モニカ セレシュ ラケット。 モニカ・セレシュ

シュテフィ・グラフ

モニカ セレシュ ラケット

この商品の平均評価: 4. 先輩が全仏の翌日にいきなりグラファイトを買ってきたことが思い出されます。 自分はずっとウィルソンなど使ってましたが、復刻版のデザインの美しさに目を惹かれました。 ただでさえ名機として興味はあったのに加え、錦織選手の全米準優勝でテニス熱を思い出し、衝動買い。 90インチのラケットからのチェンジなのでオーバーサイズのスイング感にはじめ違和感を感じました。 特にシングルバックハンドは何か大きなうちわを扇いでいるような感じで戸惑いました。 しかしそれもすぐに慣れます。 フラット、スライス、スピンと打ち方を調整すれば自在にできるようになります。 それにしても不思議な魅力があるラケットです。 この後にEXO3のツアー98なども使ってますが、気がつくとこのラケットに戻してしまいます。 慣れるとやめられない打感があります。 打っていて気持ちがいいのです。 ラケット自体のパワーはこのパワーラケット全盛時において弱い方でしょう。 しかし打ち方がしっかりしていると、そうしたパワーラケットの相手にも打ち勝ったりします。 さらに、下手な球を打ったらそうだとわかるところが、こうした「古代兵器」と言われるラケットの良さとも思います。 ミスをしたら次々と打点やスイングを修正していくので上手くなるのはこういうラケットを使う人じゃないでしょうか。 しっかりとしたフォーム、正確な感覚をより厳しく養って戦い人はどんどん使って欲しいラケットです。 スイングスピードは速い方だと思います。 およそ5年ぶりにテニスを再開してみようと思い、 ラケットを探しており、このラケットが復活するとのことで購入しました。 高校生のときにグラファイトOSを使ったことがあり、 マイルドな打ち心地、スピン性能、振り抜きの良さが好きでした。 使った感想ですが、 まさにその打球感、スピン性能、振り抜きの良さは抜群でした。 打球感はとてもマイルドでボールを掴む印象があります。 逆に言えば、反発性はないのでシッカリ振らないといけません。 スピン性能も申し分なく、 押し出すようなスイングでしっかり打てばスピンがかかります。 これも反発性がない分、いい具合にコートに収まっているのかもしれません。 振り抜きはラケットの重みを利用して無理のない軌道で触れます。 しかし、重いので疲れると言うのは確かにあります。 まだまだ力強いスイングでテニスをしたい! という方にオススメのラケットだと思います。 デザインも既にクラッシックなので、 おそらく何年経っても古くなった気がしないラケットです。 そのため、新しいラケットが出る度に欲しくなる人にもオススメです。 粘り特性のあるカーボンを振動吸収性の高いサーモプラスティックと組み合わせたことで、嫌な衝撃や振動が吸収され、クリアな打球感だけがダイレクトにプレーヤーに伝わってくるようになりました。 そして快適な打球感が、プレーヤーの気分を高めることに一役買っています。 これを手にすると、ボールをたくさん打ちたくなる新感覚のラケットです。 スピン性能とボールスピードをアップさせます。

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シュテフィ・グラフ

モニカ セレシュ ラケット

フロリダ州サラソタ在住。 「セレス」と呼ばれることも多い。 左利きで、フォアハンド・ストローク、バックハンド・ストロークとも両手打ちである。 そこから繰り出される強烈なショット(特にバックハンドストロークはコンパクトなスイングから非常に強烈なショットを放った)と正確なコントロールを最大の持ち味とした。 WTAツアーで4大大会9勝を含むシングルス53勝、ダブルス6勝を挙げた。 1989年に15歳でプロ転向後、セレシュはすぐに世界的な活躍を始めた。 4月末にアメリカ・ヒューストンの大会でクリス・エバートを決勝で 3-6, 6-1, 6-4 で破り、WTAツアー初優勝を飾る。 その年初出場した全仏オープンでいきなり準決勝進出を果たし、初対戦のシュテフィ・グラフに 3-6, 6-3, 3-6 で敗れたものの善戦する。 翌1990年の全仏オープンでは、決勝でグラフを 7-6, 6-4 のストレートで圧倒し、「16歳6ヶ月」の当時のオープン化以降4大大会最年少優勝記録を樹立した。 (これは現在も全仏オープン女子シングルスの大会最年少優勝記録である。 4大大会女子シングルスの最年少優勝記録は、1997年全豪オープンに「16歳3ヶ月」で優勝したマルチナ・ヒンギスによって破られた。 )1991年3月11日には、史上最年少の「17歳3ヶ月」で世界ランキング1位の座につき、グラフの世界1位連続保持記録を「186週」で止めた。 1990年-1992年に全仏オープン3連覇、1991年-1993年に全豪オープン3連覇、1991年と1992年に全米オープン2連覇を達成するなど、1990年から1993年の4月までは彼女の絶頂期であった。 しかし1993年4月30日、セレシュはドイツ・ハンブルクの「シチズンカップ」準々決勝でブルガリアのマグダレナ・マレーバとの対戦中に、暴漢ギュンター・パルシェに背中を刺された。 この事件が競技中に起きたことから、全スポーツ界に大きな衝撃が広がる。 セレシュはこの後遺症により(PTSDと考えられる)、2年半も試合から遠ざかった。 )この事件によるブランク期間中の1994年3月、モニカ・セレシュはアメリカ市民権を取得した。 なお、この事件以降セレシュはドイツ国内でのプレーを拒否してきた。 2001年に女子ツアー年間最終戦のWTAツアー選手権がアメリカ・ニューヨークからドイツ・ミュンヘンに開催地を移転した時も、前年の2000年から「(来年)仮に出場資格を得たとしても、欠場するだろう」と話していた。 (ミュンヘン開催は2001年の1度だけだった。 ) 1995年8月、セレシュはようやくカナダオープンで復帰を果たす。 その準決勝ではガブリエラ・サバティーニ、決勝でアマンダ・クッツァーを破り、復帰戦を優勝で飾った。 翌月の全米オープンでは第2シードで出場。 決勝ではライバルのシュテフィ・グラフに 6-7, 6-0, 3-6 で敗れたが、以前と変わらない大接戦で、ブランクを全く感じさせなかった。 翌1996年、セレシュは全豪オープンで復帰後初の4大大会優勝を果たす。 この勝利により達成した4大大会女子シングルス通算9勝は、モーリーン・コノリーと並ぶ女子歴代8位タイ記録である。 その後はけがによる不振や、マルチナ・ヒンギス、ビーナスとセリーナのウィリアムズ姉妹など若手の台頭により、4大大会の優勝から遠ざかった。 その後の4大大会で、最も優勝に近かったのは1998年全仏オープンであった。 大会直前の5月16日、長年彼女を支え続けてきた父親が死去したばかりであった。 その悲しみを乗り越え、準決勝で第1シードのマルチ...

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モニカ セレシュ ラケット

女子テニス界の歴史を塗り替えてしまった大事件から、早くも20年の月日が流れた。 19歳だったがライバルだったの熱狂的ファンに背後から刃物で刺されたのは1993年4月30日。 女子テニスのレジェンドであるは、あの事件がなければ女子テニス界の歴史は大きく変わっていただろうと語る。 それまで世界ランク1位だったグラフを抜いて女王の座にいたセレスは、グラフの祖国であるドイツはハンブルグの大会に出場しており、順当な勝ち上がりをみせていた。 準々決勝ではと対戦し、6-4, 4-3とリードしたコートチェンジの時、チェアーに座っていたセレスは、背後から暴漢に襲われ2年4ヶ月のツアー離脱を余儀なくされてしまった。 「セレスは、恐らくもっと多くの優勝を飾っていたでしょう。 (24度の優勝の)やグラフを抜いて、グランドスラムの最多優勝者になっていたかもしれない。 グラフは22度のグランドスラム優勝があるけど、あの時はライバルと呼べる選手がいなかった。 あの事件の犯人は、女子テニスの歴史を大きく変えてしまった。 それは疑う余地もない。 」 18度のグランドスラム優勝を誇るナブラチロワはそう語る。 セレスが世界で活躍するまでは、グラフの独壇場だった女子テニス界。 グラフ時代がしばらく続くかと思われていたが、セレスが登場して状況は一変。 女王だったグラフの座を奪う活躍を始めていた。 グラフが初めてグランドスラムの舞台に立ったのは、当時は全豪オープンがシーズン終わりの11月に行われていた時代の1983年5月の全仏オープン。 当時グラフは、13歳と11ヶ月だった。 そして、初めてグランドスラムを制したのは1987年の全仏オープンでグラフが17歳11ヶ月の時だった。 グラフより4歳6ヶ月年下のセレスがグランドスラムに初登場したのは、1989年の全仏オープンで当時15歳と6ヶ月。 そして、翌年の全仏オープンでは初優勝を飾った。 その後セレスは、19歳5ヶ月だった時に事件に襲われるまで、8度ものグランドスラム優勝を飾っており、グラフが19歳5ヶ月だた時と比べると、3度も多くのグランドスラムの優勝を飾っていた。 2年4ヶ月後に復帰したセレスは、1996年の全豪オープンしか優勝を飾る事がなかった。 セレスと親交の厚いメアリー・ジョー・フェルナンデスもナブラチロワのコメントにこう加えていた。 「セレスの記録を見ると、人々は忘れてしまうかもしれない。 セレスは、9度のグランドスラム優勝がある。 もちろんその事自体、素晴らしい事。 でも、あの事件がなければ、少なくともその2倍のタイトルは獲得していたでしょう。 当時の彼女は、全く別のレベルにいた。 」 今年の12月で40歳を迎えるセレス。 生まれは当時のユーゴスラビアだが、ツアー離脱中の1994年3月にアメリカ国籍を取得し、現在もアメリカはフロリダ州で生活を続けている。 セレスは、事件直後に病院へ運ばれ治療を受けた。 外傷は時間が経てば回復へ向かったが、心の傷が癒えるにはかなりの時間を要した。 復帰したのは1996年の8月。 カナダはトロント大会で、1セットも落とさず圧倒的な強さを見せ優勝。 その後、出場した全米オープンでも順当に決勝進出を果たし、決勝戦ではグラフと対戦。 その時は世界ランク1位だったグラフと、特別措置で1位の座を守られていたセレスとは、世界ランク1位同士の決勝戦となったが、フルセットでグラフに軍配があがった。 女子テニス界の歴史を大きく変えたこの事件。 その後のテニスシーンにも影響を与えている。 コートチェンジ時のチェアーに座ると選手は観客に背中を向けているが、今ではボールキッズがコートから選手へ向かって立ち、選手の背後を監視するようなセキュリティ対策が取られている。 犯人は当時38歳だったグエンテール・パルチェで、その場で抑え込まれ逮捕された。 彼は1000ドイツマルク(当時約6万5千円)を持ち、セレスが次に出場する大会の地のイタリアへの航空チケットを持っていた。 伝えられたところによると、現在彼は寝たきり状態でドイツはチューリンゲンの福祉施設にいるという。 その後パルチェは、精神疾患との診断も下され、2年間の執行猶予の判決が下されたにすぎず、セレスはその後1度もドイツを訪れる事はなかった。 セレスは、自身の自叙伝で「何千人もの観客の前でコートの上で刺されたのです。 あの事件から、自分自身を遠ざける事は不可能です。 あの事件で、私のテニス人生は一変してしまいました。 そして、完全に心に傷を負ってしまったのです。 あの一瞬で、私は全く別の人間になってしまったのです。 」と、綴っている。

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