決まり手 腰投げ。 オーバースローのメリットデメリットは?自分にあった投球フォームを探そう!

日記/雑談: やっとこ! ー武術と強さと健康とー

決まり手 腰投げ

新学期から、中学で武道が必修となる。 いろいろ反対意見があったにも関わらず、ほとんど議論なく必修になってしまった印象がある。 ぼく自身も、あまり賛成ではない。 理由のひとつは、指導者不足にある。 中学の体育の先生が、まっとうに武道を教えられるとは正直思えない。 危険性だけのことではなく、武道の本来の精神性や文化性を理解していないだろうと思う。 それから、そもそもなぜ武道でなくてはならないのか、何を求めているのかが、あまりにも不明瞭だ。 そんな中、こんな意見を見つけた。 「「武道」必修化 アナクロニズムそのもの」 ・保護者への負担が増える。 ・安全性に問題がある。 ・県によってはヘッドギアやウレタンマットを用意するという。 礼儀や伝統文化のために、そこまでする必要があるのか。 ・大学を頂点に教育も国際化への対応を加速させる時代に、武道必修化はどう考えてもアナクロニズムそのものだ。 ・「柔道着や、剣道用具メーカーの利権がらみではないのか」と言われても仕方ない ・団体球技を増やし、大震災でクローズアップされた「絆」の大切さをボール一つ、チームプレーで体感させた方が、より教育的ではないか。 といった内容。 保護者の負担増や安全性はその通り。 ぼく自身、該当保護者である。 ただ、息子の中学では必修化のずっと前から基本的に柔道か剣道を行うことになっていたので、指導面では準備できていたことになり、いくぶんマシではないかと思っている。 また利権に関しては、メーカーに限らず、武道団体などにもその疑いは出てくる。 武道や道場自体の宣伝になり、講師派遣や講習会開催もできそうだし。 文科省は警察OBの協力も検討しているとも聞くので、警察官の再就職先にもなる・・・? しかし、彼らがロビー活動をしたという証拠はぼくは持っていないので、そういうことがあり得ないとは言えない、としか言えない。 ぼくが気になったのは、国際化の中で武道を習うことがアナクロニズムかということと、団体競技のほうがより教育的かということ、だ。 ぼくは、当初太極拳のみをやっていたが、日本の文化的なものを感じたいということもあって、合気系の武道や古武術をやりはじめた。 正直、国粋主義的にはなりたくないし、日本アズナンバーワンなどという気持ちもない。 それはそれとして、国際的な場であればあるほど、日本人としてのアイデンティティも必要だ、とぼくは思う。 マンガのような現代文化も重要だが、マンガと浮世絵の関係とか、北斎漫画のこともあわせて語れるほうが、日本人としてのインテリジェンスを感じさせることができると思う。 別にぼくは、民族主義になれ、日本大好きであれ、と言っているわけではない。 けれど、自国の文化や伝統に無知無関心、無理解である人間の発言が国際的な交流の中で信用されるとは思えないのだ。 それは、教養がない、ということでもある。 もちろん、ある程度理解したその上でダメ、というのは構わない。 なので、国際化社会の中で武道を学ぶ事そのものは十分意義がある、むしろ高まる、と思う。 しかしながら、それは武道でなければいけないのか?という疑問は残る。 日本の伝統的文化的基盤は、お茶やお花を持ち出すまでもなく、まだまだ沢山あるはずだ。 地域の祭りや伝統行事だっていい。 習熟する必要はなく(というか、無理)、肌で感じ、知る、という程度でもいいと思う。 その選択肢のひとつが武道、というのであれば、まだ納得できる。 武道でなくてはいけない、というと、これはおかしい。 さらに、武道に関しては、教える教員がそもそも武道の背景となる精神性思想性を理解しているか?という問題もある。 ちょこっと講習を受けたくらいで理解できるとは思えない。 (というか、現代のスポーツ化している柔道や剣道にどこまでそういうものが残っているのかも若干疑問ではあるが・・・どうなんだろう?) 伝統的なものについては、一般教員ではなく、きちんとした専門家に非常勤で指導してもらうのがいいようには思う。 ただし、カリキュラムとしては、おまかせではなく、教員が補助する必要がある。 それから・・・団体競技のほうが教育的? 全くナンセンスだ。 (というか、こういう考え方のほうが随分アナクロニズムだと思うが・・・) チームプレーは、みんなで仲良くやればよいというものではない。 部活で毎日やってすら、簡単には達成できないものなのに、所詮、授業の中の話である。 おそらく、授業の球技だと、少しの基礎練習のあと、適当に編成した臨時のチームで試合をする程度だろう。 その都度、勝った、負けた、とレクリエーションのように面白がって終わるだけだ。 互いに切磋琢磨することも、目標に向かってチームのみんなで考え、行動していくことも考え難い。 ありがちなパターンでは、部活でその球技をやっている子供がヒーローになり、下手な子供はなんとなく邪魔者扱いされておしまいなんじゃないだろうか。 この点では、むしろお互い常に一対一の人間として向き合える武道のほうが、まだしも教育的な理があり得ると思う。 さて、その一方でこんな記事も見た。 「「大外刈り」禁止 中学柔道指針 試合は座った状態で 静岡」 ・県教委の指針は頭部外傷などの事故が予想される大外刈りは行わない ・投げ技を使う試合は行わない ・体格や技能の異なる生徒同士を組ませない ・投げ技を使わなければ、試合は座った状態で行うのみとなり、立った状態での試合はできないことになる。 ・1、2年生については「投げ技は互いに約束した動きの中で行うだけで、乱取りなどは行わない」 ・県教委では「中学校では柔道の試合を全く行わないこともあり得る。 そもそも柔道の何を教えるのが目標だったんだろう・・・ それに、義務教育なのに、自治体ごとで決めるものなんだろうか。 転校すると、まずいことになるのでは・・・ ちなみに、文科省の指導要領。 --- (1) 次の運動について,技ができる楽しさや喜びを味わい,基本動作や基本となる技ができるようにする。 ア 柔道では,相手の動きに応じた基本動作から,基本となる技を用いて,投げたり抑えたりするなどの攻防を展開すること。 イ 剣道では,相手の動きに応じた基本動作から,基本となる技を用いて,打ったり受けたりするなどの攻防を展開すること。 ウ 相撲では,相手の動きに応じた基本動作から,基本となる技を用いて,押したり寄ったりするなどの攻防を展開すること。 (2) 武道に積極的に取り組むとともに,相手を尊重し,伝統的な行動の仕方を守ろうとすること,分担した役割を果たそうとすることなどや,禁じ技を用いないなど健康・安全に気を配ることができるようにする。 (3) 武道の特性や成り立ち,伝統的な考え方,技の名称や行い方,関連して高まる体力などを理解し,課題に応じた運動の取り組み方を工夫できるようにする。 --- 文科省の指導要領解説によると、「「投げたり抑えたりするなどの攻防を展開する」とは,自由練習やごく簡単な試合で,相手の動きに応じた基本動作を行いながら,投げ技の基本となる技を用いて,投げたり受けたりする攻防や抑えたり返したりする攻防を展開することである」ということである。 投げ技の試合をやれといっているわけではない。 対策が場当たり的だなあ、と感じた次第だ。 先日、大相撲で、大関把瑠都が変化して大関稀勢の里に勝った。 いわゆる注文相撲というやつらしい。 ぼくは見ていたわけではないけど。 さらに大関日馬富士が、横綱白鵬に対して変化し、勝った。 観客はブーイング、相撲関係者もあまりいい印象ではないようだ。 ちなみに、朝日新聞の朝刊でも、コラムで非難めいたことが書かれていた。 「これが「大相撲」と認められるだろうか。 武術的な視点からは、こんな非難は論外。 なにをしようと、まず、負けないことが何より。 ルールもない世界。 変化など、もちろん正しいに決まっている。 では、スポーツとしての格闘技はというと、ルールはあるけれど、基本的にはその範囲内では、勝つためにやれることをなんでもやる、というものではないかと思う。 よって、格闘技的にも、変化は正しい行為ということになるのではないか。 もちろん・・・ かつて、アントニオ猪木がモハメド・アリと対戦したとき、ずっと寝転んだままで対戦し、「世紀の凡戦」などと言われたことがある。 ルールの範囲内であるにもかかわらず、だ。 ぼくは、当時あまり格闘技にもプロレスにも興味はなかったが、話題にはなっていたので、試合を見た。 ぼく自身は、有名な人同士の対戦という話題だけにひかれ、格闘技にさほど興味がなかったゆえに、試合運びに期待はなかったので、冷静に見ることができた。 そのためか、素人ながら、猪木はボクサーに対して、正しい戦い方をしていると感じていた。 プロレスは通常真剣勝負とは言えないと思うが、この試合は真剣勝負だと感じられた。 そうでないと、こんな見た目につまらない試合はやらないだろう。 (しかも、後にわかったことだが、猪木は関節技や、立っている状態でのキックなどを禁じられていたらしい) しかし、この異種格闘技戦の評価は今ではかなり高くなっているように思う。 見た目はつまらないように見えても、きちんとした戦いであればやはり評価されるのだ。 さて、相撲。 この記事によると、横綱審議委員会の鶴田委員長は、「力のこもった好勝負が見たい一番であんなことやったら、把瑠都の人気が落ちるよ」「あんな相撲を取って、何が横綱か」と言っている。 問題は、この横綱である。 把瑠都全勝ならずも綱とり宣言/初場所 大相撲では、大関が二場所連続したら横綱になる。 しかし、これは慣習であって、決まりではないという。 先の鶴田委員長は、 「横綱を狙う資格はない。 大関は変化したらない。 堂々とした勝負をしないと」。 春場所でも優勝し連続優勝でも「満たした場合も、過去に(横綱に)なれなかった例はある。 品格だよ」 という。 スポーツの世界で、「あいつの戦い方は品格がないから、勝ったけど、優勝者ではあっても、チャンピオンの称号はやるまい」「ランキングアップは見送り」などということがあるだろうか? これは公正だろうか? スポーツは、ルールのもとに公正でなければならない。 第1、品格、というが、これは主観にすぎないのではないか。 それも、こういうとなんだけど、そもそも相撲取で品格がある大人物など、どれだけいるか? 所詮、20代がほとんどの若造である。 人間的には青二才にすぎない。 品格などというものは、むしろ親方になって、何人もの人間を鍛え育て、ようやく生まれるものではないだろうか。 (いじめ事件などを見ると、親方にも品格がない人が多そうだが) 相撲の世界をけなしているようだが、そんなつもりはない。 相撲取もごく普通の人間だと言いたいだけだ。 また、かつて、双羽黒などは、優勝すらしていないのに、かつ、(大相撲的な意味での)品格があったとも思えないのに、横綱になった。 その後優勝もないまま廃業したこともあって、相撲協会にも汚点になってしまったようだが、一度でも優勝していたら、何も反省もなかったに違いない。 (誤解のないよう。 ぼくは双羽黒が嫌いではない) が、外国人力士になると、いきなり厳しくなるような気がする。 今回も、日本人力士稀勢の里が反対のことをして勝っていたら、どうしただろう? ブーイングも大して起きなかっただろう。 苦言は呈されても、横綱になれないなどとは言わなかったに違いない。 「変化相撲ばかりとっていたら、大相撲は衰退していく」 というブログも見つけた。 「変化相撲を肯定している人は、大相撲がわかっていない」とも。 これは、全くの間違いだ、と思う。 なぜなら、狭い空間で、必ず接近戦であり、体格と力と安定した腰があるほうが有利という、相撲という競技の特性からして、変化相撲ばかりには絶対にならないからだ。 変化をする、とわかれっていれば、問題なく腰が安定し、力の強いほうが勝つはず。 今回は、スキがあって、意表をつかれたから負けただけ。 常に、「変化があるかもしれない」と思っていたら、基本的には対処できるはずだ。 堂々と受ける相撲は一見見栄えがするかもしれないが、何が起こるかわからない相撲のほうが、本当は面白くなると思う。 その場合でも、変化は主流足りえない。 奇襲はたまにあるから奇襲である。 格闘技や武術を少しでもやっていれば、意表をつかれたほうこそ未熟、と納得できるはずだ。 にも関わらず、注文相撲は問題となる。 ということで、ぼくは、やはり大相撲は、純粋な格闘技でもないし、スポーツでもないな、と思う。 相撲という格闘技ではなく、「大相撲」というものについてだ。 レスリングとプロレスが異なるように、相撲と「大相撲」は違う。 大相撲の本質は、やはり興行であろう。 いや、むろん、プロスポーツは、実はすべて興行でもある。 が、大相撲は、もっと興行がベースだと思う。 もっと言えば、かつて、小沢昭一が、朝日新聞で「大相撲の本質は芸能である」と述べた主張が正しい気がする。 そうでなくては、髷や、日常決してつけることのない裸体にまわしという格好など、格闘技としては不合理極まりない決まりごとの説明がつかない。 神事と関係している、ということもあろうが、試合そのものより「大関、横綱」という特別な存在を見せるための興行なのだと感じる。 それに。 以前、相撲で八百長が問題になったが、スポーツにおいて「勝てる可能性のある戦術をはじめから放棄させる」のは立派な八百長の強要ではないだろうか。 今、大相撲は衰退しつつあると思う。 原因はいくつかあるだろう。 ひとつははっきりしている。 強い日本人力士がいないからだ。 もっとも、大部分の日本人はそんなに偏狭でもなく、朝青龍もそれなりの人気があり、一連の騒動も一部の強烈な相撲愛好家が起こしてしまっただけ、という感じもしないではない。 とはいえ、ぼくは国粋主義のつもりはないけれど、江戸時代からの日本の伝統的文化である大相撲の中で、日本人がほとんど活躍しないとしたら、やはり寂しい。 強い外国人がいて、対抗できる日本人もいることが望ましいだろう。 茶道の師範がすべて外国人だったら、寂しいよね? 茶道の師範に外国人がいることは素晴らしいことだと思うけど。 格闘技をする日本人は沢山いるのだから、豊かになった日本人でも、相撲取になることに魅力を感じるような改革が必要だろう。 金銭もあるが、入門の方式も変えてもいいのではないか。 例えば、すでに別の格闘技をやっている人間もあとで入れるようにするのもいいと思う。 年齢制限なく、経験者採用をし、早めに土俵に上げてもよい。 また、すそ野を広げるため、柔道などのように、一般向けの相撲道場を作り、段位を与える、みたいなことをやってもいいかもしれない。 まわしはつけても、着衣でよい。 土俵でなくても畳でもよい。 需要はあると思う。 元相撲取の引退後の収入源になり得るかもしれない。 プロの相撲取と会うと、実際の相撲も見たくなるのではないだろうか。 もうひとつは・・・ はっきり言って、大相撲は単調ではないかと思う。 ぼくは、かつて格闘技には興味がなかったが、一時期、相撲はよく見ていた。 千代の富士をはじめとして、魅力的な相撲取が多い時期もあったように思う。 しかし、だんだん見なくなった。 魅力的な相撲取がいなくなったこともあるが、技が単調なこともある。 力士が大型化して、単純な技が多くなったという人もいる。 ぼくは、変化より、寄り切りや押し出しばかりのほうがつまらない。 愛好家は、「何が単調か。 こんな奥の深いものはない」と思うかもしれない。 が、興行は素人相手に成功しなくては意味がない。 スポーツの娯楽がなかった江戸時代ならいざしらず、多彩な格闘技に溢れている現代人にとって、相撲に物足りなさがあるというのも、正直なところではないだろうか。 大体、多くの格闘技は、ルールの範囲内で、常に新しい戦術や技を研究していると思う。 ルールの範囲内でできない試みは、新しい団体を作って、ルールを変えてでも実現してきた。 プロレスもまた、見栄えの観点を取り入れながらも、新しい技の研究を続けてきた。 相撲はどうだろうか。 平成13年に、決まり手は増えている。 しかし、どうも、工夫された新しい技というよりは、技の分類を細かくしただけのような気がしないでもない。 モンゴル相撲の技が取り入れられたため、という説明も見かけた。 新しい技のいくつかは、モンゴル相撲出身者が持ち込んだということらしい。 とはいっても、研究の成果とは言えなさそうだ。 技の研究の余地は、まだあるはず。 もっと伝統にとらわれず、積極的に開発できないだろうか。 変化についても、それに対応する方法を考えることになり、発展につながるのではないかと思う。 また、変化は戦術でもある。 決め技のみならず、戦術の研究もすすめるべきでは。 変化をむやみに禁じたり、否定するのではなく、むしろ、その変化に対応できる相撲が進化することで、より面白くなるのではないか。 軽量級で、変化がやたらうまい横綱がごくたまにいても面白いと思う。 舞の海みたいな相撲取が、大力無双の相撲取もあしらって全勝なんて、楽しいではないか。 前にも書いたが、相撲という競技の特性から、そういうタイプの相撲が主流になることはあり得ない。 従来型の大横綱ファンも、安心していい。 相撲の幅を広げるだけだ。 ちなみに、八百長は、その内容と程度にもよるが、さほど大相撲衰退の原因ではないと思う。 優勝にかかるようなレベルは問題だが、勝ち越しや負け越しがはっきりしたあとの星の貸し借りくらいなら、たいしたことではないように感じる。 子供の頃、千秋楽で勝ち越しのかかった力士がほぼ間違いなく勝っていたことから、それに近いことがあることは理解していた(このことは、米国の研究者によっても統計的に証明されていたと記憶している)。 小学生のぼくがわかっていたくらいだから、ファンはみんな知っていて、許していたはずだ。 違うのかな? 八百長を完全に排除したいなら、まず、部屋の制度を廃止し部屋の影響力をなくす。 親方はトレーナーとなり、相撲取のほうで自由に選べるようにする。 自由といっても人気のあるトレーナーは、素質があり、謝礼の高い相撲取としか契約しないだろうから、新たな競争が生まれ、トレーナー、弟子とも必死になる。 新弟子は相撲協会の共有とし、入幕までは共通プログラムでトレーニングする。 いじめや扱きも減るだろう。 また、本場所中とその前日、相撲取は、一切外部との接触を断つべきだ。 電話も飲み歩きも当然禁止である。 家に電話してもいけない(競輪などでは実際にやっている)。 その上で、給与を減らし、かわりにどの勝負においても、一勝あたりの賞金を多くする。 タニマチも禁止。 協会を通した寄付は可。 ただ、それで大相撲が面白くなるかは・・・どうだろう? あまり近代スポーツ化しすぎないほうがいいような気もするのだが。 人権侵害にならない程度に、封建的な部分も残した方が魅力的ではないだろうか。 歌舞伎や能の世界のように。 ぼくは、今、大相撲が大好き、というわけではないけれど、これからも是非残ってほしいと思う。 イタリアで大型客船が座礁し、死者も二桁台になる不幸な事件になった。 報道の内容が正しいなら、船長はとんでもないやつ。 個人の勝手で島に近づき、座礁させた上に、まっさきに逃げ、国外逃亡も考えたかもしれないという。 それでいて、「自分の判断は適切で、多くの命が救われた」と主張しているらしい。 船長に限らず、スタッフの多くが我れ先にボートで脱出した、未熟な船員が多く、船をおろせなかった、などという話も聞く。 なんにしろ、楽しい旅に出航してわずか3時間以内の出来事、乗客にとってはたまったものではない。 そんな中、こんな記事を見た。 伊客船座礁:「いい年した男性が我先に」脱出の模様証言 韓国人乗客が見た光景。 女性や子供より先に何人もの老年男性が先に逃げようとしたという。 西洋人の取り乱しようがひどかったとも。 ああ、日本人がそんなことをしなくて(あるいは少なくともそういうシーンを見られていなくて)よかったな、とちょっと思いつつ、翻って自分だったらどうだろうか、と考えた。 実は、武術と武道では、こういう時、考え方がちょっと違う。 武術、というのは、案外エゴなもので、武士ならばまず主家、続いて自分や家族が助かることが優先だ。 日本では、自分の一族が生き延び、手柄をたて、出世するための手段でもある。 主家を守るのも、もともとは自分の一族が、自分が死するとも生き延びるために必要だったからだと思う。 自分の死後、「名」が落ちることは、一族が貶められることにもつながった。 中国ではどうなのかわからないけど、やはり人類愛というよりは、自己や一族(村や血縁でない、秘密結社等も含む)のためというのが第一ではないか。 陳家の拳法は、やはり陳一族を守るためにあったと考えるべきだろう。 もちろん、実際には、武術の道場であっても「徳」を重んじることが多く、なりふり構わぬ利己主義を助長するなどということはない。 けれども、最初から人生や徳、自己研鑽(精神的な)、愛に重きを置いた武道とは、趣が異なるように思う。 まず「術」が重要なのが武術である。 人間的な成長を重んじるのが武道である。 このことは、合気道や少林寺拳法ではより明確になっている。 もっとも・・・ 「術」を極めて行くと、精神的にも成長した人間にもならざるを得ず、「術」の枠も突抜け、武道的な何かが自然生まれていくのではないか。 そこまでいかずとも、道場で、命をかけて教え、教えられるというとき、人間性が無視されるわけもない。 あるいはまた、目指すべき武士道というものを実現するための一部として、武術があった、というだけのことかもしれない。 (武士道については、本来の武士道とは、と、いろんな見解があるので、ここではあまり言及しないことにするが、ある種の武士の精神的価値観の支柱という程度には考えたい) さて・・・ 日常、武術を習っている時、ぼくはまだまだ若輩なこともあって、自分か、せいぜい自分の家族のことしか考えていなさそうだ。 もちろん、人のためになんかなりたくないや、と思っているわけではないけれど、人のために自分を投げ出す、という考えには至っていない。 人類が幸せになるといい、日本がよい国であるといい、そのために役に立てるとすれば嬉しい、と、思いはするけれど、まず自分が幸せになることを放棄するつもりは全くない。 少林寺拳法は、このあたり、うまい言葉を持っていて、「半ばは自分の幸せを、半ばは他人の幸せを」と言う。 (ちなみに、ぼくの息子は少林寺拳法を習っている) なかなかよい言葉だと思う。 といっても、今回の事件のような、自分か他人かどちらかしか助からないというシチュエーションだったら、どうするのがよいのだろう。 自分と他人が半ば、だとするとどちらでもよいということなのだろうか。 おそらく、他人が助かることに自分が喜びを見いだせるようになっていれば、他人を助けることで自分の幸せも若干増えることになるので、トータルとして他人を助けるほうが幸せが大きい、ということになるのかもしれない。 このあたりは、自分が直接少林寺拳法を習っているわけではないので、これ以上追求はしないことにするが。 でも、情けないが、今の自分がそういう覚悟になれるのは、なかなか大変なのではないかという気がする。 ここにはふたつの覚悟がある。 ひとつは、こういう状態でも、パニックにならないだけの精神的な落ち着きを持つこと。 これは武術家にも武道家にも必須だろう。 死を前にして、慌てない覚悟が必要である。 自分は十分だろうか? 多分、十分じゃないな。 しかし、求めるべき覚悟である。 もうひとつは、人の生きる道として、やるべきことはやるという覚悟。 誤解を招くかもしれないが、戦国時代の武士であれば、必ずしも見も知らぬ子供や女性にボートをゆずったりしなかったのではないだろうか。 当時の武士が遊びで船に乗ることはまずないだろうから、何らかの使命を帯びているといっていいだろう。 とすれば、その使命が最優先になるはずだ。 あるいは、主家が乗っていれば、他の乗客を押しのけても、主家を乗せようとしたかもしれない。 また、当時の価値観からは、女性よりも、助けるなら長男であったろう。 しかしまた、使命がなければ、仏教的な観点から、自分の命への執着を捨て、他人を助けることに尽くす、ということもあったかもしれない。 助けるとなれば、一切を捨てて助けたかもしれない。 これは、人生への価値観の問題である。 価値観は、時代や国や民族や人によって違う。 今の日本では、全体の基本的支柱となる価値観もないといっていい。 世界的には、どうなのだろう。 宗教がある場合は大丈夫かもしれないけど。 客船パニックの例を見ると、日本だけがまずいわけじゃなさそうだ。 残念ながら、自分は、確たる価値観を持っていないな、と思う。 かといって、武道をやって是非追求したい、という気にもなっていない。 なんとなく、価値観がはじめに提示されているのがしっくりこない。 自分のものにならない気がする。 それでもやっぱり、家族、特に子供に見せられないような醜態はさらしたくないなあ、という程度の気持ちはある。 なので、その場になってみないとわからないが、ほんとはイヤだけど譲ってしまう、ということも結果としてはなくはないかもしれない。 でも、情けない譲り方だ。 武術を追求することで、突き抜けられるものがあるだろうか。

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決まり手 腰投げ

上手投げって!相撲の決まり手かよ! オーバースローで投げるメリットは? 次にオーバースローで投げることによってどんな効果があるのか?またどんなメリットがあるのか説明していきたいと思います。 球速が出やすい オーバースローの投球フォームは球速が出やすいというメリットがあります。 スリークォーターの記事でも少し説明しましたが、オーバースローやスリークォーターは上から投げることによって重力の力をかりることができ、またボールを持っている時間も長く加速もつきやすいので球速がでやすい投球フォームになっています。 変化をつけやすい オーバースローは変化球など変化をつけやすい投球フォームになっています。 特に縦への変化の縦スライダー、縦カーブ、フォーク、など高い位置から投げ下ろしたボールは非情に変化がついてオーバースローのピッチャーにとっても最大の武器になると言っても過言ではないでしょう。 角度があるボールを投げれる よく二階からボールが来るようなと聞くように、リリースのポイントが高くなるために角度のあるボールが投げれます。 特に身長が高い人はより角度のあるボールを投げれるため非情にバッターにとっては打ちづらく有効な投球ができます。 成績を残しやすい オーバースローは自分の体重もボールにのせることができます。 その結果威力のあるボールを投げることができます。 また一番ボールに力が伝わる投球フォームはオーバースローであるために成績を残しやすい投球フォームと言えます。 オーバースローのデメリットとは? オーバースローで投げることによりデメリットも存在します。 それを今から説明していきたいと思います。 身体に負担がかかる オーバースローの投球フォームでは、高い位置からボールを投げることにより重力の力をかりることができ、威力のあるボールを投げるできますがその反面、肩や肘に負担がかかります。 自分の頭より高いところから腕を振りおろすため重力に逆らった投げ方となるため肩や肘に負担がかかります。 これは高い位置からスイングするテニスやバドミントンなどにも共通して言えます。 また腕が高くなるので上半身の傾きが大きくなり、脇腹、背中、腰などにも負担がかかりやすくなり正しい投球フォームで投げないと故障の原因にもなります。 これらを予防するためには、正しい投球フォームで投げることも大事ですが日々のトレーニングで身体を鍛えることが大事です。 おすすめのトレーニング方法がコチラ 投げることは上半身を鍛えれば予防されると思われがちですが、下半身の強化によってフォームも安定するので日々の走りこみも予防のひとつとなります。 また筋を痛めないように、可動域を広げるためにストレッチをするのも予防のひとつですね! 2. コントロールがつけにくい オーバースローは他の投球フォームに比べてコントロールがつけにくいというデメリットがあります。 よくプロのピッチャーでもコントロールがつけにくいためスリークォーターにした選手がいます。 特にシンカーやスクリューなどピッチャーの利き腕方向に曲がりながら落ちるボールはコントロールがつけにくいです。 バッターが苦にならない、個性がない スリークォーターの記事で説明しましたが、ポピュラーな投球フォームのため、ほとんどのピッチャーがこの投球フォームなのでバッターが苦にならない、個性がないと言えます。 オーバースロー投げ方注意点 オーバースローは高く腕をあげるため投げる度に、腕や肘を高く安定して保つのが難しいです。 これが崩れると身体全体のバランスが崩れてしまうために、コントロールが安定しないだけではなく、どこか身体を痛め故障の原因になります。 これを防ぐためにも、足腰の強化やフォームをチェックし、身体をうまく使えるように修正するのもポイントになってくるのではないでしょうか?.

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上手投げって!相撲の決まり手かよ! オーバースローで投げるメリットは? 次にオーバースローで投げることによってどんな効果があるのか?またどんなメリットがあるのか説明していきたいと思います。 球速が出やすい オーバースローの投球フォームは球速が出やすいというメリットがあります。 スリークォーターの記事でも少し説明しましたが、オーバースローやスリークォーターは上から投げることによって重力の力をかりることができ、またボールを持っている時間も長く加速もつきやすいので球速がでやすい投球フォームになっています。 変化をつけやすい オーバースローは変化球など変化をつけやすい投球フォームになっています。 特に縦への変化の縦スライダー、縦カーブ、フォーク、など高い位置から投げ下ろしたボールは非情に変化がついてオーバースローのピッチャーにとっても最大の武器になると言っても過言ではないでしょう。 角度があるボールを投げれる よく二階からボールが来るようなと聞くように、リリースのポイントが高くなるために角度のあるボールが投げれます。 特に身長が高い人はより角度のあるボールを投げれるため非情にバッターにとっては打ちづらく有効な投球ができます。 成績を残しやすい オーバースローは自分の体重もボールにのせることができます。 その結果威力のあるボールを投げることができます。 また一番ボールに力が伝わる投球フォームはオーバースローであるために成績を残しやすい投球フォームと言えます。 オーバースローのデメリットとは? オーバースローで投げることによりデメリットも存在します。 それを今から説明していきたいと思います。 身体に負担がかかる オーバースローの投球フォームでは、高い位置からボールを投げることにより重力の力をかりることができ、威力のあるボールを投げるできますがその反面、肩や肘に負担がかかります。 自分の頭より高いところから腕を振りおろすため重力に逆らった投げ方となるため肩や肘に負担がかかります。 これは高い位置からスイングするテニスやバドミントンなどにも共通して言えます。 また腕が高くなるので上半身の傾きが大きくなり、脇腹、背中、腰などにも負担がかかりやすくなり正しい投球フォームで投げないと故障の原因にもなります。 これらを予防するためには、正しい投球フォームで投げることも大事ですが日々のトレーニングで身体を鍛えることが大事です。 おすすめのトレーニング方法がコチラ 投げることは上半身を鍛えれば予防されると思われがちですが、下半身の強化によってフォームも安定するので日々の走りこみも予防のひとつとなります。 また筋を痛めないように、可動域を広げるためにストレッチをするのも予防のひとつですね! 2. コントロールがつけにくい オーバースローは他の投球フォームに比べてコントロールがつけにくいというデメリットがあります。 よくプロのピッチャーでもコントロールがつけにくいためスリークォーターにした選手がいます。 特にシンカーやスクリューなどピッチャーの利き腕方向に曲がりながら落ちるボールはコントロールがつけにくいです。 バッターが苦にならない、個性がない スリークォーターの記事で説明しましたが、ポピュラーな投球フォームのため、ほとんどのピッチャーがこの投球フォームなのでバッターが苦にならない、個性がないと言えます。 オーバースロー投げ方注意点 オーバースローは高く腕をあげるため投げる度に、腕や肘を高く安定して保つのが難しいです。 これが崩れると身体全体のバランスが崩れてしまうために、コントロールが安定しないだけではなく、どこか身体を痛め故障の原因になります。 これを防ぐためにも、足腰の強化やフォームをチェックし、身体をうまく使えるように修正するのもポイントになってくるのではないでしょうか?.

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