水木しげる左手。 駐車場のご案内

水木しげるさんの左手を失った壮絶エピソードとは?性格は自身も認める超マイペースだった?

水木しげる左手

戦後に妖怪を復活させた水木氏 ラバウルで左手を失うなど、第二次大戦をその身で体験した水木しげる氏には、戦争ものなどでも優れた作品は多いが、やはり妖怪漫画の第一人者であることは揺るぎない事実だ。 戦後の日本人に「妖怪」を思い出させたのは、あるいは再発見させたのは、民俗学者ではなく漫画家の水木氏だったと言える。 氏は戦争や戦後の混乱を、窮乏とともに体験され苦労されながらも、昭和60年代半ばから漫画家として評価され始め、『ゲゲゲの鬼太郎』の大ヒットにより、妖怪漫画の第一人者となった。 他にも『河童の三平』や『悪魔くん』などが、独特の水木ワールドを展開していった。 そして氏は、我々に見えない妖怪の姿を次々とビジュアル化していった。 その素材は、鳥山石燕(とりやませきえん:1712~1788)などが描いた妖怪画を参考にしているが、文字しか残っていない妖怪達(それが『子泣き爺(こなきじじい)』『砂かけ婆(すなかけばばあ)』『ぬりかべ』『一反木綿(いったんもめん)』たちだというから驚く)も、氏の想像力がビジュアル化していった。 このことの功績と影響は大きすぎるだろう。 たとえば『妖怪ウォッチ』が、全く平成時代の新たなキャラクターを生み出したと言われても、私は水木氏の手のひらに乗っているとしか思えない。 なぜならば、人間界で妖怪が活躍する、妖怪が親しみ易い、といった設定時点で、それが既に水木氏が作り上げてきた土台の上にあると思えるからだ。 作家の京極夏彦氏にも影響を与えた文化人類学者で、民俗学者の小松和彦氏が水木氏について語っている。 <水木さんの妖怪画は江戸時代の妖怪画の伝統を継承し、現代の新しい妖怪文化をつくる上で重要な役割を果たした。 水木さんの膨大な妖怪画がなかったら、日本の妖怪研究がこんなに発展することはなかっただろう。 > 本当にそう思う。

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水木しげるが「地獄」だと表した戦場、慰安婦の実態。妖怪と共に戦争の悲惨さも描き続ける(日本がアブナイ!) 笑坊

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第358回 水木しげるさんの死〜なぜ「戦争反対とは決して言いません」だったのか。 の巻 11月30日、漫画家の水木しげる氏が亡くなった。 その訃報に触れた時、「ああ、やっぱり会えなかったか…」としみじみ思った。 本当は、今年の1月、水木氏に取材をすることになっていた。 取材内容は、水木氏の戦争体験。 マネージャーの方を通して本人の快諾を頂き、日程も決まっていたものの、取材数日前、体調を崩されたとのことで話は流れてしまったのだ。 高齢のため、大事をとりたいという旨の丁寧な連絡を頂き、残念だったが、出版の日も決まっていたので「水木氏への取材」は叶わぬ夢となってしまった。 その本が、今年7月に出版しただ。 本書には、実際に戦争を経験した人として、俳人の金子兜太さんと女優の赤木春恵さんにご登場頂いている。 そんな水木氏の取材を巡るやり取りの中で、私の中に強く印象づけられた言葉がある。 それは取材を快諾して頂いた際の、マネージャーさんからのメールの言葉。 高齢のため、長時間の取材は受けられないなどのいくつかのことわりの言葉の後に、こんな文章が続いていた。 「それと水木は『戦争反対』とは決して言いません。 そのために、記事をうまくまとめられない記者さんも過去にはおられました」 ラバウルの激戦地に送られ、左腕を失い、生死の境を彷徨うほどの経験をし、仲間も多く失った氏なのに、なぜ、「戦争反対」とは決して言わないのか。 取材が叶った際には、そのことをこそ、聞きたいと思っていた。 しかし、もう氏はこの世にいない。 永遠に解けない謎だけが、私の中に残された。 この国の多くの人が「水木漫画」の影響を受けてきたように、私も子どもの頃から彼の漫画のファンだった。 のちに「ガロ」系漫画に猛烈にハマったのも、おそらく水木漫画という下地があったからだと思う。 そんな氏の存在が私の中で決定的に変わったのは、ある本を読んでからだ。 それは(梯久美子 角川書店)。 戦争を体験した人々にインタビューをしている本書で、水木氏は今から7年前の08年、86歳で取材を受けている。 氏の体験は、やはり壮絶だ。 しかし、本人の語り口はあくまでも飄々としている。 寝ることと食べることが最優先のライフスタイルを軍隊でも変えず、毎日遅刻して毎日殴られたこと。 交代で不寝番をし、望遠鏡で海上を監視していたら、ついオウムに見とれてしまい、小屋に戻るのが遅れたこと。 すると小屋が直撃弾を受けて、分隊は全滅したこと。 また、仲間がどんどん「勇ましい戦死」とはほど遠い形で命を失っていったことも語られる。 ある者は生きた魚を喉につまらせて死に、ある者はワニに食べられて死ぬ。 それも、何人も。 川に落ちた帽子を拾おうとして水に少し手を入れるなどした際に、あっという間に引っ張られるのだ。 ワニは上半身だけ食べて下半身は泥の中に埋めておく習性があるそうで、2、3日経つとゲートルをきちんと巻いて靴を履いたままの下半身が流れてくるのだという。 そんな描写が続いたかと思うと、現地の集落の人たちと仲良くなり、のんびり暮らす彼らの村に入り浸るようになった上、自分の畑まで作ってもらうというあり得ない展開になる。 戦争が終わった時、水木氏は現地の人々に「ここに残れ」と言われたという。 「みんなとトモダチになったし、景色はきれいだし、のんびり暮らせるし。 自分に合ったところだと思った」という氏は現地除隊を一時は真剣に考えた。 しかし、相談した「軍医殿」にとにかく一度日本に帰るよう説得される。 もし、この時、水木氏が現地除隊していたら、『ゲゲゲの鬼太郎』などの名作が生まれることはなかったのだろう。 そんな氏の不思議な戦争体験を知った私は、彼の戦争体験を綴った漫画を読み漁った。 、イラストと文章からなるなどなど。 「私はなんでこのような、つらいつとめをせにゃならぬ」。 慰安婦が歌う「女郎の歌」を、最後の突撃の前に兵隊たちが歌う『総員玉砕せよ!』。 印象的なシーンはたくさんあるが、もっとも強烈に覚えているのは、敵に撃たれて負傷し、倒れた仲間の指を切るシーンだ。 まだ生きているというのに、「遺骨を作るんだ」と上官に言われ、スコップの先で小指を切り落とす。 土砂降りの雨の中、指を切られた兵隊は去っていく仲間の気配を感じ、「おめえたちゃあ行っちまうんか」と呟く。 『水木しげるのラバウル戦記』には、氏が左腕を失った際の描写もある。 寝ている時に敵機のマークが上空に見え、穴に避難しようとするものの間に合わない。 そこに爆弾が落ち、左手に走った鈍痛。 バケツ一杯あまりの出血をし、翌日、「七徳ナイフみたいなもの」で軍医が腕を切断。 「モーローとしていて、痛くなかった」という。 が、その後、マラリアが再発。 以下、『水木しげるのラバウル戦記』からの引用だ。 一日中寝ているしかなく、ぼんやりと考えごとばかりして暮らしていた。 文明なんてなんだ、いじめられ、そして、何かあると天皇の命令だから死ねとくる。 また、忙しいばかりで何もない。 それにくらべて土人(著者注 現地人のこと)の生活は何とすばらしいものだろう。 即ち、日本人には味わえないゆったりとした心があるのだ。 いぜんとして乾パンもめしものどを通らず、熱も下がらないまま、ある夜、注射が突然こわくなり、じっとしていられなくなって軍医のところへ行こうとヨロヨロ歩きだした。 あとでわかったことだが、少し狂ってきていたのだ。 意識もあまりはっきりしていず、気がついた時は、豪雨で川みたいになった道をヨロヨロと歩いていた。 熱い体に冷たい雨が、なんとなく心地よい。 あたりは真っ暗。 そのうちジャングルの中に入り、前にもうしろにも行けなくなった。 動こうと思っても、指と首ぐらいしか動かない。 「ああ、俺はこんなところで死ぬのか」と思ったまま、意識がなくなった。 ガヤガヤという声がして、二、三人の戦友と軍医さんに手足を持って壕の中へ運ばれ、リンゲルという注射を打たれた。 病気は一進一退で、寝たままだった。 外では玉砕の歌が歌われ、死の気分が漂っている。 いま生きたとしても、どうせ敵が上がってきて一年後には死ぬだろうというのが、そのころの兵隊の気持だった。 前線は、はるか先の沖縄あたりになっているのだ。 ジャングルに埋もれた、左手のない遺骨。 一年後の自分の姿を想像したり、頭も少しおかしかったとみえて、軍医さんをなぐったりしたのもこのころだ。 水木氏のこういった描写や漫画を読んでいると、「ああ、こんなふうに死んでいったんだろうな」という無数の死者の無念がひしひしと伝わってくる。 東部ニューギニアだけでも、日本兵の死者は12万人を超えるという。 この原稿を書くにあたり、水木氏の戦争漫画などを改めて読み返して、氏が「戦争反対」という言葉を決して言わない理由が、なんとなくだけど、わかった気がした。 「戦争反対」という、ある意味でありきたりな言葉では、とても言い尽くせない思いがあったのではないだろうか。 たった四文字の漢字になどとても託せないほどの、経験していない者には決してわからない気持ちが、氏にその言葉を吐かせなかったのではないだろうか。 水木氏のインタビューをした梯氏は、『昭和二十年夏、僕は兵士だった』で以下のように書いている。 インタビューの中で、水木氏は一度も、いわゆる正論を吐かなかった。 おそらく氏は「美学」が嫌いなのだ。 美学に酔って、人間を軽んじた軍人たちへの痛烈な批判がそこにはある。 そんな水木氏は、『総員玉砕せよ!』のあとがきで、以下のように書いている。 ぼくは戦記物をかくとわけのわからない怒りが込み上げてきて仕方がない。 多分戦死者の霊がそうさせるのではないかと思う。 戦死者たちの霊に突き動かされるようにして「戦争」を描いた漫画家が、戦後70年の冬、93年の生涯を終えた。 水木氏の戦争漫画は、妖怪漫画とともに、長く読みつがれていくだろう。 ああ、でも、一度お会いしたかった! あまみや・かりん: 1975年北海道生まれ。 作家・活動家。 2000年に自伝的エッセイ『生き地獄天国』(太田出版)でデビュー。 若者の「生きづらさ」などについての著作を発表する一方、イラクや北朝鮮への渡航を重ねる。 現在は新自由主義のもと、不安定さを強いられる人々「プレカリアート」問題に取り組み、取材、執筆、運動中。 『反撃カルチャープレカリアートの豊かな世界』(角川文芸出版)、『雨宮処凛の「生存革命」日記』(集英社)、『プレカリアートの憂鬱』(講談社)など、著書多数。 2007年に『生きさせろ! 難民化する若者たち』(太田出版)でJCJ賞 日本ジャーナリスト会議賞 を受賞。 「反貧困ネットワーク」副代表、「週刊金曜日」編集委員、、フリーター全般労働組合組合員、「こわれ者の祭典」名誉会長、09年末より厚生労働省ナショナルミニマム研究会委員。 オフィシャルブログ.

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水木しげる

水木しげる左手

妖怪漫画の第一人者であり、日本に「妖怪文化」を根付かせた漫画家、 水木しげる。 1954年に紙芝居として発表された代表作『ゲゲゲの鬼太郎』は、半世紀以上にわたって漫画化、アニメ化、映画化とさまざまな形でファンを楽しませています。 アニメ化50周年を迎えた2018年には、第6期となる新シリーズのアニメが放送されるなど、今なお人気は衰えることを知りません。 水木しげるは作品だけでなく、独創的で型破りな生き方も注目されてきました。 2016年に93歳で亡くなるまで、水木しげるはどのような生き方をモットーとしていたのでしょうか。 今回は自伝をもとに、その自由な生き方を紹介します。 自分の好きなことだけにとことん熱中し、気ままで自分本位だった水木少年。 自然豊かな境港は驚きの連続で、海や山、動物や虫と目に映るものすべてが新鮮だったといいます。 そんな頃、水木は武良家にお手伝いとしてやってきた景山ふさという老婆と出会います。 実家から2キロばかり離れた場所にある正福寺によく連れていってもらった。 本堂に地獄極楽図が飾ってある。 この絵は今も飾ってある。 地獄の様子と極楽の風景を類型的に描いた小さな五枚の連作である。 今見てもなかなかのものだが、子ども心にはすごい迫力で迫ってきて、夢でうなされたほどだ。 のんのんばあのあの 朴訥 ぼくとつとした説明を聞きながら、こわごわと見入ったこの宗教画は、ベビイだった私にあの世の存在と霊魂の実在を教えてくれた。 紙と鉛筆さえあれば飽きずに絵を描いていた水木は、13歳のときに図工教師からのすすめで個展を開いたこともあるほどの絵心の持ち主。 すでに絵の才能を開花させていたものの、他の成績が散々だったことから進学ができなかった水木は高等小学校卒業後、親戚のツテで大阪に行き、働くこととなります。 「画家になる」夢と、現実の狭間。 大阪で水木を待っていたのは、過酷な日々でした。 印刷会社に住み込みで働き始めるも、失敗ばかりで解雇を言い渡されるなど、周りから「問題児」、「厄介者」といったレッテルを貼られることも珍しくなかったとか。 ですが、本人は特に気にすることもありませんでした。 やがて水木は両親から紹介された無試験の絵の学校に通い始めるも、授業内容に満足できなかったことからあえて独学で作品を創作していました。 ぼくはますます「自習」に熱中した。 図書室へ行って人体解剖学の本の図を写し(これは、正確な人体デッサンに必要だと思ったから)、その行き帰りには、あちらこちらをスケッチするという猛勉強ぶり。 絵本の方もどんどんこりだして、アンデルセンやグリムの童話を絵物語にしてみようと、何日も何日も部屋にとじこもった。 『ほんまにオレはアホやろか』より この頃、水木は東京美術学校(現在の東京芸術大学)に進学して、画家になる夢を抱きますが、高等小学校しか出ていない彼は、受験資格すらも得られません。 親を説得し、夜間中学に通いながら絵を描き、夢を実現しようと動き始めた時には、日本に戦争の影が迫っていました。 そして水木は21歳のときに届いた召集令状により、ついに戦場へ行くこととなります。 爆撃で左手を失いながらも、現地民と交流を深める。 敵の攻撃から逃げ回るのが精一杯で、食糧さえも枯渇しがちだった日々はまさに死と隣り合わせでした。 遅刻を繰り返すなど、失敗続きだった水木は上官から日常的に暴力を振るわれることも珍しくなかったといいます。 ある日、敵国から銃撃を受けた水木は、死にものぐるいで海へ飛び込みます。 銃弾が体をかすめるほどの集中砲火を回避し、なんとか泳いで陸へ辿り着いた水木は銃を紛失したことに気がつきます。 丸腰で、いつ敵に遭遇するかもわからない状況に陥った水木は、人が立ち入らないような山道を通って基地へ帰ろうとします。 その道中も野生の動物や攻撃的な現地の民族に襲われかけるたび、水木は何度も死を覚悟するのでした。 海軍に助けられ、所属する隊の本部に戻った水木を迎えたのは、厳しい表情の上官たちでした。 奇跡の生還を果たした水木でしたが、上官にとっては敵前逃亡したばかりか、貴重な武器を紛失した落ちこぼれでしかありません。 国のために命を投げ出すことが当たり前だった日本軍では、命からがら逃げてきたことは恥ずべき行為でした。 生還を喜ばれるものだとばかり思っていた水木は、上官から「なぜ、死なずに逃げたのか」と責められ、愕然とします。 それからますます戦況は悪化します。 命からがらの逃避行を終えた後、温かい言葉をかけられなかったことで虚無的になっていた水木は、マラリアを発症。 何日もの間高熱に苦しんだ水木は、空襲で左腕を負傷します。 すぐ近くに衛生兵がいたから、かけ寄って止血してくれた。 それでも、血はバケツ二杯も出たような気がした。 もっとも、実際にそんなに出たら、とっくに死んでいることになるのだが、印象としては、そう感じるほどひどかった。 いずれにしても、衛生兵の機敏な手当てがなかったら、死んでいたことはまちがいない。 『ねぼけ人生』より 空襲の翌日、軍医は治療のためにナイフで水木の左腕を切り落とすことを決めます。 左腕を失い、傷病兵として後方に送られた水木の心の支えとなったのは、島の原住民であるトライ族でした。 初対面にも拘わらず、たくさんの食べ物でもてなしてくれたことに感激した水木は、配給のタバコと果物を交換するうちに意気投合。 すっかり気に入られた水木は、たびたび兵舎を抜け出しては、彼らに会いに行くようになります。 トライ族の人たちとはますます仲良くなり、もはや友人を通り越して「同胞」のような存在に昇格していた。 私の体内に居座る、のんきでゆったりとした「水木サンのリズム」と彼らのリズムが調和して、波長がぴったりと合ったのだろう。 そうとしか考えられないほどの気の合い方だった。 『水木サンの幸福論』より 戦争を気にせず、自由に生きているトライ族と、威張って部下に暴力を振るうような上官。 言うまでもなく、水木はトライ族と過ごす時間を大切にしていました。 やがて戦争が終わり、「畑を分け与えるから、このまま一緒に暮らそう」とトライ族に提案された水木は、自らの意思でラバウルへ残ることも検討します。 しかし上官に説得された水木は、「7年後にまた来る」とトライ族の人々に約束し、日本へと戻るのでした。 夢を叶えるも、食うための生活に向け悪戦苦闘。 帰国した水木は、武蔵野美術学校(現在の武蔵野美術大学)に入学するも、経済的な問題から数年で中退。 戦後の傷が癒えない日本において、負傷兵である水木が安定した生活を送ることはまだまだ容易ではありませんでした。 その後も魚売りや自転車でのタクシー業など、食いつなぐために職を転々とするなか、成り行きでアパート経営を始めることになった水木。 大家となったアパート「水木荘」には、紙芝居作家のアシスタントとして働く青年が引っ越してきます。 水木は青年の紹介を受け、紙芝居作家として採用されますが、これは「絵を仕事にする」という幼い頃からの夢を叶えた瞬間でもありました。 水木は絵が得意ではありましたが、ストーリー構成を苦手としていたことから苦戦を強いられます。 子どもたちを相手にする紙芝居では、見せ場はもちろん、次回への期待をもたせたまま終わらせるストーリー展開にすることが必須です。 売れ線の作品を目指して苦手だったSFにまで手を広げても、売れる気配は全くありません。 偶然、作品が売れたとしても、貸元が夜逃げし、給与が払われないことも珍しくなかったため、生活はいつも困窮していました。 それでも一心不乱に紙芝居を書き続けた水木には、少しずつ紙芝居作りのノウハウが蓄積され始めていました。 そんな矢先、テレビの出現により紙芝居の人気は急落します。 「このまま必死に描き続けていたとしても、紙芝居に未来はない」と思った水木は紙芝居に見切りをつけ、漫画家に転身。 たったひとりで上京し、活動拠点を東京に移します。 長い下積み時代を終え、取り戻した「水木サンのルール」 漫画家に転身した水木でしたが、すぐに仕事が次々に舞い込んでくるわけではありません。 暗く陰鬱とした作風が敬遠されて、出版社側から原稿料を安くするよう持ちかけられたり、作者名を無断で変更した旨を出版後に知らされることさえありました。 十日ばかりして、曙出版に金をもらいに行った。 ぼくの力作が本になっている。 手にとると、 武取 たけとりいさむ作となっているではないか。 「どうしたんですか、これは」 「水木しげるじゃあ全然売れなくてねえ。 わるいけど、名前を変えさせてもらったよ」 『ほんまにオレはアホやろか』より 得意とする怪奇ものを描くことを希望したとしても、前評判の悪さから出版ができず、疫病神扱い。 家賃の滞納が続き、質屋でなんとか金を作って暮らすギリギリの生活からなかなか抜け出せません。 すでに40歳を迎えようとしていた水木は、親のすすめで同じ鳥取県出身の飯塚布絵と見合い結婚をします。 その翌年には娘が誕生し、育児のためにますます安定した収入が求められると、水木は、一時漫画家を辞めようとも考えます。 そんな頃、「怪奇ものを描かせてくれ」と出版社を説得した水木は、『墓場の鬼太郎』を執筆。 しかし鬼太郎は当初全く売れず、掲載されていた雑誌も廃刊してしまいます。 ところが、一部の読者から 「すごく面白かったから、なんとしても続きを出してくれ」と再開を望む手紙が届いたことをきっかけに、鬼太郎の単行本が出版され始めます。 熱心なファンからの手紙がなければ、今のように鬼太郎が多くの人に読まれることはなかったのかもしれません。 さらに東京オリンピック開催直前の1964年、水木は知り合いの編集者から雑誌「ガロ」への執筆を提案されます。 一世を風靡した白土三平の忍者漫画『カムイ外伝』と水木の『鬼太郎夜話』の2作が看板作品だった「ガロ」は、それまで「子どもが読むもの」とされていた漫画のイメージを一新します。 散々な前評判を受けていたことが嘘だったかのように、鬼太郎はますます多くの人に読まれる機会を得るのでした。 「ガロ」で名が売れ始めた水木はその翌年、「少年マガジン」から執筆依頼を受けます。 その頃、「少年マガジン」の編集者がやってきて、宇宙ものを描いてくれという。 しかし、僕は、宇宙ものは得意ではない。 貸本マンガの連中で、雑誌から注文が来たのはいいが、不得手な分野なのに引き受けて、後で苦労した人が何人もいた。 貸本マンガに引き返そうにも引き返せず、不得手な分野は当たらない、というわけだ。 そういう例を知っていたから、僕は、この話は断った。 『ねぼけ人生』より 水木は人気雑誌からの依頼に喜びますが、少年雑誌への転身はそれまでの作風や絵柄を大きく変えることでもありました。 それに加え「宇宙もの」という苦手なテーマを執筆できるのか悩んだ結果、水木は依頼を辞退。 「どうして断ってしまったんだ」と後悔しますが、半年後に「テーマはお任せします」と再度依頼を受け、怪奇ものを描くチャンスを勝ち取るのでした。 水木はこのとき執筆した作品『テレビくん』で第6回講談社児童まんが賞を受賞したことから、多くの出版社から依頼が舞い込むようになります。 水木は40歳を過ぎて初めて、売れっ子漫画家となります。 その人気ぶりは、当時の連載11本、テレビやイベント出演の依頼も相次いでいたことからもわかるでしょう。 妖怪やお化け関連のイベントが多く開かれる夏は特に忙しく、10年間にわたって子どもを海水浴に連れて行くことさえできなかったと言います。 寝る時間はどんどん少なくなり、ときには寝ないことさえある。 これも、二十代、三十代ならともかく、四十代も後半に入ってからでは体にこたえる。 五十代になれば更にこたえる。 『ねぼけ人生』より この頃、偶然にも水木はラバウルにいた頃の軍曹と再会し、二人で戦地を旅行することになります。 再訪を約束していたトライ族の集落を訪れ、忘れかけていた 「あくせく働かず、自由に生きることの大切さ」を思い出す水木。 帰国後、締め切りに追われる生活から解放されることを望み、自ら仕事を減らすようになります。 やがて自らを「幸福観察学会の会長」として、それまでの人生で出会った人を観察して気づいた「幸せの七ヵ条」を広めようとします。 では、その「幸せの七ヵ条」を見てみましょう。 第一条 成功や栄誉や勝ち負けを目的に、ことを行ってはいけない。 第二条 しないではいられないことをし続けなさい。 第三条 他人との比較ではない、あくまで自分の楽しさを追求すべし。 第四条 好きの力を信じる。 第五条 才能と収入は別、努力は人を裏切ると心得よ。 第六条 怠け者になりなさい。 第七条 目に見えない世界を信じる。 中でも異彩を放つ第六条の「怠け者になりなさい」は、文字通りの意味ではないのも実にユニークです。 自分の好きなことを自分のペースで進めていても、努力しなくちゃ食えん、というキビシイ現実があります。 それに、努力しても結果はなかなか思い通りにはならない。 だから、たまには怠けないとやっていけないのが人間です。 ただし、若いときは怠けてはだめなのです! 何度も言いますが、好きな道なのですから。 でも、中年を過ぎたら愉快に怠けるクセをつけるべきです。 『水木サンの幸福論』より 「怠け者になりなさい」と聞くと、ついつい目の前のことを投げ出してもいいようにも思えるもの。 しかし、若いときは怠けずに一生懸命やるべきことをやるように、という水木からの強いメッセージが込められています。 これは、ラバウルで出会ったトライ族の生き方に由来します。 働くべきときはしっかりと働き、その後は自由に時を過ごす。 そんな生き方は水木に「本当の幸せとは、あくせく働くことばかりではない」という大切なことを思い出させてくれたのでしょう。 幸せの七ヵ条において一貫しているのは、「自分が好きなことを続けること」。 それが見つからない人へ、水木はインタビューでこう述べます。 水木 「私は漫画家に向いているでしょうか?」と私に聞く人がいます。 そういう人は、その時点でだめ。 本当に好きなら、他人の意見なんてどうでもいい。 へただと言われても、向いていないと言われても、描かなくてはいられないものでしょう。 『ちゃんと食えば、幸せになる 水木三兄弟の日々是元気』より どれほど好きなことであっても、他人の意見で気持ちが揺れてしまうこともあるかもしれません。 それでも「しなくてはいられないもの」であれば、自分の意志は揺らがないはず。 その確かな「好きなもの」を信じていた水木の言葉だからこそ、私たちに強く響くのでしょう。 迷いがある時こそ、水木しげるの生き方を学ぼう。 水木サンが幸福だと言われるのは、長生きして、勲章もらって、エラクなったからなのか? 違います。 好きな道で六十年以上も奮闘して、ついに食いきったからです。 ノーベル賞をもらうより、そのことのほうが幸せと言えましょう。 『ちゃんと食えば、幸せになる 水木三兄弟の日々是元気』より 今の仕事を続けることに悩んでいたり、一度は夢を諦めてしまった経験がある人にとって、一生をかけて好きなことを続けた水木の生き方は大きな励みになるでしょう。 【参考文献】 水木しげる『ねぼけ人生』 水木しげる『ちゃんと食えば、幸せになる 水木三兄弟の日々是元気』 水木しげる『水木サンの幸福論』 水木しげる『ほんまにオレはアホやろか』.

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