ノルウェイ の 森 歌詞。 村上春樹『ノルウェイの森』作品解釈

「ノルウェイの森」という訳語が誤訳だった件について

ノルウェイ の 森 歌詞

ポピュラーミュージックで初めてシタールが演奏された曲です。 幻想的な雰囲気がでいて、心地よいです。 メロディもいいのですが、歌詞がとてもいいのです。 いろんな解釈ができる。 そもそもNorwegian Woodって何なんだ? ・ノルウェー製の家具説 ・knowing she wouldの語呂合わせ説 など、他にも諸説あるようですが、作者のジョンレノン曰く、「浮気」の歌らしいので、私はknowing she would説を支持してます。 訳すと「彼女にそのつもりがあるのを知っている」かな。 そこから言葉遊び的に、Norwegian Woodが出てきて、歌詞の全体の雰囲気ができあがったのではないかと想像してます。 もうひとつ歌詞の解釈で別れるのが最後の部分。 So I lit a fire 何に火をつけたんだ? ・暖炉説 ・灯説 ・タバコ説 こちらも諸説ありますが、ポールマッカートニーの説が一番詩的です。 歌詞に不気味さがまします。 このようにこの曲の歌詞はいろいろと語られています。 私も新解釈ができないかと思い、改めて、近くにあった『アンソロジー2』の歌詞カード広げます。 そこにはすでに新解釈がありました。 She asked me to stay And she told me to sit anywhere このsitの部分が歌詞。 歌詞カードではshitになっていました。 大便!! 私はknowing she would説を支持します。

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ノルウェイ の 森 歌詞

1987年、村上春樹は一冊の小説を上梓しました。 それが『ノルウェイの森』です。 2010年時点で、上下巻を合わせた総発行部数1000万部を突破した、日本国内有数のベストセラー小説です。 一冊500円としても、売上50億円。 素晴らしい。 あまりにヒットしすぎた作品で、おもしろいという意見と面白くないという意見と結構真っ二つに分かれます。 私はこれからとんでもなく長い『ノルウェイの森』に関する記事を書くくらいですから、結構好きです。 1987年というと、世はバブル期であり、そのタイミングでうつ病というか精神病というかそうした病気を堂々と扱ったのがセンセーショナルだったんですかね。 ちなみに、この小説の二章三章辺りは、短編小説『螢』として一度書かれたものがアレンジされています。 『螢』はすごく泣いちゃう。 素晴らしいですので、そちらを読んでみてから『ノルウェイの森』を読むのもオススメです。 スポンサーリンク 『ノルウェイの森』のあらすじ 結末までネタバレ込みで、できるだけ簡単に『ノルウェイの森』のあらすじを書いてみようと思います。 さて、この小説は、ハンブルク空港を降り立った主人公の回想から始まります。 過去を思い返す、という体裁なのですね。 主人公は、「僕」である「ワタナベ」。 主要な登場人物は、「直子」「キズキ」「突撃隊」「永沢」「緑」「レイコ」……ですかね。 主には、「ワタナベ」と「直子」にまつわる物語です。 主人公は、都内の大学の演劇科に通っていました。 寮住まいで、たくさんの大学生が暮らしていました。 元々は神戸にいたのですが、進学を機に東京に出て来たのです。 ある日、主人公は直子と再会します。 偶然電車の中で出会いました。 出会った二人は、何の大事な用事もなかったものですから、電車を降りることにしました。 そこから、直子はひたすらに歩きます。 異様なほどに歩きます。 久しぶりに会った直子は、体重がぐっと減ったようでしたが、それは病的なものではなく、むしろ自然な美しさだと主人公は評しています。 それから、毎週のように主人公と直子は会うようになります。 さて、主人公と直子はどういう関係なのか。 神戸時代の主人公の親友が直子の元カレなのです。 その元カレが「キズキ」です。 彼はある日突然、自殺をしてしまったのでした。 主人公も直子もそれから逃れるようにして、東京に出て来たのですね。 やがて、直子と会えなくなり、彼女から一通の手紙が届きました。 彼女は、京都の山奥の病院というか施設というか療養所というかに入ることになりました。 その施設は、一度出たら二度とは戻れないのが規則となっていました。 それから、会えない間に、主人公は年下の緑という女性と知り合います。 緑には彼氏がいて、主人公には直子がいて、お互いに愛する者を別に抱えつつも、互いに気の置けない存在というか特別な友人として信頼し合っていきます。 しばらくしてから、直子から会いに来てほしいと主人公の元に手紙が届きました。 彼は京都まで出向くのです。 その療養所で出会ったのが、「レイコ」さん。 音楽療法を皆に施しつつも、彼女もまたその施設での患者なのでした。 レイコは直子とルームメイトで、二人は互いに支え合いながら幸せそうに暮らしていました。 直子はその施設でとても落ち着いており、回復に向かって歩いているように見えました。 そこでしばらく過ごし、主人公は再び東京に戻ります。 そして、主人公は寮から出て一人暮らしをするようになります。 そこで、主人公は直子と暮らしたいのだと手紙を書きました。 彼は、毎週のように直子に手紙を書きます。 返事が来ることもあれば、来ないこともありました。 回復すると思われていた直子の回復は、どんどん遠のいていきました。 精神状態をひどく崩し、ついに施設から一度出て、病院で集中的な治療を受けることになりました。 その間に、「ワタナベ」は緑との仲を深めていきます。 しかし、直子を守るのだという強い意志がありました。 それでもやがて、彼は揺らぎ始めて、レイコさんに手紙を送ったりします。 主人公が強く祈ろうとも、レイコさんが強く願おうとも、直子は自殺しました。 その痛みから、主人公は一月ほど放浪の旅に出ました。 東京に再び主人公が戻ったのち、直子が死んだときの話をしに、レイコさんが施設から出てきました。 二度とは戻れない施設から出て来たのです。 直子の死の前に最後にあったのは、レイコさんなのでした。 主人公にすべて話し終えた後、レイコさんと一緒に、彼女のための葬式を二人きりで行います。 ワインを注ぎ、ギターを弾いて歌を歌う。 本物の、さみしい葬式ではなく、ささやかながら温かな葬式を二人で行ったのです。 それから、二人はセックスをしました。 主人公は、緑に電話を掛けます。 君と付き合いたいということを告げるのです。 緑は聞きます。 「あなた、今どこにいるの?」 ここはどこなんだろう。 僕は、今どこにいるんだろう。 そうして、『ノルウェイの森』という物語は静かに幕を閉じます。 スポンサーリンク 『ノルウェイの森』の解説 さて、あまりに有名過ぎる小説のため、たくさんの人に読まれた本作ですが、凄まじく賛否両論分かれる小説ではないかなと思います。 というのは、『ノルウェイの森』というのは、非常に繊細な魂を抱えたラブストーリーだと僕は思うのですが、一見すると、直子が好きなくせにホイホイいろんな女の子とすぐ寝る、セックスしてしまうので頭がおかしいようにも思えますね。 直子からの電話を待ってるくせに、永沢といういけ好かないエリート男と一緒に街へ繰り出し、女の子をひっかけては寝るという。 直子のこと、愛してないやん。 としか思えません。 こんな奴に愛だの恋だの語られてたまるか、お前のせいで直子は死んだんちゃうんか、とも思えます。 まあ、そうとしか思えないのもまた事実なのですが、村上春樹の作品においてセックスというのは結構重要な意味を持っていまして、互いを補完し合うというか、深く通じ合う、わかり合う、本作でいうところのすなわち互いに「回復」するということと同義なわけです。 『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』という対談集があるんですが、そこで肉体と精神の間にあるのがセックスだみたいなことを話されています。 「ものすごく女の子と寝たくなるんです」というワタナベくんの台詞は、これすなわち僕は猛烈に精神に不可解な傷を負っています、ということの顕れなのです。 その対比として永沢という男がいるわけですが、彼は精神に不可解な傷はないんですね。 彼にとっては、ゲームなんです。 同じように女の子と寝たいんでしょうけど、ちょっと主人公とは出発点が違うんです。 だから、互いに惹かれ合いつつ、互いに離れていくんですね。 本作、よくよく読んでいただきたいのですが、結局本当に愛したい人とはなかなか寝ないんですね。 また、直子のことを想えば思うほど、誰とも寝なくなっていくんです。 結局、彼の不可解な傷は他社からは癒えないんですね。 だから満たされないままだったりですね、回復しないままである、ということがどんどん浮き彫りになっていく。 というような構図になっています。 なので、たくさんの人と寝てはいるけれども、ついに分かり合えない、補完できない。 孤独を抱えたままである、という状態なので、主人公はとてもかわいそうで、抱かれる女の子もまたかわいそうなんです。 悲しい話なんです。 まあ、そういわれても感覚的に気持ち悪いという人は気持ち悪いでしょうけども。 特に女性は。 男は男で、うらやましいなとちょっと思ったりはします。 ちょっとですよ。 直子とは 死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。 というのが、本作を流れる根幹たるテーマなのはご一読いただければわかるかと思います。 割と冒頭に、太字で出てくるくらいですからね。 僕らは死から逃れて生を生きているのではなく、死を日々吸い込みながら生きている。 生の中に死がいつだって潜んでいる。 キズキという親友の死が、ワタナベをそういう思想にいざないます。 そしてまた、直子もそうなのです。 身近な人間を喪った時に、人はどうやって再生し、回復し、生きていくのか。 ワタナベも直子もそれは同じなのですね。 どう再生するか、し合えるか、どのようにこの死を内包した生を生きていくか。 という物語なのですね。 緑とは 緑は、直子との対比として現れます。 しかし、彼女も母を亡くしており、作中で父が亡くなるのですね。 彼女もまた、死が生の一部として存在する世界を生きています。 それでも、彼女の受け取り方は何というか、しなやかというか逞しいというか、か弱いのですがどこか力強く生きていこうとしています。 死の方へと吸い寄せられていく直子とはちょっと違うのですね。 その吸い寄せられていく直子を何とか引っ張り上げようとワタナベは頑張るのですが、緑に惹かれていくのは、ワタナベ自身の死への捉え方が変わってくるからなんですね。 キズキの死と同じ死だとしても、緑の父親の死とは受け取り方が違うんです。 それを咀嚼してから、二人は猛烈に逞しくなり近づき合っていくようにも思えます。 永沢とは 生だの死だのとは全く別次元のところに彼はいます。 割り切って生きるタイプの男ですね。 永沢もワタナベも全く違うと思いつつも、どこか似ているところを感じて互いに信頼を寄せるというとちょっと違うかもしれませんが、この共通点は何なのかというとですね、他者との距離なんですね。 どこまで行っても、他者に触れられない。 他人と一番深いところで交わることができない。 そこにある溝に気付いている。 だから、平気で女の子もどんどん寝れちゃうわけですね。 永沢さんの方はそれに自覚的で、だからこそ、ゲームのように才気を発揮し、そのうえで自分が上に行く方法を目指していきます。 一方のワタナベはそれをしない。 無自覚であって、何とか他者に触れようとする。 触れられないとしても、もがこうとする。 だから、直子を救おうともするし、永沢さんの彼女のハツミさんにいろいろ話をしたりもする。 だけど、直子の話を永沢には、絶対しないんですね。 何でしょうね、悲しい友情です。 レイコとは 本作最大の評価の分かれ目は、最後にレイコさんと寝るところだと思います。 なんでやねんと本を投げた人もたくさんいるでしょう。 二人は、直子の死を前にして、最後互いに回復し合わなければならなかったわけですね。 回復するかどうかはともかく、回復する手立てを互いにとらざるを得なかったんです。 そうでもしなければ、また死を内包する生を生きていけなかった。 心情的にこの本を読んでいくとどんどん嫌悪感が湧いてくるかもしれませんが、そういう風に読めるわけです。 そういう物語なんです。 井戸にまだ潜らない頃の村上春樹 他者との隔たり、この、どうにも埋まらぬ差、というのを村上春樹というのは初期に一杯描いてきてまして、デタッチメントと呼ばれるんですが、本作『ノルウェイの森』はそのデタッチメントを描いた最高点作品となります。 そのデタッチメントへの反抗というのが、セックスとして現れています。 それが、村上春樹としての他者に一番近付く方法として使われてるのですね。 ところで、村上春樹という作家は、よく井戸に入るシーンを描く作家なんですが、本作では井戸は序盤に少し出て来るだけです。 村上春樹における井戸というのは、イドのことです。 心理学でいうところの、無意識ですね。 本能、感情、過去の記憶が渦巻く、表面に現れない深層心理です。 この井戸に入っていくことで、無意識下に降り、他者との隔たりを越えられるのではないか、というのを後に実施していきます。 これは、デタッチメントとは逆にコミットメントと呼ばれます。 『ねじまき鳥クロニクル』とか『騎士団長殺し』とかはコミットメントの小説なのですね。 というようなわけで、まだ村上春樹が井戸に潜る前、他者に触れられないという、どうしようもない悲しさ、虚しさが『ノルウェイの森』には詰まっているわけです。 その辺りを感じるかどうかで賛否両論が分かれるんじゃないかなと思います。 タイトルの元ネタのビートルズの楽曲はどんな歌詞? さて、『ノルウェイの森』はビートルズの『 Norwegian Wood This Bird Has Flown 』からきています。 冒頭の空港で鳴り、過去にはレイコさんが歌っていた直子の好きな歌ですね。 まあ、京都の療養所を『ノルウェイの森』と表現しているのでしょう。 この元ネタの歌のタイトル、調べて知ったのですが、これ日本語訳は誤訳なんですね。 『ノルウェイの森』ではなく、『ノルウェイの木』が正しいそうです。 それはダサくてタイトルにならないけど。 ビートルズの曲の歌詞の中では、一人の女の子と会って、別れるというか置いて行かれる一人の男が描かれています。 ステキな部屋でしょ? ノルウェイの材木でできてるのよ。 というようなところにも共通点が見られますね。 誤訳はさておき、素敵なタイトルだと思います。 スポンサーリンク 映画にもなった『ノルウェイの森』 2010年にはこのベストセラー小説はベトナム出身でパリ育ち、『青いパパイヤの香り』や『シクロ』の監督を務めてきたトラン・アン・ユン監督によって『ノルウェイの森』は映画化されました。 主演は松山ケンイチさん、「ワタナベ」ですね。 ヒロイン直子を演じたのは菊地凛子さん。 緑は水原希子さんで、永沢は玉山鉄二さん、キズキは高良健吾さんが演じました。 とても映像の美しい作品で、『ノルウェイの森』の持つ空気感が表現されていて素敵です。 素敵ですが、何でしょうね、現実と夢を行き来するようなファンタジー感、メタファーのオンパレードの村上春樹作品をそのまま映像化すると、案外こう大事なものがこぼれていくような気はしました。 原作に忠実でとても好感の持てる映像化なのですがね。 『ノルウェイの森』が好きな人ほど、好き嫌いが分かれるかもしれません。 まあ、映画だけ見たという人も原作をぜひ読んでみてください。 スポンサーリンク.

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ワタナベと直子の関係 一番不思議なのが、 ワタナベと直子の関係です。 直子と体の関係を持ちながらも、ワタナベはミドリにも興味があるような素振りを見せます。 最初に言っておくと、ワタナベはヒロインを助けるヒーローではなく、 ごく普通の人間です。 この物語は最初から最後まで、直子の精神が病に侵され、亡くなるまでの過程を 淡々と描いています。 確かにワタナベは、要領を得ない直子の話にも辛抱強く耳を傾けるし、誕生日にはケーキだって買ってくるし、何度も直子のために長い手紙を出したりします。 でもそんな彼は、夜になると 永沢(ながさわ)という先輩と女を引っ掛けて寝るし、 ミドリという同じ講義を取っている女の子とも仲良くします。 この男は、本当に直子を救う気があるのか!? これが、初めてこの本を読んだ時の、私の正直な感想です。 ワタナベからやこの物語からは、 感情の匂いを嗅ぎ取れないのです。 でも、その中でも感情を露わにしている人物はいます。 それが 直子です。 直子と「外の世界」 ワタナベは、何かを与えられるような人間ではありません。 なぜなら彼は、いつも そこにいるだけだからです。 彼は何も与えない変わりに、自分も何かを求めたりはしないのです。 ミドリもワタナベに対して、「あなたは人に押し付けたりしない」というようなことを言っていましたね。 きっとワタナベのそばにいることは、とても心地良いのでしょう。 でも、それ以上でもそれ以下でもないのです。 そういう人たちが閉じこもる阿美寮は、とても居心地の良い楽園なのだと思います。 そこは傷つくこともないし、傷つけることもない優しい 「中の世界」です。 そしてそうだ、これが外の世界なんだと思って哀しい気持ちになった。 ワタナベが、直子の暮らす寮から出てきた時、 「直子の住む世界」と 「外の世界」との違いを感じます。 直子とワタナベの違いは、そんな外の世界に順応できるかどうかだと思います。 ただ、ワタナベも「外の世界」に対して納得していません。 なぜならキズキや直子のように繊細な人のことが、ワタナベは好きだからだです。 だからワタナベと直子の関係も、キズキを失ったことへの傷の舐め合いのようなものなんじゃないかなと思います。 彼らは、 キズキの亡霊と喋るために、一緒にいたのではないでしょうか。 キズキの亡霊とは、もちろん比喩表現です。 上手く言葉が見つからないのですが、 キズキとの思い出が一番近いような気もします。 つまりワタナベや直子は、キズキを通して「外の世界」と対話していたのではないでしょうか。 ここに、ワタナベと直子の関係のヒントがあるのではないかと思います。 キズキと直子 キズキという人間のことが語られるシーンは、本当に少ないです。 その上、ワタナベから見るキズキと、直子が語るキズキの間には、大きな 相違点があります。 キズキはワタナベの前では、自分の 弱い部分を見せようとしませんでした。 とても立派なものや美しいものを持っていたのに、最後まで自分に自信が持てなくて、あれもしなくちゃ、ここも変えなくちゃなんてそんなことばかり考えていたのよ。 そしてキズキはその本心を、直子にだけ打ち明けていたのです。 また、ワタナベは緑に対して、直子のことを放っておけないという理由に、 それがある種の人間としての責任であるということなんだ と言い放ちます。 それは、一体誰にとっての責任なのでしょうか? 恐らくそれは、キズキに対する責任なのだと私は思います。 直子はワタナベの中にキズキを見ていたし、ワタナベもまた直子の中にキズキを見ていたのです。 直子のお葬式について これから二人で直子のお葬式するのよ そう言ってレイコは、直子のためにギターで何曲もの歌を弾きます。 その中には、直子の好きなビートルズの 『ノルウェイの森』も含まれていました。 そして最後に、ワタナベは 直子の服を着たレイコと寝るのです。 一つ考えられることは、単に直子を亡くしたもの同士で傷を舐め合ったのかもしれないということです。 そしてもう一つは、直子の服を媒介に、ワタナベとレイコは亡くなった直子と対話していたのかもしれないということです。 話は変わりますが、この世で親しい者を亡くした感情を共有できるのは、 同じ者を亡くした経験がある者だけだと思っています。 私が祖母を亡くした時に、法事の場でお坊さんからこういう言葉を聞きました。 「同じ境遇の者が集まり、念仏を唱えることによって、遺された者は亡くなった人と会話するんだよ」と。 そういう話にあまり熱心なわけではないのですが、なぜだかその言葉だけは今でも覚えています。 だからきっと、亡くなった者を弔うのは自分のためなんだと思います。 今はもういない人と繋がる儀式。 それがワタナベとレイコにとっては、 寝ることなんじゃないかなと思いました。 ミドリの最後の言葉 この物語は、ワタナベとミドリの会話で幕を閉じます。 このシーンの意味は一体何なのかを理解するためにも、まずはミドリという人間について考えてみます。 ミドリは「外の世界」の象徴であり、リアルな 生(せい)を表しているのだと思います。 生きていくということは、直子のように「中の世界」で閉じこもって野菜を育てたりすることではありません。 私だって傷つくことはあるのよ。 私だってヘトヘトになることはあるのよ。 私だって泣きたくなることあるのよ。 彼女は直子のように繊細な感情を持ちながら、それでいて懸命に生きようとします。 ミドリは素直だけど、直子と違って上手くこの世界を生きていくための 処世術を知っている。 幸か不幸か、ミドリにはそれができてしまうのです。 この世界で生きる意味 私は時々、直子という人間のことを思い出します。 生きていたけど、今はもういない直子という存在を。 亡くなった者は心から消えません。 ずっと生きている者の心に残り続けるし、時には手招きしてきます。 「外の世界」は、直子が生きるにはあまりにも汚く、不公平で、残酷な世界でした。 でも、ワタナベやミドリや私は、そんな世界で今も生きています。 この世界で生きることに、一体どんな意味があるのでしょうか? どうしてこんなに美しい体が病まなくてはならないのか、と僕は思った。 私は、ワタナベがこう言った気持ちがわかるような気がします。 きっとワタナベにとって直子は、 世界の希望そのものだったんだと思います。 もしも直子が生きていてくれたら、直子がこの世界で暮らしていけたら、直子と一緒にこの世界を生きていけたのなら。 だからワタナベは、今もずっと、直子のいる 「二つの世界の真ん中」にいるんじゃないかなと思います。 直子がこの世界を去ろうと決めたあの日は、とても晴れやかな気持ちだったのかもしれません。 でも最期に、彼女は泣いたのです。 きっとこの世界が、この世界で共に生きようと言ってくれたワタナベが、この世界で生きられない自分のことが、悲しくて泣いたのだと私は思います。 本当にいつまでも私のことを忘れないでいてくれる? これからもずっと、私とワタナベは直子の面影を、世界の真ん中で探し続けるのだと思います。

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