、略奪・放火・暴行を行った( チベット騒乱)。 北京五輪を目前に控えた中国が国際的な体裁から強硬な対応がとれないことを見越してのものとされている。 2011年以降 僧を中心として一般人による 焼身自殺が相次ぐ。 チベットは清王朝時代に支配下にあった チベットは清の支配下にあり、そのため現在も中国の一部であると主張しています。 ただし清王朝は満州族と呼ばれる民族の王朝であり、中国で現在大多数を占める 漢民族のものではないため根拠として乏しいとも言われています。 チベットを西欧列強から守るため 当時、中国は西欧列強がチベットの領土を狙っていたと主張していますが、そういった証拠は出てきていません。 「封建農奴制からの解放」「民主改革」 チベットを封建社会から解放し改革を進めるため、と主張しました。 しかしチベットからの要請はありませんでした。。 チベット指導者ダライ・ラマの提案 ダライ・ラマ14世は、チベットについて以下のように提案しています。 ~引用ここから~ 1987年、アメリカ議会の人権問題小委員会での「チベットに関する5項目の和平案」より• チベット全土を平和地域とする• チベット民族の存続を脅かす中国の人口移動政策を放棄する• チベット民族の基本的人権および民主主義に基づく自由を尊重する• チベットの自然環境を保護し回復させ、チベットでの核兵器の製造、核廃棄物の投棄をしない• チベットの将来の地位について、チベット人と中国人との関係について、真剣な交渉を開始する ~引用ここまで~ さらに チベット人による高度な自治が認められれば独立は求めないと譲歩しています。 本来は独立を強硬に求めることもあり得るところですが、独立を諦めている上にとても平和的な内容のため、中国も譲歩すべきではないか、と思えます。 さいごに:チベット問題から日本が学べること チベットには自国を守れるだけの軍隊がなかったため中国に支配されました。 仮にですがチベットが屈強な陸軍を保持していたとします。 攻め込むには中国側も相当な損害を覚悟しなければならず、陥落させるための時間と費用も莫大なものとなる場合です。 こういう状態であった場合は、独立を保てたかもしれません。 このことから、強力な軍隊を保持することは国土防衛のために非常に大切なことで、 他国からの侵略を慎重にさせる意味があります。

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中国、ウイグル人「再教育」を法制化

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中華人民共和国が抱える問題のひとつで、世界的にも問題視されているのが「チベット」と「ウイグル」の問題です。 チベットと聞くと、仏教や高い山などをイメージしますが、チベットは中華人民共和国から弾圧されている地域なのです。 チベットやウイグルでは、今でも中国当局からの激しい弾圧が行われています。 チベットはなぜ中国に統治され弾圧されるに至ったのでしょうか。 中国のチベット侵攻 画像 Pixaboy 中国とチベットは1950年にチベットへの侵攻を始めました。 ことが起こったのは、1950年の秋のことです。 鄧小平が率いる十八軍がチベットへの侵攻を開始します。 そして、わずか一カ月程度で東チベット軍は破れてしまいます。 中国はチャムドを占領しこの戦いでチベット兵6000人の命が失われました。 初期の頃は人民解放軍は民間人に対して略奪や虐殺は行わなかったといわれていますが、この後状況は一変します。 ちなみにこの時、インドは侵略だとして中国を批判していますが、イギリスも同じ立場を取りましたがどちらの国もチベットを助けることはしませんでした。 参考資料:毛里和子『周縁からの中国 民族問題と国家』東京大学出版会 ペマ・ギャルポ『チベット入門』 侵略は徐々に虐殺へと・・・ 画像 Pixaboy 侵攻が始まったころは略奪や虐殺は少なかったといわれていますが、徐々に人民解放軍はチベットに対してその牙をむき始めました。 ゴルグでの虐殺 ゴルグという年には、ゴルグ民族と呼ばれる人々が住んでいました。 人民解放軍は、ゴルグ族の抵抗に遭った際に兵士を投入して寺院を焼き払います。 これき、中国からの入植者に対する反抗としてゴルグ族が中国人を襲ったのがきっかけではありましたが、もとはと言えば中国人がゴルグ族の土地を荒らしたことがきっかけでした。 この後、人民解放軍はゴルグ族の住む街を襲い、数千人ものゴルグ族を虐殺したのです。 ゴルグはチベットの中でもかなりのへき地だったためこの人民解放軍の蛮行はしばらく明るみにでることがありませんでした。 参考資料:ダナム, マイケル『中国はいかにチベットを侵略したか』山際素男訳、講談社インターナショナル カムで起った反乱と虐殺 1955年11月に中国はチベットを自治州として四川の一部とします。 そして、どんどん土地改革を推し進めていました。 ですが、チベット人はこの改革には当然反対です。 もともとは自分たちの土地だったのですから、反発するのも無理のないこと。 チベット人は武装して改革に反対し中国に対抗しようとします。 ですが、人民解放軍はこれを許しませんでした。 中国は65000もの兵を投入してこの反乱を抑えます。 そして、チベット人20000人が虐殺され、さらに20000人のチベット人が逮捕されてしまいました。 この後も、中国はチベットの宗教を有害な物と指定して、一切の宗教活動禁止します。 これに反発した住民が寺院に立てこもってゲリラ戦を展開しました。 が、チベット側が勝利することはなく、数千人ものチベット人が闘いで命を落としました。 参考資料: ニャロンでの虐殺 ニャロンという都市では、若い女性がリーダーとなって人民解放軍に対抗しました。 激しいゲリラ戦となり人民解放軍にも被害がでるほどの戦闘が行われ人民解放軍は数千人ももの兵の命を失うことになります。 人民解放軍の被害への報復…とも考えられるのですがニャロンでは女性が強姦されたり、男性が断種されたりする非人道的な行為が横行しました。 僧侶や尼も例外ではなかったそうです。 そして、火刑などの残虐な方法で公開処刑が行われます。 これ以外にも、中国はチベットで虐殺を繰り返しチベット人とその文化を弾圧してきました。 中央チベットでの虐殺、アムドでの虐殺、そして、他にも虐殺されたたくさんのチベット人がいました。 参考資料:ダナム, マイケル『中国はいかにチベットを侵略したか』山際素男訳、講談社インターナショナル チベット国際キャンペーン『チベットの核 チベットにおける中国の核兵器』ペマ・ギャルポ監訳、金谷譲訳日中出 版〈チベット選書〉 なぜ国際社会は中国のチベット侵攻を許したのか 画像 Pixaboy 中国のチベット侵攻が行われたのは1950年以降のこと。 今からわずか60年程度前の事ですから、決して大昔の話ではありません。 なぜこんなことがまかり通ってしまったのでしょうか。 もちろん、理由は一つではありません。 まず、国連の常任理事国である中国がチベット独立国として認めていなかったこと、そして、国連が朝鮮半島での戦争への対応で手いっぱいになっていてチベットと中国に介入できなかった しなかった ことが主な理由として考えられます。 なんともひどい話ですが、これが現実…。 こうして、チベットで何の罪もない人々が虐殺され、家や土地を奪われていったのです。 参考資料:ロラン・デエ『チベット史』今枝由郎訳 まとめ 中国によりチベット侵攻は今なお続くチベット問題のほんの序章にすぎません。 今でもチベットは中国の一部とされていますし、ウイグルでも同じようなことが繰り返されました。 そして、今、香港で起っているデモ活動への人民解放軍の介入も懸念されています。 中国が何をしてきた国なのか…中国との距離が近い日本に住む渡した立ちも、それを考えておく必要がありそうです。

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新疆ウイグル問題(しんきょうういぐるもんだい)とは

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呼称 [ ] 古代中国での呼称 [ ] 中国史書では、 袁紇 , 烏護 , 烏紇 , 韋紇 , 迴紇 , 回紇 , 迴鶻 , 回鶻 などと表記されてきた。 イルハン朝における表記 [ ] の政治家はその著書『ジャーミ・ウッ・タワーリーフ()』の「ウイグル部族志」において、「ウイグル」とはで「同盟」・「協力」の意であると記している。 「新疆」 [ ] 現代ウイグル人の祖先と仮託されているウイグル人は自らの民族をテュルクと呼び中核集団をウイグルと呼んだが、やのの住民は、都市国家単位での緩い民族名称しかもたず、異教徒に対しては、他所者に対して(土地の者)と呼ぶ程度であった。 モンゴル帝国、への服属を経て、半ばにジュンガルを清朝が滅ぼすと、「ムスリムの土地」を意味する「回疆」また「失った土地を取り戻す」を意味する「」と呼ばれた。 その後ロシアがに進出し、にを併合すると、清朝はにタリム盆地・ジュンガル盆地を纏めてを設置した(1884-)。 この呼称はにも引き継がれている(維吾爾族、维吾尔族)。 民族・定義 [ ] の分布。 はであるため、ウイグル人はに属する。 なお、テュルク系民族 トルコ民族 とは、「唐代から現代にいたる歴史的・言語的状況を勘案して、方言差はあっても非常に近似しているトルコ系の言語を話していたに違いないと思われる、、ウイグル、、、などを一括りにした呼称」と定義される。 森安孝夫(歴史学者)は、古代のテュルク民族は唐代まではそのほとんどが黒髪、直毛、黒目のであった としている。 唐代末期に〜地域を本拠としていた(ウイグル・カガン国)が崩壊し、遺民の一部が甘州や一帯からへ移動する。 それによって、タリム盆地に先住していたトカラ語や西南部の東イラン語の話者 がテュルク語化 した。 なお、テュルク民族が先住の非古テュルク語話者 の住民を虐殺したのではなく、共存していたといわれ、形質的特徴も多様である。 こうした言語からのの定義ではなく、近代的概念の観点からすれば、当時の住民は同じ民族意識をもっていたわけではない。 たとえば、「民族集団」としてはモンゴル時代に被支配集団となったウイグルの残部でイスラム化した周辺のトルコ テュルク 人や、下でイスラム化したトルキスタンのトルコ人は、それぞれの居住地であるオアシス都市ごとに自己認識していた 「人」、「人」、「人」、「人」、「人」など。 このようにタリム盆地周辺の定住民は固有の民族名称を持たず、異教徒に対しては「」、異邦人に対しては「(土地の者)」と自己を呼称していた。 20世紀に入って、により成立したは、民族政策として「民族別の自治」を掲げた。 でも遊牧諸集団やオアシス都市の定住民の間に「民族的境界区分」が引かれ、諸民族が「設定」されていった。 当時、トルキスタンには、のの締結の際にロシア領に移住したイリ地方の東トルキスタン出身者が多数いたが、彼らはの政治的統一を志向する際に、古代の「ウイグル」という民族呼称を再び見出し、1921年のアルマ・マタ会議で民族呼称として決定される 後述。 によれば、このとき「本来ウイグルではない旧カラハン朝治下のカシュガル人・コータン人までもウイグルと呼ぶようになった」として「新ウイグル」は「古ウイグル」は異なるとしている。 この呼称は統治下の新疆省にも知られるようになり、、政権は従来当局が用いていた「纆回(ぼくかい)」からウイグルの音写である「維吾爾」への改称を決め、省府議会で正式にこの民族呼称を採用させた。 「維吾爾」という漢字表記も正式に確定し現在に至っている。 創生伝承 [ ] ウイグルの創生については、モンゴル帝国時代のペルシア語文献においていくつかの物語が記されている。 『』(編纂)と『』(編纂完成)がある。 特に後者の『集史』ではテュルク・モンゴル系の諸部族をイスラーム的世界観の枠内で分類しており、これらを大洪水後に現在の人類の遠祖となった(ヌーフ)の3人の息子、、のうちヤフェト(ヤーフィス)の子孫としている。 テュルク系種族をヤフェトの子孫とするのは『集史』以外にも見られるが、『集史』はこれにオグズ・カガン伝説も絡めて述べているのが特徴であり、後世にもこの傾向は受け継がれた。 『』ウイグル部族誌 1314• ) は、唯一神()のみを信じたので、叔父達や兄弟から攻撃を受けたが、彼はその親族の一部の援助を受けて打ち破り彼等の領地を併合した。 その山々の一帯には10本の河(が流れている)場所と、9本の河(が流れている)場所がある。 3本の河畔に9部が、次の4本の河畔に5部がいる。 その他名称不詳の部を含め122部がそれらの河に有った。 」 『』 1260• 双樹の間の丘に天から光が降り注ぎ、日ごと丘は大きくなった。 やがて丘陵が開き、張りの5つの部屋が現れると各々に一人の子供が座っていた。 ウイグル人は彼らが天より降臨したものと信じ、彼らの一人を君主に戴くことにした。 その活動領域はのから中央アジア,,,,,を経てのにまで及んだ。 ,,の時代から、,,,,,,などを経て近代に至るまで全域の歴史に関わり、に裏打ちされた軍事力とで歴史を動かしてきた。 史料では 古音ティク。 または翟 と記される民族がまたは遊牧民に関する最古の記録とされ、狄は 赤狄, 白狄などに分かれていた。 は・代に中国の北方(・)に割拠していたが、度々農耕民との間で戦争を交えた。 には・・などと折衝した。 にを建てるがにによって滅亡する。 その後この遊牧民族はからは姿を消し、紀元前4世紀頃には北方の南モンゴルにいたが中国文献に登場する。 他方、古代の地域には古のが居住し,,,,などのがにより栄えたが、しばしばのやなどの支配下に入った。 1世紀になると匈奴は分裂し、南匈奴はに服属、北匈奴は後漢,,によって滅ぼされた。 高車(袁紇部) [ ] 五胡十六国時代の高車の位置 丁零人はにからと呼ばれるようになる。 「高車」とは4~6世紀の中国におけるテュルク系遊牧民の総称で、彼らが高大な車輪のついた轀車(おんしゃ:荷車)を用いたことに由来する。 柔然・北魏時代 [ ] 袁紇部は、モンゴル高原をめぐってのやと争っていたが、後に台頭してきたに4世紀末から5世紀初頭に可汗国に従属した。 またと数度戦い、、道武帝の北伐で大敗を喫し 、に北魏がへ遠征して柔然を打ち破ると、高車諸部族は北魏に服属しへ移住させられた。 一時期、高車諸部はの南征に従軍することに反対し、 袁紇樹者を主に推戴して北魏に対して反旗を翻したが、のちにまた北魏に降った。 、高車副伏羅部のは柔然の支配から脱し、独立を果たす()。 阿伏至羅国は柔然やと争ったが、に柔然に敗れて滅亡した。 突厥時代 [ ] の東西突厥 Gokturk Khaganate。 、 Tuyuhun 、ペルシア。 中世 [ ] 鉄勒の回紇部の台頭 [ ] 6世紀~7世紀の鉄勒時代には 烏護 , 烏紇 , 韋紇 などと記され、やがて 迴紇 , 回紇 と表記されるようになる。 当時、鉄勒諸部は突厥可汗国に対し、趨勢に応じて叛服を繰り返していた。 代に42部を数えた鉄勒諸部(アルタイ以西に31部・勝兵88000、以東に11部・勝兵20000)は、代に至ると徐々に東へ移動・集合(15部・勝兵200000)、その中でも回紇部は特に強盛となってモンゴル高原の覇権を部と争った。 に部族長のが、姪である突厥のと血縁にあった親突厥のと倶羅勃に謀殺される動乱を唐の介入によって平定したため、唐の羈縻政策下に入り部族長は大イルテベル(大俟利発)・瀚海都督・左驍衛大将軍を名乗った。 7世紀後半にが再興すると再び屈従を余儀なくされたものの、に(ビルゲ・カガン)が貴族に毒殺されると、内戦に陥った東突厥第二可汗国へ度々攻撃を仕掛け、に(クトゥルグ・ボイラ)が唐との挟撃により最後の東突厥可汗であるを殺して突厥可汗国を滅ぼした。 ウイグル可汗国 [ ] 詳細は「」を参照 744年、クトゥルグ・ボイラ(骨力裴羅)は回鶻可汗国(ウイグル可汗国、ウイグル帝国)を建国する(- )。 回鶻可汗国は東突厥の旧領を支配し、新たなの支配者となった。 以後、彼ら回紇の筆頭氏族である薬羅葛()氏によって可汗位が継承された。 唐とのやとの交易によって莫大な利益を上げた。 また唐がの勃発によりの経営から手を引くと 、ウイグルは西域を巡ってと数十年に渡る戦いを繰り広げた。 安史の乱 [ ] 、出身の唐の軍人が反乱を起こし()、首都長安を占領する。 からに援軍が要請され、756年に・率いるウイグル軍と唐軍の連合軍は反撃を開始、757年11月にを奪回する。 、唐のが安禄山の残党を討伐するため、ブグ・カガン に対して再度援軍を要請してきたが、史朝義の唐侵攻の誘いに応じたブグ・カガンはウイグル軍10万を率いてを南下。 ウイグル軍に遭遇した唐の使節から、唐への侵攻を踏みと止まるよう説得されたが拒絶した。 唐朝廷は震撼するが、の娘のカトゥン 可敦 がブグのであったことから、僕固懐恩が娘婿であるブグを説得し 、ウイグルは唐との連合を決定する。 ウイグル・唐連合軍は洛陽を奪回し、史朝義は正月に追撃を受け自殺、8年に及ぶ安史の乱を終結させた。 ウイグル・唐・吐蕃 [ ] 、軍がウイグルに服属していたとを引き込んでを襲撃、現地のウイグル・唐軍は敗北した。 ウイグル軍はモンゴリアまで撤退し 、ウイグル側にいた沙陀部も吐蕃に降った。 このは792年まで続くが、最終的にウイグル軍は北庭を奪還し吐蕃に勝利した。 とタリム盆地北部がウイグルの領国となった。 なお(在位: - )の代にが化され、世界史上唯一となるマニ教国家が誕生した。 その後も吐蕃との戦争は続くが、にウイグル、吐蕃、唐の間にが締結された。 この長慶会盟は従来、吐蕃と唐との停戦協定とされていたが、近年、がの断片ペリオ3829番に「盟誓得使三国和好」という文言を発見した他、中国のもで断片Dx. 1462に同内容の文言を発見したため、ウイグル・、吐蕃・唐の三国間協定であったとされる。 当時のウイグル・唐・吐蕃の国境は、のやと、 をむすぶ南北の線が、唐と吐蕃の国境線で、東西に走るが、ウイグルと吐蕃の国境であった。 遊牧ウイグル国家の崩壊とその後の分散 [ ] 、ウイグルは内乱と族の攻撃を受けて、遊牧ウイグル国家は崩壊した。 このときウイグル人はモンゴル高原から別の地域へ拡散し、唐の北方に移住した集団はのちに元代のとなる。 一部は,へ逃れ、西の天山方面の 葛邏禄)へ移った一派は、後にテュルク系初のであるを建国した。 甘粛に移った一派はのちの960年、甘粛ウイグルをたてる。 他の主力となる一派は、東部天山の 、 、 高昌 を制圧し、周辺をかかえて、西ウイグル王国(天山ウイグル王国 を建国する。 甘州ウイグル王国 [ ] 詳細は「」を参照 安西に割拠した集団が天山ウイグル汗国を建国すると、定住化して「ウイグル Uyghur 」とか「トゥグズグズ Tughuzghuz 」などと呼ばれた。 彼らは遊牧していた時代からの影響を受けを尊崇していた。 天山ウイグル王国では、、なども信仰され、高昌漢文化などを形成した。 タリム盆地に先住していたはこうして ウイグル化・ トルコ化された。 10世紀以降は、西からが普及してきたが、タリム盆地周辺東部では仏教が根強く、イスラム教国である やに服属している間や地域のイスラム化が進行した14-16世紀のの時代にも一般に仏教徒がいた。 12世紀:西遼への服属 [ ] に入って、東から滅亡したの遺民であるが来るとウイグルは兵を提供して服属を誓い、西遼(カラ・キタイ)の建国を援けた。 モンゴル帝国時代のウイグル駙馬王家 [ ] にでが勃興すると、にウイグル王(イディクト) は帰順した。 またバルチュク国王はなどチンギスの4人世嗣に準ずる「第5位の世嗣」と称されるほど尊重された。 以後のでウイグル王家は「 ウイグル駙馬王家」としてと並ぶ、 駙馬王家筆頭と賞されモンゴル王族に準じる地位を得る。 モンゴル帝国およびでは、ウイグル人官僚はモンゴル宮廷で重用され、帝国の経済を担当する大臣も輩出した。 近世 [ ] ジュンガル [ ] 詳細は「」を参照 ジュンガルの創世神話とウイグル創世神話 ジュンガルの創世神話は樹木モチーフ においてウイグル創世説話に類似しており、そのためジュンガルはウイグルの後裔ともされる。 ジュンガルの首都はであった。 タランチ移民 ジュンガルはタリム盆地周辺のオアシス住民をイリに移住させ、農耕に従事させた。 これがのちに Taranchi という集団となる。 タランチ集団はのちに1864年に清朝へ反乱を起し、さらにロシアがイリを占領後、1881年に清朝へ同地域が返還される際、報復をおそれロシア領へ移住している。 ジュンガルと清の戦争 [ ] 、ジュンガルは東モンゴリア のに侵攻する。 敗れたハルハ部のトシェート・ハーンはのに保護を求めた。 にはガルダンの甥のが反乱を起こし、とタリム盆地を制圧して清と結ぶ。 ガルダンは南へ進軍中の1690年9月、 ウラン・ブトン、遼寧省赤峰市 で清軍と衝突する。 ジュンガル軍はロシア製の大砲を装備していた が決着がつかず、ガルダンは漠北へ退いた。 、康熙帝はジュンガル親征を開始し、ガルダンを 昭莫多 で破った ( () )。 敗走したガルダンは4月4日にアルタイ山脈北のコプトで病死した。 ジュンガルは統治下、ロシア経由で工業化も進めた。 でロシアの捕虜となったスウェーデン人砲兵士官はイリで1732年まで軍事技術供与に携わっている。 1715年、ツェワンラブタンはハミを襲撃するが、失敗する。 追撃する清軍は翌1716年、敦煌、ハミ、バリクルにを開く。 清による占領 [ ] 、清のは康熙帝のジュンガル討伐政策を踏襲し、モンゴル軍と満州軍を動員して侵攻を開始する。 1757年2月、乾隆帝はオイラート人の掃滅 絶滅 命令を発し、非戦闘員も全て捕獲、男性は殺害、婦女子はハルハ部に与えられた。 、ジュンガルを平定しジュンガル旧領の天山山脈北部を接収した。 清朝政府は、、北部に府を設置し、による軍政を敷いた。 ウイグル族の住むこの地域は清朝の支配では、イリ将軍統治下のとして、藩部の一部を構成することとなり、その土地は「ムスリムの土地」を意味するホイセ・ジェチェン(Hoise jecen、)、もしくは「新しい土地」を意味するイチェ・ジェチェン(Ice jecen、)と呼ばれた。 その一方、社会の末端行政には、在地の有力者に官職を与え、自治を行わせる「 」が敷かれ、在地の社会構造がそのまま温存された。 このベグ官人制はのまで存続した。 こうしたペグ制度の復活については、「柔構造的支配」の現れとして、清朝がによる政府であり、漢化しながらもではない「異民族」として自らを意識したうえで、チベット・モンゴル・ウイグル(新疆 との間に「多重文明圏」を形成し、に基づく支配構造ではなく、むしろ対等な文明共存関係であり、「柔構造」を有していたもされる。 なお、イリ将軍府は後に廃止されている。 ジュンガルを継承した清朝も以降イリ地方などへ強制移住 入植 を数度にわたって行っている。 にはの兵士が新疆辺境守備を命じられ移住した。 コーカンド・ハン国 [ ] 18世紀後半からのを中心にが台頭する。 清とコーカンド・ハン国の間で、コーカンド商人に対するハン国の徴税権などを付与する条約が交わされていたが、清はコーカンド・ハン国の敵対行為(武装蜂起の扇動など)に対して、19世紀初頭に新疆でのコーカンド・ハン国商人の活動の規制をはじめる。 ジャハーンギールとホージャ復古運動 [ ] には、のの孫であるが、利権確保の為に復活を掲げ、侵略を進めた。 ホージャとはのに由来し、17世紀頃よりタリム・ジュンガル盆地でも指導者の称号として用いられ、ジャハーンギールはアク・タグルク 白山党)のホージャであった。 のも、ジャハンギールを支援し、カシュガル、 現・新疆ウイグル自治区莎車県 を占領し、清軍を放逐した。 その後、コーカンド・清両国の交渉でコーカンドに与える権利の交換条件として反乱を煽ったジャハーンギールは逮捕されるが、1826年5月、フェルガナ盆地の地震をきっかけに脱獄し、私兵を引き連れを拠点に、、、を占領する。 清はの(チャンリン)、の、山東巡撫(武隆阿)、拡粛提督のに鎮圧を命じ、のでの戦いでジャハーンギール軍は敗北、にジャハーンギールはでに処刑された。 当初ジャハンギールを支援したコーカンド国は、前記交渉後新疆内のコーカンド人に対する権利と引き換えに手を引いた。 ジャハーンギールの乱以降、清は禁輸政策をとる。 これに対して1830年にコーカンド・ハン国はカシュガルを占領するが 、清は戦乱をおそれ 、禁輸令を緩和する。 1832年にコーカンドのムハンマド・アリー・ハーンはイリ将軍に対して、ジャハーンギールを支持した住民の恩赦、没収された財産の返還、新疆のコーカンド人に対する支配権、新疆でのコーカンド商人への徴税権の承認を求めた。 は激怒するが、コーカンドの4要求のうち後の2つを認めた。 コーカンド・ハン国は、清朝から新疆でのコーカンド商人の保護だけでなく、新疆に居住するコーカンド商人からの徴税権と新疆における交易独占権を与えられた。 からのによって清が国力を衰退させると、新疆駐屯軍の経費も不足し、駐屯軍は北京政府に窮状を訴えるが、朝廷は現地でまかなえと返答するばかりであった。 イリ将軍府 新疆政府 は臨時課税を行うが、これに反発して、ムスリム住民の反乱 が勃発する。 からにかけてが中国全土で広がった。 1856年にはも勃発した。 、ジャハーンギールの子がに侵入し、には同地の占領に成功する。 しかし、1850年頃よりロシアの南下がはじまり 、、コーカンド・ハン国はロシア軍の侵攻を受ける。 事実上の支配者のアリム・クーリーが戦死し、ワリー・ハンはカシュガルののもとへと逃れる。 回民蜂起 [ ] 19世紀後半には、清朝統治に対する不満から(ムスリム)による中国全土でのが発生する。 3月17日、水定鎮近郊の三道河の回民200人がイリ地方の九つの砦の一つである塔勒奇(タルチ)城を攻撃したが、他の砦の清軍によって鎮圧された。 しかし、翌1864年6月3日にはクチャの回民が蜂起し、砦を陥落させる。 1864年(同治3年)6月26日にの回族とらが指導して、反乱を起こす。 回族蜂起軍は、を陥落させ、10月3日にウルムチの要塞を陥落させ、妥明は清真王と称した。 1864年6月26日には、でも回族住民が蜂起した。 イリ陥落 [ ] 詳細は「」を参照 陝西、甘粛で主に漢族からなるムスリムの回民が起こした反乱に乗じて、天山北路のイリ盆地ではカザフ族、キルギス族、ウズベク族が反乱を起こし、1864年11月10日に商業の中心地であると軍事・政治の中心地の恵遠城の両方で蜂起した。 仏教徒のとは清朝側についた。 グルジャは回民の軍勢が陥落させた。 恵遠城の清軍は孤立し、北京と連絡を取るにはロシアを経由せざるを得なかった。 恵遠城の清軍は12月12日の攻撃を撃退することに成功したが、反乱はジュンガリアの北部に広がった。 これらの蜂起は、イリ政府の能力を超えたものであった。 正月、のモスクで清の役人とカルムイクの貴族が和平交渉を行おうとすると、回民の軍勢が襲撃し、2日間の戦闘の後、ムスリムがチョチェクの支配権を確立し、清軍の要塞は包囲された。 カルムイク人の支援で清軍は秋までにタルバガタイ地区を奪回し、鎮圧に成功する。 清朝は反乱の鎮圧のためにに援助を求めたが、ロシア政府内部では、露清関係とムスリム国家が成立した場合との双方が議論され、結局ロシアは清軍のシベリア通過と恵遠城軍への穀物の売却を認めたのみであった。 また2月、駐屯軍のは東トルキスタンを植民地とすべきと主張している。 4月、恵寧城がムスリム軍の攻撃を受けて、満州人・シベ族・からなる8千人の守備隊は全滅し、恵寧城は3月3日に陥落し、明緒将軍は自殺し、イリ地方は清朝の手から離れた。 ヤクブ・ベク政権 [ ] 詳細は「」および「」を参照 3年 夏、カシュガルで人のが回民のと蜂起した。 翌 4年 、のは、率いる軍団を派遣し、カシュガル・ホージャ家の の弟 とともにカシュガルに入り、シディク・ベク軍を撃破した。 ヤクブ・ベクは1865年4月下旬の攻撃に失敗し、さらにクチャのラシッディーン・ホージャの軍に大敗した。 ヤクブ・ベクは軍を整え、同年9月1日、清軍が守るを攻撃。 カシュガル弁事大臣のは自殺し、ら投降した者はイスラム教への改宗を余儀なくされた。 5月、に攻め込んできたロシア軍との戦いでのアリム・クリーは命を落とし、コーカンド・ハン国の兵はヤクブ・ベクに合流した。 勢力が増大し、かつやからの援助を得た ヤクブ・ベクはカシュガルとホータン、アクスを占領し、クチャ以外の天山南路を支配下に置く。 こうしてによって新疆の大半が清から離脱し、旧清朝領中央アジアの大半を支配するムスリム政権を樹立した。 、ヤクブ・ベクはと名乗って名実ともに支配者となる。 5月にはクチャとを征服して天山南路を統一し、に基づく統治を開始した。 はヤクブ・ベクに対してアタリク・ガジ(信仰の守護者)の称号を与えた。 半ばにはをめぐってととの「」が展開されており、すでにイギリスはには英領インドを維持するためパンジャブ地方へ進出し、ロシア帝国は1853年にシルダリヤに進出していた。 ロシア帝国は、3月に 現在のの首都 へ侵攻、にを設置し、への進出基地とした。 1868年にはサマルカンドを占領してを占領する。 1868年3月にははロシアとの間に保護条約を締結した。 、は新疆・チベット(当地方での英国の分離工作は一世期以上の長きに渡る)をロシアとインドとの緩衝地帯にする為、特使を派遣してヤクブ・ベク政権を承認し、以後ヤクブ・ベクはイギリスから武器供給を受ける。 、ロシアもヤクブ・ベク政権を承認した。 9年 、ヤクブ・ベク軍はを攻略して新疆東部との連絡を断ち、率いる陝西省・甘粛省の回民蜂起軍の残党を吸収し、末までに妥明軍を破ってウルムチ・マナス・を占領した。 そのため同年にはロシアがイリ地方への進駐に踏み切った。 しかしヤクブ・ベク政権とロシアの関係は良好で、には通商条約を締結 して貿易を開始した。 にはイギリスも通商条約 を結んで、大使を交換している。 さらにオスマン帝国ののからに封ぜられ 、軍事教官の派遣を受けた。 なおロシアはにはを占領。 にはを設置。 ロシアの保護国になったコーカンド・ハン国で内乱が起こるとロシア軍は2月19日に侵攻、コーカンド・ハン国を滅ぼした。 こうしてをロシア帝国の保護国とし、全域を支配下に収め、さらにには遊牧集団をで制圧し、一帯をロシア帝国の支配下に組み入れた。 清朝の新疆討伐 [ ] 左宗棠 11年 7月、清朝側は主戦派であるが兵を率いてに進駐し 、討伐への準備を開始した。 海防・塞防論争 しかし、のによるを受けて、沿海部各省は「台湾急なるを以て、西征を停解せん」と提議し 、 13年・元年 、新疆出兵について朝廷内で争議 が発生した。 らは新疆を放棄し、資金を海防に回すことを主張し、国庫を空にして西征を行うよりもイギリス人の条件をのみ、ヤクブ・ベクの独立を認め朝貢させればよいと主張した。 である左宗棠は、新疆を失えばかの地は必然的にイギリスかロシアの影響下に入り、中国は西北部の防御の要を失いかえってもっと多くの兵力を西北防御に費やすことになり、また新疆を失えば国威が衰え、民心を失い、諸外国はつけあがるゆえかえって海防に支障をきたすことになるだろうと主張した。 満州人の・は左宗棠の建議を奏上 、朝廷の ・は左宗棠の塞防提案を裁可し、同1875年に左宗棠は新疆討伐の総司令 ・に任命され、を副将に、新疆討伐が決まった。 は軍費1千万両を朝廷に求め、国庫から5百万両が捻出され、諸外国から5百万両した。 ドイツのテルゲ商会が償還に協力したとされる。 左宗棠は武器製造工場のを設立し、外国の技術を取り入れ新型兵器の製造に成功した。 2年 3月、左宗棠軍にはの軍25営、張曜軍14営、の蜀軍5営があり、これに新疆の各拠点の清軍を合わせ総数8万9000人となった。 6月に劉錦棠軍がチムサに進駐し 、ウルムチ近郊のを占領した。 ヤクブ・ベクは清軍の進攻を聞き、・・白彦虎らをウルムチなど要地に配備し、主力の2万人はとに、ヤクブ・ベクはトクスンで督戦に当たった。 8月17日、清軍はウルムチ北部を制圧し、次いでウルムチを占拠し、さらにととマナス北城が陥落した。 11月6日にマナス南城も陥落した。 翌 3年 4月、清軍はウルムチを南下しダバンチェンの峠でヤクブ軍に壊滅的な打撃を与えた。 その後を砲撃、ヤクブ・ベク軍は投降した。 清軍はトクスン、5月にはトゥルファンを制圧し、白彦虎はクチャへ逃亡する。 ヤクブ・ベクは逃亡中のに死亡する。 ヤクブ・ベク死後は白彦虎とヤクブ・ベクの長子が抵抗を継続するも、同年10月、清軍はクチャ、アクス、ウシュトゥルファン、11月にはカシュガルを占領し 、12月下旬までに西の4城を陥落させた。 1878年正月に清はイリ渓谷をのぞく新疆地方を再征服した。 ベク・クーリ・ベクと白彦虎はロシアに逃れた。 この時に白彦虎に従った回民の子孫が現在のである。 清朝の戦後処理とロシアとの交渉 [ ] イリ地方は、1871年以来ロシアの支配下にあったが、ロシアはのため、清の進出に対抗できなかった。 1879年、清は9カ月にわたるロシアとの交渉の末、10月2日、沿岸のにあるで十八カ条条約()に調印した。 しかしこの条約はロシア側の意向に沿ったもので、イリ西部とイリ南部をロシアに割譲し、ハミ、トルファン、ウルムチなど7カ所にロシア領事館を設置し、さらにロシアとの免税貿易を許可するという内容だった。 清側では朝野の議論は沸騰し、はロシアとの開戦を主張した。 結局、外交を担当したはによって死刑を宣告されるが、イギリスが清側にロシアを怒らせないようと崇厚の死刑恩赦を進言、清は恩赦するにいたる。 ロシア側は清との戦争を準備し、軍艦をへ派遣し、他方、左宗棠はイリ攻撃作戦を練ったうえで1880年4月、粛州を出発、ハミにいたり 、ロシアと清の関係は緊張する。 しかし、左宗棠は召還されロシアとの和平交渉が開始される、1881年2月、が締結され、清朝が周辺地方すなわち以西のイリ西部をロシアに割譲し、イリの東側は清に返還されること、また賠償金も減額されロシア側へ900万ルーブルを支払うこと、粛州とトルファンにロシア領事館を設置することで合意された。 この条約は不平等条約ではあったが、地域の国境が画定され、この時の国境線は現在に至る。 新疆省設置 [ ] イリ返還をうけて清朝はにを正式に設置し、イリ地方を含めた新疆全体に並みの行政が布かれた。 清が自治権を認める従来のを廃止したため、ウイグル人は自治権を失い直接支配下に入った。 その後1940年代半ばまで新疆省省長は当地の軍最高指揮官(督弁)を兼任した。 新疆省政府役人は当地を「桃源郷」になぞらえたといわれる。 歴史学者のは、その後、新疆省指導者の交代も省政府内部の暗殺やクーデタによるもので、「この種の政権の交代劇においても、ウイグル人は何の役割も果たせなかった」という。 他方、入植した漢人人口が当時3000人程度であった新疆南部では、省政府の人事権が及ぶのは県レベルまでであり、県レベル以下の行政運営はウイグル人が当たった。 近現代 [ ] 詳細は「」を参照 ウイグルの呼称の復活 [ ] 西トルキスタンには、のロ清の締結の際にロシア領に移住した地方を始めとする新疆北西部出身者が多数いた。 また、ジュンガル時代に入植された農耕民の末裔である集団は清朝への反乱(など)に加担していたため、地方が清朝へ返還されると、清朝政府の報復処罰を恐れ、多くのタランチはロシア領のなどに移住している。 において、それまで国際的には小国とみなされていたがに勝利すると、それに触発されてにはが起きる。 11月の雑誌『シューラー』での記事では「テュルク文学はウイグル ユグル、ウグル、漢語でホイフ 方言で始められた。 オルホン碑文はより以前に書かれたが、真の意味で言うと、テュルク文学はウイグル語で始められた」とする論評が掲載されている。 アルマ・アタ会議 [ ] 、のアルマアタ において開催されたソ連在住東トルキスタン出身者の大会において、トルコ学者のセルゲイ・マローフ が「ウイグル」という名称の復活を発議し、同大会はこれを受けて、「ウイグル」民族名称を自ら名乗ることを決定した。 このときの「ウイグル民族」とは、東トルキスタン出身のテュルク系ムスリム定住民とその子孫であるが、「ウイグル」という民族呼称が復活されるまではタランチ集団や人、人など、民族名称というよりも祖先または自身の出身地を自称していた。 この会議はソ連による中央アジア「民族的境界画定」政策の準備作業の一つとみなされているが、「ウイグル」呼称がこのときに発案されたのでなく、それ以前にもムスリム知識人の間で「ウイグル」呼称は使用されるようになっていた。 なお、マローフは中国地方の・ウイグルの研究者でもあった。 サリグ・ウイグルは初頭に東トルキスタン東部から甘粛地方に逃れてきた徒のことを指す。 中華民国時代 [ ] 、が中国内地で発生する。 新疆にも革命派が入り、1912年1月、イリの革命派が蜂起し、イリ将軍でモンゴルのを臨時都督とする政府が樹立された。 清のが退位すると、ウルムチ知事であったが長・督軍となる。 雲南出身の楊増新は新疆を独立王国にしようとつとめた。 他方、はをに広めようとしており、トルコ人のが新疆に派遣され、師範学校を設立し、この学校がカシュガルの民族主義運動の中核となった。 盛世才による改名 [ ] 当時ソ連共産党党員でもあった遼寧省出身の漢人であるは、1933年に軍を率いてクーデターを起こすと新疆軍閥を率いて1944年まで独立した政権を築いた。 盛世才は従来の中華民国当局が用いていた「(ぼくかい)」を廃止して「ウイグル」民族を「設定」する指示を受け入れ、に省府議会で正式採用させ「 維吾爾」という漢字表記も定めた。 ハミ郡王家の反乱 [ ] 楊増新が1928年に暗殺されると、が新疆省長になる。 しかし金樹仁はメッカ巡礼などを禁止するなどムスリムへの弾圧政策を行い、さらに土着の小王国であったを消滅させようとする と、これに反発した住民たちは1931年、大規模な反乱が発生する。 ハミ郡王家軍は、回族の軍閥に援助を求め、馬仲英軍はバルクルまで進出するが、新疆省政府軍が登場すると甘粛に撤退し、ハミ軍は山地へ撤退した。 トルファンの反乱 [ ] ハミの反乱をうけてにはのイスラム教諸民族の反乱が発生する。 反乱軍はトルファンを掌握するが、ロシア白軍の残党を含むの省政府軍に敗北する。 その後トルファンは馬仲英に占領された。 東トルキスタン・イスラーム共和国 [ ] 東トルキスタンイスラム共和国国旗 1933年2月、タリム盆地南部のホタンで、が蜂起し、漢人官僚を一掃して、ヤルカンド、カシュガルへ進軍し、1933年11月にを樹立した。 なお、東トルキスタン・イスラーム共和国では漢語を話す回民は漢族と同様に排除され、トルコ語系の住民が構成員とされた。 馬仲英軍がウルムチに向かうと、1933年4月12日にクーデターが起こり、が実権を握った。 盛世才はソ連に援助を要請し、1934年1月、ソ連軍が新疆に進軍、馬仲英軍は敗北する。 馬仲英軍は西に向かい、東トルキスタン・イスラーム共和国を壊滅させ、その後ソ連と交渉してソ連に亡命した。 1941年には、アルタイ地区のカザフ族遊牧民のケレイ部族出身のオスマンとダリール・ハーンが、ソ連とモンゴル人民共和国の援助をうけ、を樹立した。 10月にはイリ渓谷のニルカとクルジャで反乱が発生し、11月12日、が建国された。 このこの第二次東トルキスタン独立運動にはソ連赤軍が直接参加した。 翌年の1945年、アルタイ民族革命臨時政府と東トルキスタン共和国、さらにタルバガダイのゲリラ隊も合流した。 中国では「東トルキスタン共和国」という名称を使用することは避けられ、と呼ばれる。 中華人民共和国政府による新疆接収 [ ] 詳細は「」を参照 、を制したは、新疆の接収を行うために、を派遣し、イリ政府との交渉を行った。 は、イリ政府に書簡を送り、イリの首脳陣をのに招いた。 しかし、、に向かった3地域の11人のリーダー達、アフメトジャン・カスィミ Ehmetjan Qasim 、 Abdulkerim Abbas 、 Ishaq Beg Munonov 、Luo Zhi、Rakhimjan Sabirhajiev、 Dalelkhan Sugirbayev らイリ首脳陣の乗った飛行機はソ連領内で消息を絶った。 首脳を失ったイリ政府は混乱に陥ったが、残されたイリ政府幹部のが陸路で北京へ赴き、政治協商会議に参加して共産党への服属を表明した。 にはら新疆省政府幹部も国民政府との関係を断ち共産党政府に服属することを表明した。 12月までにが新疆全域に展開し、東トルキスタンは完全に中華人民共和国に統合された。 とソ連領出身者、や、で構成された東トルキスタン共和国軍( ())を野戦第五軍に編入した人民解放軍に対抗して、国民党側についたウイグル族のは白系ロシア人と中国人ムスリムの軍 帰化軍 を率いていた。 、で国民党勢力の残存していた地域へ侵攻してこれを制圧した。 これによって新疆は中華人民共和国に帰属されることとなった。 この後、民族名称は ウイグル族(维吾尔族)と公式に定められ、現在に至っている。 中国政府はごろ、に漢族を中心とするを大量に入植させた。 その後、入植当初人口7パーセントだったがには40パーセントになり、ウイグル族に匹敵する割合となり 、駐留するとあわせるとウイグル人よりも多いとも言われる。 新疆ウイグル自治区の設置 [ ] 中華人民共和国国旗 には中華人民共和国で2番目の自治区 が設置された。 1990年代 [ ] 1990年にはウイグル人住民のデモに対して武装警察が発砲し、15名(数十名とも)が射殺されるがおきている。 1991年にはウイグル人作家の著作『ウイグル人』が、「大ウイグル主義的」「民族分裂主義的」であることを理由に発禁処分となり、著者も状態に置かれた。 バリン郷事件以降、反政府とみられるテロ事件も相次いでいる。 1997年にも大規模なデモが発生し、鎮圧に出動した軍隊と衝突して、多くの死傷者を出したが発生している。 、全国委員を務める実業家のが政治協商会議でによるウイグル人抑圧を非難する演説を行うが公安当局の間で問題となりラビアはに全ての公的役職から解任された。 ラビアの夫で作家のが行った書籍 John Graver, Chinese-Soviet Relations 1937-1945 のウイグル語訳 が当局より問題視されたといわれるが、シディク・ハジ・ロウジは1996年に米国に亡命した。 、公安当局は、ウルムチ市内に滞在していた米国議会関係者に接触しようとしたラビアを国家機密漏洩罪で逮捕し、米国に亡命した夫に対して「不法に機密情報を漏洩した」として懲役8年の実刑判決を下した。 の以降はやに逃れたウイグル族もいたが、の際に米軍による拘束やパキスタン政府の引き渡しによってのに収監された。 また1999年1月より漢族の作家が新疆の民族問題に関する著作執筆のため、で資料収集を開始すると、同年1月29日に新疆自治区国家安全庁(上級機関のは旧ソ連のKGBに相当する諜報機関)に国家機密窃取の容疑で拘束(法手続きを踏んだ正式な逮捕ではない)され、42日後に解放された。 その経緯を『新疆追記』にまとめ、インターネット上で公表した。 王力雄はその後、ウイグル問題に関する調査をもとに2007年10月『我的西域、你的東土』(邦題:私の西域、君の)を台湾で出版した。 2000年代 [ ] 上海協力機構 [ ] 中国政府は、中央アジア諸国の在外ウイグル人社会が、ウイグル民族運動の拠点となっていることを警戒し続けており、には、にはを設立し、国内の勢力の伸張を警戒するや中央アジア諸国と共に、分離主義、イスラーム過激主義に対する国際協力の枠組みを構築した。 また、の米国での以降、中国政府は政権の唱える「」への支持を表明し、ウイグル民族運動と新疆におけるテロを結びつけて、その脅威を強調している。 公教育における漢語使用の義務化 [ ] には、これまで少数民族の固有言語の使用が公認されてきた高等教育で、の使用が中国政府によって義務付けられた。 、米国国務長官の訪中を控え、米国から人権問題での批判を受けることを恐れた中国政府は、に「外国での病気療養」を理由にラビア・カーディルを釈放。 ラビアは米国に亡命し、のち議長に選出され、2006年には候補にもなった。 2009年ウイグル騒乱前後 [ ] 詳細は「」を参照 3月には、新疆南部ので、600名を超える当局への抗議デモが発生し 、6月には、の玩具工場で従業員とウイグル人従業員の間で衝突が起き、死者2名、負傷者120名を出し 、翌7月には、事件に抗議する約3,000名のウイグル人とが、市内で衝突し、140名が死亡、800名以上が負傷した。 ラビア・カーディルは、事件以降、ウイグル人1万人が行方不明となっており、死者は197人でほとんどが漢民族とする中国側の発表は信用できないと述べている。 2014年の以降「」( ()、厳打高圧)を名目に当局はなど徹底的な管理統制の構築に乗り出し 、様々なを用いて一挙手一投足を住民は監視されていることから「世界でも類のない」 「完全の実験場」 が築かれてると欧米メディアや人権団体は批判している。 8月17日と18日、の首都で死者20名、負傷者125名(うち邦人1名)を出す連続爆破テロ事件が起こった。 タイ政府は、事件の1カ月前、亡命を目指していたウイグル族109人を中国に強制送還していた為、これに対する報復テロではないかとの見方が広がっている。 また、タイと同じ軍事政権のなどでもウイグル族の中国への強制送還が相次いでることは問題となっている。 2019年、ウイグル族のの実態が報道され始め、証言や衛星写真の裏付けなどから収容規模は数十万人とも推測されるようになった。 これら報道に対して中国側は、白書を通じて反論して主張は平行線をたどった。 2019年9月23日、国連総会に合わせてアメリカ国内で開催された宗教弾圧に関する会合では、副大統領や国務副長官らが、中国によるウイグル族への弾圧について批判を行った。 これに対して中国側は乱暴な内政干渉だとしてアメリカ側の姿勢に強く反発した。 にあたるのは可敦(カトゥン:Qatun)という。 実権の無い爵位、設と同程度の地位。 都督(トゥトゥク:tutuq)…主要部族の部族長。 大相…筆頭宰相• 宰相…十回紇の貴族から選ばれる内宰相3名と外宰相6名からなり、使節や可汗庭に於いて兵を監督する官職。 達干(タルカン:Tarqan)…十回紇の貴族から選ばれ、兵馬の監督や唐への使節を担う官職。 監使…可汗の親族か十回紇の貴族から選ばれ、征服された他部族や他国からの徴税、労役の割当を担当する官職。 突厥でいう吐屯。 阿波(アパ:apa) 歴代指導者の一覧 [ ] 伝説上の君主• 回紇部 俟斤(イルキン)、頡利発(イルテベル)• 活頡利発()(627年 - 646年)…特健俟斤の子• 胡禄頡利発()(646年 - 648年)…菩薩の子、瀚海都督、左驍大将軍• …吐迷度の甥、突厥・車鼻可汗の婿• (648年 - 661年)…吐迷度の子、瀚海都督• (661年 - 680年)…婆閏の子(甥)、瀚海都督• (680年 - 695年)…比粟毒の子、瀚海都督• (695年 - 719年)…独解支の子、瀚海都督• 承宗(719年 - 727年)…伏帝匐の子、瀚海都督• (727年)…承宗の子、瀚海都督• 護輸…承宗の一族、頡利発• 葉護頡利吐発()…承宗の子 可汗国の可汗(カガン)• (骨力裴羅)( - )• (葛勒可汗)(747年 - )• (牟羽可汗)(759年 - )• (長寿天親可汗)(779年 - )• (789年 - )• (790年 - )• (795年 - )• (805年 - )• (808年 - )• (821年 - )• (824年 - )• (832年 - )• (839年 - )• ( - )• (846年 - ) 権知可汗、甘沙州回鶻可汗、可汗王• (仁美)(? - )• 烏母主可汗(、テギン)(924年 - )…仁美の弟• (926年 - )• (仁裕、奉化可汗)(926年 - )…仁美の弟• (959年 -? )…仁裕の子• (夜落隔、忠順保徳可汗王)(? - )• (1016年 -? (帰忠保順可汗王)(? ) の克韓王• ウルグ・テングリデ・クトゥ・ボルミシュ・アルプ・キュリュグ・ビルゲ・懐建・カガン()( - 856年頃)• トルテュンチュ・イル・ビルゲ・テングリ・イリグ(? - -? トルテュンチュ・アルスラン・ビルゲ・テングリ・イリグ・シュンギュリュグ・カガン(? - -? ボギュ・ビルゲ・テングリ・イリグ( -? キュン・アイ・テングリテグ・キュセンチグ・コルトゥレ・ヤルク・テングリ・ボギュ・テングリケニミズ(? - -? キュン・アイ・テングリデ・クトゥ・ボルミシュ・バヤン・オルナンミシュ・アルピン・エルデミン・イル・トゥトミシュ・アルプ・アルスラン・クトゥル・キョル・ビルゲ・クチャ・ハン( - 1024年頃)• キュン・アイ・テングリデ・クトゥ・ボルミシュ・バヤン・オルナンミシュ・アルピン・エルデミン・イル・トゥトミシュ・ウチュンチュ・アルスラン・ビルゲ・ハン(? テングリ・ボギュ・イル・ビルゲ・アルスラン・テングリ・ウイグル・テルケニミズ(? - -? 喝里・ハン(1127年頃 -? 華勒哥・王(1130年頃 -? 月仙・帖木児・亦都護(? - 1209年頃) 領• バルチュク・アルトゥン・亦都護(1209年頃 - 1229年)…月仙帖木児の子、1209年モンゴルに帰順• キシマイン・亦都護( - )…アルトゥンの子• サリンディ・亦都護( - )…キシマイン弟• ケスメズ(1242年 - )• オグリュンチ(1252年 - )…サリンディ弟• マムラク・テギン(1257年 - )…オグリュンチの子• コスカル( - )…マムラクの子• ネギュリル・テギン(1280年 - )…コスカルの子、1308年大元封-亦都護、1316年高昌王 『亦都護高昌王世勲碑』に見えるイドゥク・クト• テムル・ブカ(1318年 - )…ネギュリルの長子、高昌王• センギ・テギン(1329年 - )…テムル・ブカの弟、高昌王• タイピンドゥ(1331年 -? )…センギ・テギンの弟• エル・テムル(? - )• セング・亦都護(1353年 -? ) 『大宗正府也可札魯火赤高昌王神道碑』に見える高昌王• 月魯哥 14世紀前半『ウイグル語印刷仏典奥書』に現れるイドゥク・クト(亦都護)• キラシス・イドゥク・クト(? ?イドゥククト(頃)• 中華民国時代• 1912年、新疆都督。 、から新疆省長に任命• 1933-1944 東トルキスタン・イスラーム共和国大統領• ( - ) 東トルキスタン共和国主席• (イリハン・トレ)( - ) 新疆省連合政権主席• (1947年 - )• (1948年) イリ政権• (1948年 - ) 言語 [ ] 詳細は「」を参照 現代のウイグル人は、の南東語群(チャガタイ語群)に属すを話す。 タリム盆地は様々な民族の交流地であったため、紀元前からすでにモンゴロイドとコーカソイドの混血が始まっていた。 歴史的にタリム盆地の民族はやを話し、古インドやイランの人種に属す人々を元として幾波にも渡って北のトルコ民族や東の漢民族の支配を受けた。 まではやトカラ語を使い続けた。 現在のようにテュルク系の言語を話すようになったのは、からにタリム盆地東部を支配した、タリム盆地西部を支配したにおいてである。 こうした過程は「テュルク化」といわれる。 古代ウイグル語と新ウイグル語 [ ] 回紇部および回鶻可汗国時代までは、突厥と同じを話していたと思われる が、天山ウイグル王国時代(9世紀 - 16世紀頃)になると、その言語はウイグル文字で表記される となる。 文字 [ ] 詳細は「」を参照 やといった城郭都市を建設し、新たに「遊牧都城文化」ともいうべき 文化形態を生みだした。 人種・遺伝子 [ ] 現在のウイグル人はとの混血であり、も、、、など多様なタイプがみられる。 文化 [ ] 文学 [ ] の詩人の『クタドグ・ビリク』()が最初のテュルク語文学とされる。 以後、11世紀にがおり、13世紀には、14世紀には、15世紀にはが現れた。 17-18世紀のの代表に、、、がいる。 現代ではの著作『ウイグル人』があるが、ウイグル民族主義であり分離主義者であるとして中国政府から発禁処分を受けた。 また漢民族の作家による『私の西域、君の東トルキスタン』 2007 もある。 音楽 [ ] ・・にみられる音楽の様式、の楽曲体系の一つであるがとして知られる。 テンリ・タグ山脈の最高峰であるはの国境に位置し、標高は7,439mである。 テンリ・タグ山脈を背骨とし、北の(国境)の間に、南の(とも。 との境)の間にが広がる。 主な都市 [ ]• (Urumchi) - の首府。 (Kashgar)• (Korla)• (Aqsu)• (Kucha)• (Qumul)• (Turpan)• (Ghulja)• (Altay)• (Chochek)• (Boretala)• (Qaramay)• (Hoten)• (Yarkent) 資源 [ ] ツァイダム油田 ウイグルはとの埋蔵量が豊富で、後半から探査が本格的に開始された。 1988年11月以降、タリム盆地で未開発の油田としては世界最大級の油田群が発見される。 可採埋蔵量は100億バレル以上とされ 、確認埋蔵量は原油で60億トン、で8兆立方メートルとされているが、油田地帯がばらばらで地質構造も極めて複雑であることから、ブレは大きいものと考えられている。 政策やによって開発を促進し、後半から敷設や送電線建設などが活発化している。 これには、中国国内最大の油田であったのの生産量がに入って減少してきたために、新疆の油田の重要性が相対的に増していることも関連している。 2008年には新疆最大級の油田があるが一人当たりのが中国本土で最も高い都市となった。 日本との関係 [ ] ウイグル地域に日本人がはいったのは、1880年ののロシア駐在公使のがはじめてとされる。 1902年から1908年および1910年にかけてはが入った。 には二期生の、、が入っている。 1906年には参謀本部将校のとが入った。 このうち上原多市の現地での活動については不明な部分が多いが、中国側資料 によれば、1907年にイリでを設立した際に、軍事教官として日本人の「原尚志」を任命したという記録があり、これが上原ではないかと推定されており、イリ地方で1912年まで6年間活動していたともいわれる。 こうした大日本帝国軍部による情報収集活動はロシアの動向に関するものであったとされる。 によれば、大日本帝国陸軍は、、、ウイグル、や勢力などを支援することによって、ソ連や中国共産党などの勢力を包囲する戦略として「防共回廊」政策があったと指摘している。 を創設したや、らが推進したといわれる。 は満州を中心に、らのがシベリアでの諜報活動、少将率いる奉天特務機関が、ら承徳特務機関がを展開するという三正面作戦を構えたとされ、このうち松室孝良は1934年2月に「満州国隣接地方占領地統治案」を起案し、そのなかで満州、モンゴル、イスラム、チベットの環状連盟を提唱した。 時代の諜報員に、がおり、1945年により河西回廊を経てチベットに潜行した。 戦後、を経て帰国した。 ほかにも同様に諜報員としてチベットに入った。 西川、木村にチベット入りを指示したのはであった。 戦後、日本は1972年9月29日、及び1978年8月12日締結にともない、との国交を正常化した。 その際、中華人民共和国を正当な国家として認定し、かつ中華人民共和国に配慮する外交方針をとったため、を独立した国家とはみないことを約束するとともに、やウイグル問題などを含め、中華人民共和国の「国内問題」について公式には積極的な態度をとるにいたっていない。 しかし2000年代以降、激化するやウイグルの動乱などを受けて、ウイグルにおける人権侵害の問題などを民間の活動が活発化し、2008年(平成20年)6月、在日ウイグル人と日本人支援者によってが設立され、の傘下団体として活動を行っている。 直後の2009年7月にラビア・カーディルが二度目の来日を果たしたが、中国外交部の武大偉副部長は宮本雄二駐中国大使を呼び、「日本政府が即刻、カーディルの日本での反中国的な分裂活動を制止することを求める」と述べ中国政府の強い不満を表明した。 中国政府は、カーディルが騒乱の黒幕だと断定している。 、が本部で結成され 、日本の、、、 、、、、らが参加している。 顧問は、、らが務めるなど、日本のでもウイグル問題を取り扱うようになっている。 また同日、でも東京都庁でが発足した。 映画 [ ]• 監督『』2008年。 新疆ウイグル自治区からのに亡命したウイグル人の少年などを描いた。 画像 [ ]• 『突厥与回紇史』では、モンゴル高原東部に興り、後にや甘粛省・新疆ウイグル自治区に移住したトルコ系民族」としている。 《『魏書』道武帝紀》「に道武帝が北伐を行って高車袁紇部を大いに破り、多数の奴隷と馬牛羊20万頭余を得る」• の『』「ドルベト、ジューンガルの一族は天から出た。 管(チョルゴ)状の樹の下に幼児がおり、その樹液を吸って育ったので、その子孫をチョロースという」• ほか、住地から部族の後裔とも。 , p. 190• カルムク語のtaran (耕地、種子、穀物)に由来し、「播種人」を意味する。 ; , p. 253• 『清史稿』に記録。 , pp. 98-99• は当時3歳のため、最終決定権は両太后、特に実権は西太后にあった。 及び, pp. 202には中国史上初の事態とあるが、『敦煌吐魯番文書与唐史研究』にも中国本土並みの行政の記述がある。 15では漢民族による支配としている。 という証言もある。 , p. 167• が提唱。 邦訳、集広舎、2011年• , p. 73においてテンリ・タグ山脈と表記している。 出典 [ ]• 『大辞林』(三省堂、1988年)の「ウイグル」項• 2012年7月12日閲覧。 2012年7月24日閲覧。 「」は右から左へ読む。 ドーソン/佐口 1968,p326• 376-377• 『突厥与回紇史』中編8章4• 331• 138• , pp. 331-332• , pp. 139-140• 320-321• , pp. 40-41• , pp. 55-57• 『戦国策』、『史記』趙世家• 『魏書』• 『旧唐書』、『新唐書』• , 9章3• 293• 349• 350• , p. 353• 『旧五代史』、『宋史』• 『遼史』• 『元朝秘史』による• 『』や『』など• , pp. 78-79• 7巻3号• , p. , pp. 79-80• , pp. 305-311• , p. , pp. 253-291• , pp. 3-7• 『清史稿』• 310• , pp. 303-304• 311• , p. 128• 清史稿• 312• , pp. 128-129• 198• 100• , p. 181• , pp. 184-185• 315• , p. 185• , pp. 186-188• , p. 187• , p. 189• [ ]• 189• , p. 190• , p. 193• 194• 195• , p. 196• , pp. 196-197• , pp. 197• 198• , pp. 200• , pp. 15-16• , p. , p. 371• , p. 372• , p. 373• 374• 375• 378• , p. 379• 小松編 pp. 378-381• 2014年12月23日, at the. , p. 139• John Graver, Chinese-Soviet Relations 1937-1945 Oxford University, 1988,。 漢訳書は『対手与盟友』(劉戟鋒等訳、社会科学文献出版社、1992年)• 2019年2月21日閲覧。 RFA 2008年4月1日• VOA 2009年6月27日• 新華網 2009年6月28日• 2011年01月8日, at the. 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