一条 工務 店 殺人 ピアノ。 一条ルールまとめ

一条工務店が株式上場しない理由なぜでしょうか?

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リビングに1面の大きな壁を設置したい• リビングにピアノを設置したい• リビングに季節飾りを設置したい• リビングに息子たちの作成物を飾りたい それでは検討の過程を1つずつみていきます。 入居宅訪問、体験宿泊、展示場巡りをした結果、長方形が1番広く感じたからです。 その為、柱もなくタレ壁もありません。 以下は初期のLDK全体の図面です。 東(右)はテレビボード、西(左)はキッチン、南(下)は窓・書斎・納戸、北(上)は子供部屋となります。 LDKにはピアノと床の間を設置したいと考えていました。 設置場所は一箇所しかなく、赤い四角の部分です。 その時点で、床の間の設置はかなり厳しい条件となりました。 しかも和室を考えていなかったので、無理やり床の間を設置したとしても違和感は回避できないでしょう。 正確に言えば、床の間ではなくとも何か飾れるような空間であれば良いと考えていました。 そこで、リビング北側の壁を大きな1枚にする事で、使い勝手を向上させようと試みました。 しかし、最初の頃はリモコンニッチの都合、子供部屋の扉の位置に制限がありました。 壁を1面にすることができず、2面になっていたのです。 部屋の角は、一方を必ず壁にする必要があります。 ドアとリモコンニッチで部屋の角を作ることは不可能なのです。 その為、リビング北側の壁は2枚に分かれてしまうのでした。 どうやっても1枚の壁にする事ができず、一旦は諦めました。 ところが、思わぬところから解決の糸口が見つかったのです。 当初はキッチンを壁付けにして、スリットスライダーを設置していました。 しかし、これだと赤枠の空間がもったいないです。 何をするわけでもない空間なんて、無駄としか思えなかったのです。 私の考えでは絶対に許容できません。 そこで建築士に相談すると、いっそのこと壁を削除してみては?と提案されました。 その結果、アイランドキッチンになり、LDKも広くなりました。 なかなか素晴らしい提案でした。 さらにここから新たにできた壁(右の赤い四角)にリモコンニッチを移動させます。 これで子供部屋の角に壁ができました。 後は扉の位置を移動させれば1枚の大きな壁の完成です。 洗面所には扉を付けないことにしました。 洗面所も含めるとLDKはより開放的になりました。 結果として目標は達成しました。 しかし、リモコンニッチと神棚を移動させたあとは、しばらく扉の位置を変えずにいました。 というか忘れていたのです。 できないから一旦保留にしておいたのですが、そういう事はメモに残しておいたほうがよいです。 後々になると図面の修正もはいり、当初は諦めていたことが可能になる場合もあります。 最終決定前に書き溜めておいたメモを見ると、変更忘れがなくなります。 私は姉が習っていた為、ピアノを弾く環境だけはありました。 独学ですが、簡単な曲なら弾けます。 せっかく夫婦揃ってピアノが弾けるので、新居にはピアノを設置することにしました。 生涯にわたり、認知機能低下を防ぐ狙いもあります。 LDKの壁を1枚にしたことで、ピアノの収まりが良くなりました。 ピアノの重さと床の強度が心配だったのですが、特に床補強は必要ないと言われました。 ただし、1点に重さが集中しないようにとだけ注意されました。 ピアノの足には重さを分散させるために、板などを挟むとよいそうです。 せっかく日本に住んでいるのですから、四季折々の日本の祭事を子供たちにも経験させたいと考えています。 1月には正月飾り、3月には雛人形、5月には5月人形など、季節飾りを設置できる空間が欲しかったのです。 フローリングの都合、床の間は断念しました。 しかし、ピアノの横には季節飾りを設置しても邪魔にならない空間を確保することができました。 せっかく良い空間を確保したのに、それ以外の時に何もしないのはもったいないです。 そこで、子供たちが学校などで作成してきたモノを飾れるように、ピクチャーレールWを設置しました。 本当ならばピクチャーレールLを設置したかったのですが、勾配天井のため断念しました。 リビング北側の天井は5mくらいあります。 当時は次男が1歳だったということもあり、何社も回ることができなかったことも大きな理由です。 もっと無理してでもハウスメーカー巡りをしていたら、一条よりも安くて満足できるハウスメーカーや工務店に出会えたかもしれません。 しかし、今ならそんな苦労をしなくても、たった3分で『資金計画』『間取り図』『土地探し』をやってくれるサービスがあります。 もちろん利用は全て無料です。 さらにいうと『平屋』を専門に扱っていたりもします。

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300億円の余波:一条工務店・大澄賢次郎氏 急上昇?広報の人~頑張って!│一条工務店i

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展示場での出来事 一条工務店の展示場を探していると、至る所に一条工務店の旗が立っていました。 一条工務店の家は色々種類がありますが、私がほしいのは一条工務店の『i-smart アイスマート 』です。 i-smartに到着 i-smartに入り色々見ていると、後ろから視線を感じ、振り向くとそこには若そうな営業マンがいました。 軽い挨拶をしたものの、特に説明をし始めるわけでもなく近くにいますw あいつは何者なんだ。 本当に社員なのか?もしかして、、、変態?笑 なんてことを考えながら、いざ二階へ。 中々話しかけてくれない営業マン 全然話しかけてくれないので、二階のタンクレストイレを見ながら思い切って、 「このタンクレストイレも標準なんだー」 と言って後ろをチラチラみると、あっちもチラチラ見ている。 『え、、うそやん』と思いながら、 結局、自分から話しかけました。 あとから聞くと、当時はまだ営業の仕方がわからずお客様を怒らせてしまっていたことがあったので、 話しかける気力がなかったみたいです。 (はぁ?) とまぁ、これが一条工務店の新人営業マンと話しかけたのが最初でした。 これが契約書のミスにより60万を契約後に値上げしてくる営業マンなのですが、、、 一度費用の算出をお願いすることに その後、設備の説明、ざっくりとした土地の大きさと、建物の希望を伝え、 図面と費用を算出してもらうようにしました。 後日、図面と費用を確認するとびっくりするぐらい安く。 設備も別のハウスメーカーよりもいい物でした。 最後に契約を迫ってきた また、営業マンから、「今月中に契約していただかないと、坪単価が高くなります。 」と煽られてしまい、妻と相談して、一条工務店で家を建てることに決めました。 (今思えばそんなの無視して考えればよかった。 ) 契約までは、一条工務店の展示場に行ってから二週間も経っていないと思います。 しかし、その後新人社員のミスにより、費用は高くなってしまうのでした、、、、.

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一条工務店のトラブルまとめ【太陽光の反射光、訴訟、カビ、殺人】

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: 標的 加害者の階下住民 (母親B・長女C・次女D) 日付 (49年) 9時10分ごろ 〈JST・〉 概要 でかつ音に対し極端に過敏だった男が 住んでいた県営団地で「自身の真下の部屋に住んでいる被害者宅から発される・の音などがうるさい」と殺意を抱き、在宅中だった親子3人を刺殺した。 原因 ピアノ・日曜大工などの音 攻撃手段 で刺す(被害者3人)・で首を絞める(次女D) 攻撃側人数 1人 武器 刺身包丁(刃渡り20. 5センチメートル〈cm〉)1本・腹巻用さらし1枚 死亡者 3人 犯人 男O(事件当時46歳・被害者の真上の部屋406号室居住) 動機 被害者方から発されていた物音に対し加害者Oが「自分への嫌がらせのためだ」と思い込んだこと 対処 神奈川県警が加害者Oを ・横浜地検小田原支部が 謝罪 捜査段階では被害者への謝罪の言葉を述べたが 、公判では全く犯行に対する反省・悔悟の情を示さなかった。 また、精神鑑定により明確にパラノイア()と鑑定された患者による事件は日本の裁判史上初だった。 管轄 (捜査一課・鑑識課および) ・小田原支部 ピアノ騒音殺人事件(ピアノそうおんさつじんじけん)は、(49年)朝に(現:平塚市横内)の「県営横内団地」で発生した事件である。 ピアノ殺人事件とも呼称される。 加害者が「・など階下からのがうるさい」と階下の被害者一家に殺意を抱き、母娘3人を刺殺した。 本事件は社会に大きな衝撃を与え 、同時に近隣からの騒音問題をクローズアップするきっかけともなった。 子供のころは明るく活発な性格で学業成績も良かったが 、1938年(昭和13年)ごろ に近所のの子供と遊びそのまねをしているうちに自らも吃るようになり 、以来無口で内向的になった。 それ以降は学業成績も著しく低下し、次第に無口で暗い性格に変わっていった。 1945年(昭和20年)3月に旧制錦城中学校を卒業後、終戦まで両親の疎開先だった(現:)の軍需工場 に勤務していたが、親元を離れて生計を立てるようになってからは肉親とほとんど音信不通の生活を続けていた。 1950年9月には分納金39,000円を持ち逃げし、の遊女のところで約1か月間でその金を遣い果たすと、逃走中の1950年10月には生活費に窮して駅の定期券売り場で現金2,000円をひったくろうとして警察に逮捕され 、台東簡易裁判所で懲役1年・執行猶予3年の判決を受けた。 このため1950年(昭和25年)には退職を余儀なくされ、それ以降は東京都内・神奈川県内の会社など。 この間には一時山梨の実家に戻って農作業・山仕事を手伝ったり、1951年(昭和26年)からは旋盤工場で勤務したりしたが、やがて就労意欲を失い、1953年(昭和28年)ごろには自宅でぶらぶらしていたことを兄にとがめられたことで「家にいたらえらいことになる」と家を出、界隈で約1年間にわたり生活を送った。 その間、Oは東京都内で勤務していた1953年(昭和28年)ごろから神経性の持ちとなったほか、(昭和34年)5月には最初の結婚をして他家の婿養子となったが、翌1960年(昭和35年)4月に妻からの申し立てにより離婚調停が行われ、同年11月にOが30,000円を受け取ることで離婚調停が成立した。 また1959年 - 1963年(昭和38年)には東京都のアパートに居住しており 、1963年ごろにはに2交替制で勤務して早朝に就寝することが多かったが 、この時には隣人一家から「ステレオの音がうるさい」と苦情を受けてから物音に対し病的に敏感になっており 、1965年(昭和40年)ごろには神経過敏になって早朝さえずるの鳴き声さえうるさく感じるようになっていた。 親戚が経営していた神奈川県内の鉄工所に勤務していた1965年4月に知人の紹介を受けて再婚したが 、妻との夫婦仲は険悪で、結婚当初から些細なことで殴る・小突くなど(DV)を加えるなどしていたため、妻は何度も離婚を考えていた。 1967年(昭和42年)ごろからは夫婦で八王子市内の社員寮に住み込み、Oは会社のボイラーマン・妻は寮の管理人としてそれぞれ勤務していたが、Oは夜間の寮生の話し声・麻雀の音等を気に掛けて何度も大声で注意し、最終的に多数の寮生と激しい口論をしたことがきっかけで翌1968年(昭和43年)に退職した。 1970年(昭和45年)4月以降は事件現場となった神奈川県営横内団地34棟4階(406号室)に入居した一方 、1973年(昭和48年)7月以降は無職となって給付金などで暮らしていたが 、事件直前の1974年7月ごろには手持ちの生活資金にも窮し始めており 、事件発生まで月7,000円の家賃を約3か月間滞納していた。 1969年(昭和44年)5月 - 1970年7月には平塚市内の小松電子金属(現:)に勤務していたが、当時は内向的で口数も少なく目立たない存在だったほか、同社に就職する前にも7,8か所職場を転々としていた。 またOは1973年7月に「仕事に飽きた」と退社するまで平塚市内の車体部品製造会社に工員として勤務していたが、同社には被害者遺族となった男性Aも(Oが退社した後の)1974年4月から勤務していた。 事件の背景 [ ] 事件現場となった「神奈川県営横内団地」は国鉄・から沿いに6キロメートル(km)ほど北上した田園地帯にある賃貸団地で 、高度経済成長期の急激な人口増に対応するために神奈川県が水田を埋め立て、約1,400世帯が住める大型団地として造成した。 間取りは2および3DKで 、団地には1967年(昭和42年) - 1971年(昭和46年)にかけ1,364戸が入居し、事件当時は約4,000人が住んでいた。 Oが妻とともに県営横内団地へ引っ越してからわずか2か月後となる1970年6月、Oの居室の階下である3階306号室に被害者一家(男性A・女性Bの夫婦と長女C・次女Dの4人家族)が引っ越してきたが、Oはその際に入居の挨拶を受けられなかったため被害者一家を「礼儀作法を弁えない非常識な家族だ」と思い込んでいた。 その後、間もなく被害者宅ではを始めるようになったため、その際の金槌の音が立つようになったほか「ベランダのサッシ戸・玄関ドアの開閉音」「トイレ・風呂場の扉の開閉音をOが音を気にしだし 、「金槌の音があまりにもひどい」と感じた際には一度自宅から階下の被害者方へ「うるさい」などと怒鳴ったことがあった。 これに加え、Oは「団地に住む近所の人々が自分に対し冷たい態度を取っている」と感じるようになった矢先、他人には人づきあいが良かった被害者一家の妻Bが自分と会っても挨拶をしなかったことがあったため、Oは「Bが近所の人々に自分の悪口を言いふらしている」と思い込み、次第にBへの憎しみを覚えるようになった。 また1973年(昭和48年)11月には被害者一家宅がピアノ を購入し、長女Cがこれを弾くようになったためOはその音を気にしだし 、1974年4月ごろには一度妻とともに「自分が在宅しているときはピアノを弾かないで欲しい」と申し出たこともあったが、その後も被害者宅ではピアノを弾くのをやめなかったため、Oは次第に「ピアノを弾くのは自分への嫌がらせのためだ」とも思い込むようになった。 しかし事件発生直後の『』()では「被害者家族はOが自分たちや同階に住む住民へ苦情を入れてきた後、なるべくOが留守の時間帯にピアノの稽古をさせており、ピアノの音もOに酷い迷惑をかけるほどうるさいものではなかった」 「Oは被害者宅からピアノの音が聞こえると「うるさい」と大声で怒鳴り込んだばかりか、時には自分の妻にことがあった」と報道されている。 そして1973年7月ごろからは持病の片頭痛が再発して耳鳴りがするなどしたほか就労意欲がなく、生活費にも困窮したことで自暴自棄になりだしたほか 、7月1日ごろからは被害者一家の部屋の玄関前を通るたびに「夫Aが包丁を持って自分を刺しに来るのではないか?」と被害妄想を感じたため、7月10日ごろには鉄棒 に出刃包丁を取り付けて槍を作った。 同年8月1日ごろには「一家がピアノを弾くのをやめないなら妻Bとその子供たち(C・D)を殺害しよう」と考えるまでになった。 事件1週間前には「親のしつけが悪いからまず親を殺そう」と犯行機会を窺いつつ 、凶器の刺身包丁・ペンチ・背広・ガーゼなどを購入していた一方 、このころには妻が離婚話の相談のため八王子市内の実家へ帰っていた。 このころ、Oは八王子市内でかつてトラブルになった近隣住民を殺害するためその転居先を探し当て、外から様子を窺ったが、標的の女性が自転車で外出したため「自分に気づいて交番に行った」と誤解して殺害を断念して帰宅し、その後はA一家への犯行機会を窺っていた。 また事件前日(1974年8月27日)にはOに対し、階下305号室(被害者一家の隣室)に入居した女性が入居挨拶に来たが、Oはその女性に対しBの悪口を話していた。 この他、Oは事件前に八王子市内に住んでいた知人に対し「海で死にたい」と吐露していた。 事件発生 [ ] 1974年8月28日7時15分ごろ、加害者O(事件当時46歳)は階下の被害者方で響いていたピアノの音で目が覚め起床したが、それまでの経緯などからピアノの音を非常に気にしていたことに加え、それまでは9時過ぎにならなければ鳴らなかったピアノの音が朝早くからなり出したことに憤慨した。 また前日に挨拶に来た女性に対し自分がBの悪口を話したことを思い出し「Bが自分への嫌がらせ目的で子供にピアノを弾かせている」と邪推したため、Bへの憤りを抑えることができなくなったOは女性B(事件当時33歳)・長女C(同8歳) ・次女D(同4歳)をこの際一気に殺害しようと決意し 、あらかじめ犯行で使用するため購入していた凶器の(刃渡り20. 5センチメートル〈cm〉)1本および腹巻用1枚・ペンチ1個 ・背広などを買い物用袋の中にまとめて入れ 、殺害の準備を行った。 さらしは包丁で殺害しきれなかった場合に被害者を絞殺する目的で予備の凶器として、ペンチは警察への通報を妨害するため電話線を切断する目的でそれぞれ用意していた。 さらに犯行を容易に遂行するため、Bの夫Aが出勤して留守になるときとB・Dが室外に出るところを確認し、9時10分ごろに306号室へ侵入した。 Oは玄関口の電話線をペンチで切断してドアを開け 、3畳間で一人立ったままピアノを弾いていた長女Cを刺身包丁で襲い、Cの左胸などを複数回突き刺した。 その後Oは室内のふすまの陰に身を潜めてB・Dの入室を待ち伏せ、4畳半の部屋に入室した次女Dの腹部などを数回突き刺し、持っていたさらしでDの首を絞めて殺害した。 そしてC・D姉妹を殺害した直後、Oは自己の犯罪を正当化する目的で3畳間・4畳半の境のふすまに鉛筆で「迷惑をかけるんだからスミマセンの一言位い言え。 気分の問題だ」 「人間、殺人鬼にはなれないものだ」などと恨みの言葉を書き残したほか 、息絶えたC・D姉妹の遺体にそばにあったタオルケットを掛けたが、間もなくゴミ当番で出ていた母親Bが帰宅し 、子どもの名を呼びながら3畳間に入室してきたため、Bの頸部などを数回突き刺して殺害した。 被害者3人の死因はいずれも失血死だった。 長女C - 即時心臓刺創等の傷害• 次女D - 大動脈切裁等の傷害• 母親B - 左鎖骨下動脈切断等の傷害 犯行後、Oは306号室の出口を施錠しようとしていたところを隣室305号室に住んでいた女性(事件前日に引っ越してきた女性)に目撃されたため 、4階の自室に戻ってから犯行に使用した道具・背広の上着を手提げ袋に入れ、手製の槍・釣り道具 (釣り竿など)・リュックサックを持って バイク で神奈川県まで逃走し、バイクは国鉄相模線・付近の農道 で乗り捨てた。 その後はタクシーで国鉄へ向かい、バスを乗り継いで内へ逃走すると同市内の(遊行寺)参道の小屋裏側に刺身包丁・背広などを捨てたほか 、さらに遊行寺から東京都までバスを乗り継いでから電車でを経由し 、同日は国鉄・( )付近で下車して同駅付近で野宿した。 翌8月29日には東京都内で過ごしてから国鉄で(神奈川県)へ行き路上駐車されていた車の中で就寝し、30日は再び東京へ行ってから夜になって平塚市へ戻り、日付が変わった31日未明になって平塚署へ出頭した。 また逃走中、Oは自己の服装を整えて逃走するため以下の民家3軒で窃盗事件を起こした。 同日10時ごろ - 神奈川県高座郡寒川町宮山3478番地の民家庭先、住人所有の作業用ズボン1本(時価500円相当)• 同日10時30分ごろ - 神奈川県高座郡寒川町倉見648番地の民家庭先、住人所有の作業用上着1着(時価2,000円相当)• 8月30日6時30分ごろ - 東京都805番地の民家庭先、住人所有の作業用上着1着ほか1点(時価合計1,000円相当) 捜査 [ ] 同日9時15分ごろに被害者宅の隣室住民から「被害者宅で男が暴れている」とへ通報が寄せられ、員が駆け付けたところ3DKの被害者宅6畳間でB・C・Dがいずれも死亡していた。 また事件直後に「被害者宅の真上に住んでいたOが血を浴びて被害者の部屋から逃げバイクで立ち去った」という目撃証言が寄せられたため、本事件を殺人事件と断定し県警捜査一課・鑑識課の応援を受けて捜査を開始した平塚署はOを犯人と断定し 、被疑者Oを殺人容疑で全国にした。 捜査本部は「Oが事件前、知人に対し『海に行って死にたい』と漏らしていたため、海で自殺する危険性もある」と判断して捜査員200人を派遣し 、平塚市・のに面する海岸にも捜査網を広げたほか 、Oの実父・親類宅があった東京都()や隣県の・にも協力を要請した。 事件から3日後の1974年8月31日0時15分、Oは捜査本部が設置されていた平塚署へ出頭して殺人容疑で逮捕された。 Oは取り調べに対し犯行を全面的に自供したほか 、自供通り凶器の刺身包丁が藤沢市内で、逃走に使用したバイクも寒川町内で発見された。 またOは「1959年 - 1963年まで自分が住んでいた八王子市並木町のアパートで隣人とトラブルになり、その隣人一家4人も殺そうと思った。 本事件の被害者一家宅からピアノの音が聞こえたことでその一家に対しても再び憎しみが燃え上がり、8月初めにはその転居先を調べ上げ2度下見にも行った。 刺身包丁は八王子の一家を殺すため20日に内で購入したものだ」と自供した。 このことから『』()は「10年以上も前の些細なトラブルに執着するOの異常さを見せている」と報道した。 小田原支部は1974年9月20日に被疑者Oを・で小田原支部へ起訴した。 それまでの警察官・検察官による取調べに対し、被疑者Oは「カッとなってやった。 『男性Aに襲われるかもしれない』と思い、その予防のつもりだった」と供述したほか、「被害者には申し訳ないと思う」などと反省・謝罪の弁も述べていた。 刑事裁判 [ ] 第一審・横浜地裁小田原支部 [ ] 刑事の第一審でOは「死刑になりたかったから被害者3人を殺害した」と発言するなど異常な性格が認められたが、同公判で行われたでは「被告人Oは精神病質者だが、犯行時に心神耗弱状態だった点は認められない」とする鑑定結果が示された。 1974年10月28日に小田原支部(海老原震一裁判長)で第一審初公判が開かれ、被告人Oは罪状認否で「被害者3人を刺すことしか考えておらず殺すつもりはなかった」と述べて殺意を否認した。 1974年11月25日に第2回公判で証拠調べが行われ、同年12月16日の第3回公判では海老原裁判長が「小田原医院」院長・八幡衡平に対し、弁護人が申請していた被告人Oの精神鑑定を依頼した。 八幡は被告人Oと2回面接して田中ビネー式知能検査・問診を行った上で事件記録を参照して鑑定書を作成し、1975年2月11日付で地裁支部へ提出した。 (昭和50年)2月24日に開かれた第4回公判では被告人Oの部屋の騒音を計測した平塚市職員(公害課主事)がとして出廷し、「平塚署からの依頼で9月2日・6日の2回にわたり現場まで階下のピアノの音がどの程度響くかを測定した」という証言をした。 その結果は「1回目は14時の測定では周囲の暗騒音の中央値が44で、階下で弾くピアノの音は周囲の喧騒音(戸外の子供たちの遊ぶ声など)にかき消され測定できなかった。 2回目は19時30分から測定したが、窓を開けた状態でも上限値44ホンであった」というものだった。 しかし測定時にピアノを弾いた時間は約15分で、ピアノは平塚署の署員もしくは警察関係者が弾いていたため 、上前 1982 は「この測定は不正とまでは言えないが、不公平と言われてもやむを得ない。 その点への考察を怠った裁判には致命的な欠陥がある」と指摘している。 1975年3月17日に開かれた第5回公判では被告人Oの精神鑑定を依頼されていた医師・八幡衡平が証人として出廷し、証人尋問で「被告人Oは騒音公害によって道徳感情が鈍麻した()に該当するが、狭義の症状(心神喪失・心神耗弱に該当する状態)ではなく、知能も普通である」と述べた。 その後、検察官からの「『医学的に見れば精神病と正常の中間に該当するが、心神喪失・心神耗弱には該当せず、は認められる』ということか?」という趣旨の質問をされると「責任能力はある」と回答した一方 、弁護人の「是非善悪の弁別・自己の行動を制御する能力が欠けた状態であるため、O個人の罪は軽減されるべきだ」という点を強調した質問に対しても肯定的な答えを返した。 1975年4月14日に開かれた第6回公判では被害者遺族である男性Aとその義兄(女性Bの兄)が検察側証人として出廷し、それぞれ死刑を求めた。 その後、同年5月12日に開かれた第7回公判では「騒音被害者の会」代表・佐野芳子が弁護人側証人として出廷し、「被害者には大変気の毒な事件だが、会合では被告人Oに同情する意見が多く、その旨の嘆願書 も計100通近く書かれている」と証言したほか 、被告人Oの元妻(事件後に離婚)も出廷して「Oは音に対し異常に神経質だったが、ピアノの音は自分にも度が過ぎて聞こえていた。 しかし『団地はうるさいところ』と思っていたから被害者に対し苦情を言いに行くことはなかった」と証言した。 1975年6月2日に開かれた第8回公判では被告人Oへの被告人質問が行われたが、被告人Oは捜査段階と一転して「死刑になりたかったからやった。 被害者に対する『申し訳ない』という言葉は本心ではなく、事件を起こしたことへの後悔・反省はしていない」と証言した。 その後、第9回公判(1975年8圧11日)でも論告求刑を前に改めて被告人質問が行われたが、Oは第8回公判と同様に「死刑になりたかった。 被害者に申し訳ないとは思わない」と供述した。 1975年8月11日10時から横浜地裁小田原支部(海老原震一裁判長)で公判が開かれ、・樋田誠は被告人Oにを求刑した。 検察官は論告で被告人Oのについて「被告人Oは病質者だが刑法上の心身喪失・心神耗弱ではなく、罰を償うだけの能力は持っている」と指摘した上で 、「犯行は計画的で執拗・残虐な殺害方法により罪のない子供2人を殺している。 ピアノ・日曜大工の音は近隣者に不快を与えるほどのものではなかった。 被告人Oの行為は反社会的・自己中心的で死刑が相当だ」と主張した。 1975年10月20日13時から判決公判が開かれ 、横浜地裁小田原支部(海老原震一裁判長)は横浜地検の求刑通り被告人Oに死刑を言い渡した。 の要旨は以下の通り。 (責任能力に関して) - 弁護人は「日曜大工・ピアノの音から被害者一家に対し極度の憎しみを持ち始めた矢先に『Bの夫Aに刃物で刺される』と恐怖を抱いたことで『いっそ先に被害者らを殺害しよう』と思い立って犯行に至った。 これは正常の心理からすれば理解不能な以上の精神状態の下での犯罪というほかなく、被告人は精神病質者であったため『事理弁識能力が著しく減弱した心神耗弱状態』とみなしてを減軽すべきだ」と主張するが、被告人は確かに「精神病質者でかつ音に対する過敏症」であった点は認められるものの、周到な準備の上で被害者Bの夫Aが出勤後留守になったところを確認した上で犯行に及んだ上、娘2人(C・D)を殺害した直後に自己の犯罪を正当化するため鉛筆でメッセージを書き残すなど、犯行を冷徹に遂行していることが認められるため、弁護人の主張は採用できない。 (量刑の理由)• 犯行は被害者方から発されたピアノ・日曜大工・ベランダのサッシ戸の音などに端を発したものだが、そのピアノの音は平塚市公害課による音響測定によれば被告人Oの部屋(406号室)で聞いた場合「40 - 45ホン程度」で、神奈川県公害対策事務局が行政指導上の目安として音の人体に対する影響を実験などでまとめた基準例によれば「睡眠を妨げられ、病気の人は寝ていられない」という程度の音だった。 また被害者方の真下206号室の住人の反応も「不快感を与えるほどの音とは感じられなかった」というもので、しかも早朝・深夜(特に通常人の睡眠時間帯)には発されていない。 むしろその影響は音を感受する被告人Oが「音に対し極度の神経過敏症であった上に情意に欠ける異常性格者であったこと」と、他人に対しては特に人づきあいが良く社交家肌の被害者Bが被告人Oの日常行動を見て「変人だ」と思ったためか、被告人Oに対してはほとんど近所付き合いをしなかったという「意思疎通に欠けた点」があったことに由来し、被害者方・被告人Oとの間に意思疎通があれば十分阻止し得たといえる。 しかし被害者は「被告人Oは音に極度の神経過敏症で異常性格者だ」ということを知る由はなく、意思疎通不足の点をもって被害者のみを責めることはできないし、被告人Oは「ピアノを弾く時間が一定していないので家にもいられない状態だった」と述べているが、被害者方には被告人O側から「ピアノを弾く時間を制限してくれ」と申し入れられたにも拘らずそれを拒否したと思われるような事情も認められない。 被告人Oが被害者方に直接苦情を申し入れたのはわずか1回で、騒音問題について被害者側と対話するよう努力した痕跡は全く認められず、被害者を責める限りは同じく被告人Oの態度も責められなければならない。 その一歩で被告人Oは自己の被害者に対する態度を一顧だにせず、被害者Bの自己に対する態度のみを自己流に責め、果てはその報復として犯行を用意周到に計画した上で実行し、一片の憐憫の情もなく罪のない幼女2人までも一気に殺害した。 犯行の態様は「冷静に致命傷を与える部位を狙い鋭利な刃物で突き、被害者3人中1人(次女D)に対しては『手ごたえが不十分』としてさらしで首を絞める」など残虐極まりないもので、被告人Oは法廷でも全く自己の犯した罪に対し悔悟の情を示していない。 第一審判決後、被告人Oは死刑を望んでへしようとしなかったため 、1975年11月1日付でが控訴した。 控訴審・東京高裁 [ ] (昭和51年)5月11日に刑事第4部(裁判長)で被告人Oの控訴審初公判が開かれ、寺尾裁判長は教授・中田修に被告人Oの精神鑑定実施を依頼した。 これを受けて中田が1976年6月30日 - 10月5日までの間、計10回にわたり被告人Oの心身状態を検査した上で「被告人Oは犯行当時(偏執症)に罹患しており、殺人行為は妄想に影響づけられて実行したもの」とする鑑定結果を提出したが、これは「被告人にとって有利な鑑定結果」とされ「場合によっては死刑を免れる可能性」もあった。 しかし「死刑に処されたい」という願望を抱いていた被告人Oは「鑑定結果次第では死刑判決が破棄されて減軽されるか無罪になるかもしれない」と恐れ、検査の過程で鑑定への協力を拒否するようになっていたほか、鑑定人(中田)・職員に対し「控訴を取り下げたい」と漏らしていた。 被告人Oは鑑定最終日となる1976年10月5日付で中田や拘置所職員の説得を無視して控訴取下申立書を作成し、控訴取り下げの手続きを取ったため死刑判決が確定することとなった。 当時、第一審(地裁)で死刑判決を受けた被告人が高裁に控訴しなかったり、控訴審開始後に控訴を取り下げて死刑が確定したケースは極めて稀だった。 この際、被告人Oは驚いて面会した・井本良光に対し「自分は音に対し(通常の人間には見られないほど)病的に敏感だ。 これ以上音の苦しみには耐えられない」「好んで死ぬわけではないが、と死刑ならば死刑がいい。 仮に死刑を免れても生き続けることに耐えきれない」と述べている。 これに対し弁護人・井本は「控訴取り下げは正常ではない精神状態の下で行われており無効だ」と上申書を提出したため 、裁判所に異議を申し立てる日本で初めて事態となったが 、被告人Oは控訴取り下げ後も弁護人・検察官・東京高裁に対し「第一審判決後に弁護人が行った控訴の申し立ては自分の意思に反して行われたものだ」と主張した。 東京高裁刑事第4部(寺尾正二裁判長)は1976年12月16日付で「被告人Oは『自分は騒音恐怖症・不眠症に悩んでいるため今後の社会生活・拘禁生活には到底耐えられないから、死刑になって一刻も早くこの世を去りたい』と願い自らの意思で控訴を取り下げたものと考えられ、これは通常人の考えからすれば不自然ではあるが、取り下げ申し立て自体は訴訟能力を欠いていない状態で行われたため有効である」として、弁護人の「控訴取り下げは無効」とする申し立てを棄却する決定を出した。 国選弁護人・井本が高裁決定を不服として東京高裁刑事第5部(谷口正孝裁判長)に異議申し立てを行い、これを受けた刑事第5部は1976年末に「刑事第4部の決定執行停止(=事実上の死刑執行停止)をした上で第一審以降の全記録の審査」を行ったほか、(昭和52年)2月9日には非公開の法廷で被告人質問を行ったが、その際に被告人Oは「自分こそ(騒音公害の)被害者だ」と反省の情を示さず、改めて「死刑になりたい」と意思表示した。 また被告人Oは後述の東京高裁決定(弁護人の異議申し立て棄却)までに東京高裁による審尋に対し以下のように述べていた。 「第一審判決後に弁護人が自分の意思に反して控訴したため『自分が控訴取り下げをすればそれで済む』と思っている」• 「控訴取下書を書く前に控訴取り下げを後悔することがないよう、・などの書物を読んで死について研究し『いかなる偉人でも絶対に死は避けられない』と知った。 逃げ場のない刑務所に行って隣房者の発する騒音に耐えることは苦労で、苦労は今までの経験で十分だ。 自分には死刑か無期(懲役)しかなく、そのどちらかを選択しなければならないなら(苦しみながら生きるだけの)刑務所生活より死刑になる方がいい」• 「精神鑑定の結果(心神喪失と認定され)無罪になっても3人を殺しているから当然精神病院で一生暮らさなければならない。 まず無罪にはならないだろうが、精神病院も刑務所と同じで大変だと思うから無罪にはなりたくない」 1977年4月11日付で東京高裁刑事第5部(谷口正孝裁判長)は「被告人Oは『仮に死刑を免れたとしても騒音過敏症・不眠症などにより長い拘禁生活の苦痛に耐えられないばかりか、もはや人生にも疲れているのでそれらから逃避するため自殺を希望し、死刑に処されることでその目標を遂げたい』と考え控訴を取り下げた。 これは異例のことであり人命にも関わることではあるが、被告人が自分の権利を守る能力(訴訟能力)を十分に有した上で自分なりに死について悟りを得た上で出した結論であり法的に有効である」と結論付け 、申し立てを棄却する決定を出した。 決定送達後5日以内(1977年4月16日まで)にへ特別抗告しなければ死刑が確定する事態となったため 、井本は4月13日に東京拘置所で被告人Oと面会して特別抗告するか否かの意思確認を行ったところ「抗告しないでほしい。 もうこれ以上(裁判で)争わず死なせてほしい」と回答されたため特別抗告を断念し、抗告期限が切れる1977年4月16日をもって正式に死刑がした。 『』()は1977年4月12日朝刊記事で自ら「死刑になりたい」と控訴を取り下げた被告人Oを(弁護士を通じて死刑を要求し希望通り処刑されたの殺人犯)に喩え「日本版ギルモア」と報道した。 死刑確定後 [ ] 死刑囚O(現在92歳)は死刑確定から42年が経過した(元年)10月1日時点で に 、「早く死刑になりたい」という本人の願望に反して死刑は未だ執行されておらず、2012年(24年)4月時点までに請求も確認されていない。 「フォーラム90」が取りまとめた「1993年3月26日以降の死刑確定囚」の一覧表によれば、死刑囚Oより先に死刑が確定した死刑囚は病死した2人を含め3人いるが 、いずれも無罪を訴えて再審請求している(いた)ため 、死刑囚Oは犯行事実に関して疑惑がないとしては2019年時点で最古参の確定死刑囚である。 また2017年(平成29年)6月26日には当時確定死刑囚の中で最高齢だった90歳の死刑囚 が死亡したため 、当時89歳の死刑囚Oが日本における存命中かつ収監中の死刑囚としては最高齢となった。 反響 [ ] 本事件は母子3人が惨殺され社会に衝撃を与えた事件だったが 、同時にステレオ・ペットなど集合住宅の騒音問題をクローズアップするきっかけともなった。 同年11月には同県川崎市の団地で近隣住民が飼っていた犬の鳴き声に苦情を言いに行き、飼い主と口論の末に犬を8階から投げ捨てて殺したバーのホステスが激高した飼い主夫婦に包丁で刺殺される事件も発生し、同事件も注目を集めた。 事件直後から平塚署に対し「犯人の気持ちもわかる」という電話がかかったほか 、「騒音被害者の会」をはじめとした騒音被害者らによる加害者Oへの助命嘆願活動が起こり、騒音公害の問題が社会に知れ渡ることとなった。 「騒音被害者の会」会長・佐野芳子は事件当日の『読売新聞』夕刊にて「殺人は否定するが、これからは同種の殺人事件が続発することを懸念している。 社会生活が豊かになり、ピアノを購入する家庭が多く買っているが、社会全体のルールとして『音は自分の家の中だけ』という認識を明確に確立せねばならない」と述べた一方 、佐野への電話の中には「ピアノを弾く隣人に殺意を抱いていた。 Oは自分たちの代わりにやってくれた」「『隣室でピアノを弾く子供は交通事故で死ねばいい』と願わない日はない。 Oの殺人が罪ならそう願うことも罪だ」とする意見もあった一方 、「音が原因で殺人を犯すことは許されない」「被害者には気の毒だが、被告人Oにも同情すべき面がある」という意見も上がった。 その後、同会は200人の会員を集めた会合で被告人Oの刑事裁判を支援することを決め 、計100通近くの嘆願書を集めて提出したが、これは被告人O自身が証拠採用を拒否した。 現場となった横内団地はコスト削減のため床の厚さは12 cmになっていたが、事件後に住宅・都市整備公団(現:)は床厚を15 cmに増やした。 またにより住宅が密集する一方で一般大衆の間にも急速にピアノが普及し、防音対策・利用者への防音意識が追い付かない中で起きた事件だったことから、「騒音被害者の会」や作曲家の らが「ピアノは満足に防音ができていない日本の家庭には不向きだ」とする旨を指摘し 、ピアノ製造業者に対し「日本の家屋向けに音量の小さなピアノの開発」「防音装置とのセット販売」を訴えた。 これらの意見に対しピアノ製造業者側は「問題はピアノそのものではなく利用者側にある」との姿勢を崩さなかったが 、事件後はに弱音装置が取りつけられるようになり 、1977年(昭和55年)ごろからは従来のピアノとは異なり音量を調整でき、ヘッドホンを利用して音漏れを防ぐこともできる電子ピアノ・電気ピアノを製造・販売するようになった。 また、日本楽器(現:)は事件の翌々年(1976年)には騒音トラブルを防ぐため、ピアノ本体に施す防音装置や置き場所・防音室の作り方などの相談に乗る「音の相談室」を全国14支店に開設した。 このドラマはの「」シリーズの1つとして1980年1月17日から3週連続で放送された。 ノンフィクションライター・仲宇佐ゆりは2006年に『』()誌上で()の「音の問題だけでなく、被害者と加害者とのコミュニケーション不足も原因の1つだ。 現代(21世紀)は当時よりさらにコミュニケーション不足が深刻化し、知らない者同士が物理的に近接していても心理的には無縁でいる社会だ」という指摘を引用して「も加害者Oと同じく『引っ越してきたときに挨拶がなかった』と怒っていた。 今後、コミュニケーションが成り立たない中で騒音トラブルはますます増えるかもしれない」と指摘した。 脚注 [ ] 注釈 [ ]• Oの少年時代、両親は借金を抱えて仕事に忙殺され、子どもたちに対する世話・しつけはかなり不十分だった。 当時小学3年生。 ただし難発性吃音だったため中学進学までは家族にも気づかれなかった。 中田は精神鑑定書 1976 で「一時は親戚の鉄工所の工員として働いたがこのころから吃音が一層悪化し、職場では仕事に不熱心で身勝手な行動を取るようになった」と述べている。 1950年春に知人から誘われて競輪場へ行き、偶然100円券1枚で5,500円(当時のOの月給に相当)を得たことで競輪に熱中した。 この間には日雇いの肉体労働で働いていたが耐えられず、橋の上から飛び降り自殺をしようとしたが「まだ結婚もしていないのに」と思いとどまり、再び山梨の実家に戻った。 当時のアパートの住人は夫婦がほとんどで小さな子供も多く、Oは無口で挨拶もしなかったため「気難しい変わり者」とみられていた。 また1961年(昭和36年)にはスクーターを無免許運転して5,000円の罰金刑を受けた。 判決文では「当時、心無い隣人の行動などで特に周囲の音に対し敏感になりだした」と事実認定されているが 、本事件後に平塚署から連絡を受けた隣人一家はOとのトラブルのことを記憶していなかった。 また中田の精神鑑定書 1976 では「夜勤のため毎日昼近くまで寝ていたところ、数日間連続で原因不明の『ドカーン』という激しい音で目覚めるようになったため、その音を『ステレオがうるさい』と抗議してきた隣人女性による報復と考えたが、それ以降は近所の子供たちの声・犬の鳴き声までも気になりだしたため、遊んでいる子供たちを叱りつけたり、夜中に吠える近所の飼い犬を刺し殺したりした」とされている。 会社側はOを慰留したほか、妻に対しても「寮の管理人を続けてほしい」と申し出たが、Oは平塚市内の空き家を求めていやがる妻を殴りつけ、平塚へ転居した。 O自身は「入居前は『団地は防音が効いている』と思い憧れていたし、入居直後も(被害者一家が引っ越してくるまでは)『静かで良いところに来た』と喜んでいた」と述べている。 Oの妻は「夫Oは失業保険金を受給していた間ぶらぶらとして過ごし、早朝から釣りに出かけたり図書館に通ったりしていた」と述べている。 入居には所得の上限が決められており、住民には新婚の若い夫婦が多かった。 Oの妻も被害者一家の部屋からの音にしばしば悩まされていたが、そのことを夫Oに告げたところ「音に強いお前でも気にするような騒音をわざと立てている」と激怒されたため、その後はOの前で言及しないように心掛けていた。 Oの妻は「夫Oは夜間に炊飯し、朝になって下の階からピアノの音がすると急いで朝食を食べ、釣り・図書館に行っていた」と証言している。 テレビアンテナの鉄線。 当初は「護身用」と称してナイフを持ち歩いていたが、次第に「Aが自分の家に包丁を持って襲いに来るかもしれない」と考えたため「(武器は)長い方が有利だ」と考えて槍を作った。 同日に不安発作に襲われ、前途を悲観して自殺を考えたが「その前にどうしても生かしておけない人間(B・C母娘)が2人いる」として殺害を決意した。 Oは取り調べに対し「人を殺せば一石四鳥だと思った。 『Aから殺される』と思っていたから『こちらから先にやろう』と思ったし、『自殺できない』という気持ちを消せる。 それにもし逮捕されれば死刑になって強制的に殺してもらえるし、自分は家賃を払っていないので近隣住民の前に出ると恥をかくが、事件を起こせば妻が家財道具を処分してくれるから恥をかかずに済むからだ」と述べている。 長女Cは事件当時、2年生。 Oは「B・Cの母娘2人だけはどうしても殺したかった」と述べている。 Oが乗っていたバイクは緑色でナンバーは「平塚 あ 2773」。 宮山駅から500メートル(m)ほど離れた寒川町倉見の「上川橋」付近の草むら。 『毎日新聞』は「から(羽田空港)へ行ってから横川駅へ向かった」と報道している。 現・松井田町横川• (昭和46年)5月に決定された「騒音に関わる環境基準」では「住宅地に維持されることが望ましい基準」は「昼間50ホン以下、朝夕45ホン以下、夜40ホン以下」だったため、階下のピアノの音は閣議決定の環境基準値以内であった。 一方、この時に用いられた測定方法は神奈川県に基づくものだが、条例では40ないし45ホンの場合に人体に対する影響は「睡眠がさまたげられる、病気のとき寝ていられない」と規定されていた。 これに対し被告人Oは佐野宛の手紙(1975年10月7日付)で「嘆願書ありがとうございました」と感謝の言葉を記していたが、その嘆願書を弁護人が(情状面の証拠として)裁判所へ提出することは拒否していた。 当時、近年では1971年にで若い女性8人を相次いで殺害したが1973年にで死刑判決を受け、へ控訴しなかったためそのまま死刑が確定したケースがあった(1976年に死刑執行)。 なお寺尾は同決定後に「気が重かった。 むしろ実態審理(控訴審の続行)をしたかった」と述べている。 3人で唯一存命しているマルヨ事件の死刑囚も被害者の死因の1つとされる放火を否認して再審請求を行っている。 1927年(昭和2年)3月10日生まれ。 1978年 - 1979年に内で保険金目当てに内縁の妻の子供ら3人を相次ぎ殺害したとして殺人罪などに問われ 、1988年3月8日の最高裁判決により死刑が確定した。 当時の親世代はのために不自由な子供時代を送っていたことから(当時、保有台数推定320万台と大流行していた)ピアノ・団地住まいがステータスの象徴で、そのピアノが事件のきっかけとなったことも衝撃を大きくする一因になった。 しかしうち1局は佐野から見て「殺害された被害者母娘の肩ばかり持っている」と感じさせる内容で、放映終了直後同局には抗議の電話が殺到した。 『朝日新聞』1974年9月1日首都圏版には主婦(神奈川県在住)による「事件後、ピアノ・ステレオで騒音を出していた近隣住民たちが急に静かになり喜んでいる」という意見が掲載された一方、「自らも騒音加害者である」とする音楽大学の女子大生(東京都)の「練習曲の後に『騒音禁止』というだけの電話が掛かってきたり、家の塀に『騒音禁止』の貼り紙をされたりして恐怖を覚えている。 ピアノの音が気に障ることは十分理解できるが、抗議する方は同種の悲劇を起こさないよう一方的な電話・貼り紙ではなく話し合いをしてほしい」という意見も掲載された。 團は『』1974年10月25日号()で「ピアノは本来、ヨーロッパの天井の高い石造建築内(平均30畳)の中で演奏するために発達した楽器であり、日本の住宅事情には合わない。 団地のように上下や隣に別の家族が住んでいるような小部屋ではなおのことで、日本の小さな部屋でピアノを弾くことは『バスの中でを、銭湯の浴場でを興行』しようとするほど無茶で無理なことだ」と指摘した。 團は『アサヒグラフ』1974年11月1日号で「机・椅子など家具に団地サイズの製品が出回っているのと同じで、ピアノ製造業者は買い入れ先の住宅事情に応じて通常より音量を抑えたピアノを提供することを考えるべきだ。 例えば団地向けなら通常の10分の1程度に抑えるべきだろう。 『それでは本当の練習はできない』という人には『周りに気兼ねして、常に弱いタッチで鍵盤を叩いていてはまともな練習にならない』と言いたい」と述べた。 ただし、メーカー側も昭和40年代初めから日本の住宅事情の悪さに伴う音への苦情を意識して弱音ペダルを採用していたほか 、同年代半ば以降には「音の手引き」「防音のお話」などのパンフレットを販売店頭に用意し、購買者に対し音の性質・近隣への迷惑を減らす方法を啓蒙していた。 出典 [ ]• , pp. 169-170. 248. , p. 218. , D1-Law. com【著名事件名】. , D1-Law. com【著名事件名】. 155. , pp. 127-128. , p. 160. 161. 165. 162. 163. , pp. 163-164. 164. , p. 167. , p. 166. , pp. 166-167. 169. , p. 192. 170. 『中日新聞』1974年8月31日朝刊第12版第一社会面19頁「【横浜】ピアノ殺人 O逮捕」• 『朝日新聞』1974年9月21日東京朝刊第13版第一社会面23頁「ピアノ殺人 Oを起訴」• , pp. 170-171. 『毎日新聞』1974年10月29日東京朝刊第14版第二社会面18頁「【小田原】ピアノ殺人公判 O、殺意を否認」• , p. , p. 150. , p. 139. , pp. 139-140. , pp. 144-145. , pp. 139-141. , p. 142. , p. 143. , p. 146. , p. 148. , pp. 149-152. , pp. 152-153. , pp. 153-154. , pp. 162-163. 174-175. , pp. 163-165. , pp. 165-169. , pp. 170-174. , p. 177. 『中日新聞』1975年8月11日夕刊E版第一社会面7頁「【小田原】Oに死刑求刑 平塚市のピアノ殺人」• , 刑事訴訟法335条2項の主張に対する判断. 『朝日新聞』1977年4月12日東京朝刊第13版第一社会面23頁「ピアノ殺人 希望通り死刑確定 弁護人の異議棄却 東京高裁『本人の意思』認定」• 『中日新聞』1977年4月16日朝刊第12版第一社会面19頁「Oの死刑確定 ピアノ殺人で特別抗告断念」• , p. 275. 田村栄治「法相で変わる死刑の順 国民から見えない実態」『』第25巻16号1336号、、2012年4月16日、 61頁。 - 2012年4月16日号(2012年4月9日発売)。 250• 2019年11月20日閲覧。 の2019-1-20時点におけるアーカイブ。 , pp. 41-42. 119-122. 121. , p. 164. , p. 159. , pp. 158-159. , pp. 159-160. 160. 161. , p. 227. , p. 226. 第一審判決 - 小田原支部判決 1975年(昭和50年)10月20日 、昭和49年 わ 第310号、『殺人,窃盗被告事件【著名事件名:ピアノ殺人事件第一審判決】』。 判決内容:死刑(求刑:同)。 押収品の刺身包丁・さらしを没収• :海老原震一(裁判長)・安間喜夫・藤枝忠了 『』第806号112頁 『』第329号117頁 【判示事項】ピアノの音がうるさいと同じ団地の一階下に住む母子3人を刺殺した事件において死刑が言い渡された事例 『ローライブラリー』(LEX/DBインターネット) 文献番号:27916840 【事案の概要】被告人が、公営住宅の自己の居室の階下に居住する被害者家族の立てる騒音等に立腹し、予め買い求めていた刺身包丁等を持参の上、被害者宅に侵入し、母親と幼い娘2名の合計3名を刺殺した等とされたいわゆるピアノ殺人事件の事案において、本件犯行時被告人は神経性の頭痛持ちであったうえ情意に掛ける性格の持主で、精神医学上でいう精神病質者であったことは認められるが、本件犯行当時被告人に事後弁識能力が著しく減弱していたものとは認められないとして、弁護人による刑事訴訟法335条2項の主張を斥け、また、被告人は、本件犯行を用意周到に計画して一片の憐憫の情もなく罪のない幼女2人までも一気に殺害し、全く自己の犯した罪に対し悔悟の情を示していないとして、被告人に死刑を宣告した事例。 『D1-Law. com』(法情報総合データベース) 判例ID:27916840 【要旨】音に対し極度の神経過敏症であったうえ、情意に欠ける異常性格者の被告人が、自分の居住する団地の1階下の被害者宅におけるピアノの音に非常に気になり出し、ピアノをたたくのは自分に対する嫌がらせのためではないかと思込み、被害者母子3人を刺身包丁等で殺害したものであることなど判示の事情の下では死刑が相当である。 【参照法令】199条• 控訴審・控訴取り下げに対する決定 - 第4刑事部決定 1976年(昭和51年)12月16日 、、『殺人,窃盗被告事件【著名事件名:ピアノ殺人事件控訴審決定】』。 決定内容:被告人Oによる控訴取下(1976年10月5日付)は有効。 本事件訴訟は同日付控訴をもって終了(弁護人が異議申立)• 裁判官:(裁判長)・山本卓・ 『高等裁判所判例集』第29巻4号667頁 裁判所ウェブサイト掲載判例 【判示事項】パラノイア患者の控訴取下げが有効とされた事例 【要旨】パラノイア患者が控訴を取り下げたときでも、その動機など 判文参照 からみて本人の訴訟能力に欠けるところがないと認められるときは、これによつて訴訟は終了する。 『TKCローライブラリー』(LEX/DBインターネット) 文献番号:27920906 【事案の概要】被告人が、公営住宅の自己の居室の階下に居住する被害者家族の立てる騒音等に立腹し、予め買い求めていた刺身包丁等を持参の上、被害者宅に侵入し、母親と幼い娘2名の合計3名を刺殺した等とされたいわゆるピアノ殺人事件の事案の控訴審において、被告人による本件控訴取下げの申立ては被告人の罹患するパラノイアとは一応切り離して考えることも可能であるとし、本件においては、本件控訴取下げの経緯に照らすと、被告人は、控訴取下げの申立ての結果原審の死刑判決が確定し、その後これを動かす手段が全くないことになる旨を熟知した上で同申立てに及び、この決意はパラノイアとは直接関係のないものであると考えられるとして、申立てそれ自体は訴訟能力に欠けるところのない精神状態で真意を表明したものであるとして、被告人に対する殺人および窃盗被告事件は、被告人がした控訴取下げの申立てにより、終了したものであるとした事例。 『D1-Law. com』(第一法規法情報総合データベース) 判例ID:27920906 【要旨】パラノイア患者の死刑判決に対する控訴の取下は、訴訟能力を備えた精神状態でなされているから、有効である。 『判例時報』857号117頁 『東京高等裁判所(刑事)判決時報』第27巻12号167頁 【参照法令】355条・356条・359条・428条• 弁護人の異議申し立てに対する決定 - 東京高等裁判所第5刑事部決定 1977年(昭和52年)4月11日 、昭和51年 け 第26号、『殺人,窃盗被告事件についての決定に対する異議申立事件【著名事件名:ピアノ殺人事件】』。 決定内容:1976年12月16日付決定に対する弁護人の異議申立を棄却(特別抗告されず死刑確定)• 裁判官:谷口正孝(裁判長)・金子仙太郎・小林眞夫 『刑事裁判月報』第9巻3・4号222頁 【判示事項】控訴の取下げにより訴訟が終了した旨宣言した決定に対し、訴訟能力を欠くため控訴の取下げが無効であることを理由にしてなされた異議申立てが棄却された事例 『判例時報』第857号118頁 『TKCローライブラリー』(LEX/DBインターネット) 文献番号:27920929 『D1-Law. com』(第一法規法情報総合データベース) 判例ID:27920929 【要旨】パラノイア患者の死刑判決に対する控訴の取下は、訴訟能力を備えた精神状態でなされているから、有効である。 『狂気 ピアノ殺人事件』248、〈〉、1982年10月25日、第一版。 - 原著『狂気 ピアノ殺人事件』(ISBN:978-4163346809)は1978年7月15日初版• (編著)『現代の精神鑑定』(発行者:金子誠司)、1999年3月15日、第1刷発行、153-200頁。 年報・死刑廃止編集委員会『』(編集委員:岩井信・可知亮・笹原恵・島谷直子・高田章子・永井迅・・深田卓)、、2019年10月25日、初版第1刷発行、248,275。 関連項目 [ ]• - 本事件を取り上げた報道番組• - 1982年にで起きた同様の事件。 - 2016年にで上階の子供からの騒音をきっかけに起きた事件。 - 1996年に内で発生した連続殺人事件。 加害者は公判で「死刑になりたい」と自ら希望し、死刑判決を受けても控訴せず確定を受け入れた。 死刑判決を受けた被告人が控訴を自ら取り下げたため、弁護人が控訴取り下げの無効を主張して裁判所に異議を申し立てた事件• - いったんは被告人が控訴を取り下げたが、弁護人の異議申し立てがで認められて審理再開。 その後死刑判決支持の判決が言い渡されて確定し、死刑執行に至った。 - 控訴取り下げへの異議申し立ては退けられたが、死刑を執行されることなく病死した。 ・ - 控訴取り下げへの異議申し立てが退けられた後に死刑囚の刑が執行された。

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