アッシリア 王国。 史上初の世界帝国『アッシリア』と、その滅亡から学んだ大帝国『アケメネス朝ペルシャ』

アッシリア王名表

アッシリア 王国

聖書 の 預言 者 ナホム は ニネベ を,「ライオン の ねぐら」,「流血 の 都市」と 描写 し,こう 述べ て い ます。 「獲物 は 去っ て は 行か ない! むち の 音 と 車輪 の ごうごう たる 響き と が ある。 そして,突進 する 馬 と 躍り上がる 兵車。 馬上 の 騎手,剣 の 炎,槍 の 稲妻,討ち殺さ れ た 多数 の 者,大量 の 死がい。 死体 は 果てしなく 続く。 彼ら は その 死体 の 中 で 幾 度 も つまずく」。 ()一般 の 歴史 は,古代 アッシリア に 関する 聖書 の 記述 を 裏付け て いる でしょ う か。 「遠い 過去 から の 光」(英語)と いう 本 は アッシリア を,「残虐 さ に よっ て 敵 を 震え上がら せる こと を 意図 し た 冷酷 な 戦闘 組織」と 呼ん で い ます。 アッシリア の 王 アシュルナシルパル 2 世 は,自分 に 逆らっ た 者 たち に 加え た 仕打ち を 次 の よう に 自慢 し て い ます。 生き た まま 皮 を はが れる 捕虜 が 描か れ た 石 の 浮き彫り 「わたし は 彼 の 都市 の 城門 の 前 に,それ より も 高い 柱 を 建て,反乱 を 起こし た 首領 ら すべて の 皮 を はぎ,彼ら の 皮 で その 柱 を 覆っ た。 ある 者 ら を わたし は その 柱 の 中 に 封じ込め,ある 者 ら を 柱 の 上 で 杭 に 突き刺し た。 ……また,わたし は 役人 ども,反逆 し た 王室 の 役人 ども の 手足 を 切断 し た。 ……彼ら の 中 の 多く の 捕虜 を わたし は 火 で 焼き,多く の 者 を 生け捕り に し た」。 アッシリア の 王宮 を 発掘 調査 し た 考古 学 者 たち は,捕虜 に 加え られ た 身 の 毛 も よだつ よう な 虐待 の 光景 で 飾ら れ た 壁 を 発見 し まし た。 西暦 前 740 年,アッシリア は 北 の イスラエル 王国 の 首都 サマリア を 征服 し,住民 を 流刑 に 処し まし た。 8 年 後,アッシリア は ユダ に 侵攻 し ます。 ()アッシリア の 王 セナケリブ は ユダ の 王 ヒゼキヤ に,金 30 タラント と 銀 300 タラント の 貢ぎ を 要求 し ます。 聖書 の 記録 に よる と,その 貢ぎ は 支払わ れ まし た。 ところが,セナケリブ は ユダ の 首都 エルサレム に 無 条件 降伏 を 迫り ます。 ユダ 侵攻 に 関する セナケリブ の 自慢 が 記さ れ た 六角 柱 ニネベ を 調査 し た 考古 学 者 たち は,セナケリブ の 年代 記 の 中 に,この 出来事 に 関する 記述 を 見つけ まし た。 粘土 製 の 六角 柱 に 刻ま れ た 記録 の 中 で,アッシリア の 王 は こう 自慢 し て い ます。 「わたし の くびき に 服さ なかっ た ユダヤ 人 ヒゼキヤ に 関し て は,わたし は 彼 の 強固 な 都市 46,すなわち 城壁 を めぐらし た 堡塁 と その 近隣 の 無数 の 小さな 村 を 攻囲 し,……征服 し た。 ……彼[ヒゼキヤ]を わたし は その 王都 エルサレム に 閉じ込め て,かご の 中 の 鳥 の よう に し た」。 次い で セナケリブ は,ヒゼキヤ が「金 30 タラント,銀 800 タラント,宝石,……あらゆる 宝物」を 送っ て き た と 述べ,受け取っ た 銀 の 量 を 誇張 し て い ます。 ここ で 注目 できる の は,セナケリブ が エルサレム を 征服 し た と は 述べ て い ない こと です。 実 の ところ,神 の 介入 に よっ て 自軍 が 被っ た 大 敗北 に つい て,一言 も 触れ て い ませ ん。 聖書 に よれ ば,神 の み使い が 一夜 に し て アッシリア の 兵士 18万5,000 人 を 殺し まし た。 ()学 者 の ジャック ・ フィネガン は,「アッシリア 諸王 の 碑文 が 全般 に 尊大 な 調子 で 書か れ て いる こと から する と,セナケリブ が その よう な 敗北 に つい て 記録 する と は とうてい 考え られ ない」と 述べ て い ます。 アッシリア 帝国 の 没落 より 100 年 ほど 前 に,イザヤ は,エホバ の 民 に 不遜 な 態度 を 取っ た それら 高慢 な 征服 者 たち に エホバ 神 が 申し開き を 求める,と 言明 し まし た。 「わたし は アッシリア の 王 の 心 の 不遜 の 実 と その 目 の 高ぶり の うぬぼれ を 清算 する」と いう エホバ の 言葉 を,イザヤ は 記録 し て い ます。 ()さらに,神 の 預言 者 ナホム は,ニネベ が 略奪 さ れ,その 門 が 敵 に 対し て 開か れ,番兵 たち が 逃げる,と 予告 し まし た。 ()聖書 の 預言 者 ゼパニヤ も,ニネベ が「荒れ果て た 所」に なる,と 記し て い ます。 こう し た 滅亡 に 関する 預言 は,西暦 前 632 年 に 成就 し まし た。 その 年,ニネベ は バビロニア と メディア の 連合 軍 に 征服 さ れ,アッシリア 帝国 は 惨め な 終わり を 迎え まし た。 その 出来事 に 関する バビロニア の 年代 記 に よる と,征服 者 たち は『この 都市 と 神殿 から おびただしい 戦利 品 を 運び去り』,ニネベ を「廃墟 の 山」と し まし た。 今日,イラク の チグリス 川 東岸,つまり モスル 市 の 対岸 に は,廃墟 と なっ た 塚 が あり ます。 かつて ニネベ だっ た 場所 は,荒れ果て た 所 と なっ て いる の です。 アッシリア の 滅亡 は,別 の 聖書 預言 の 成就 に つながり まし た。 それ より 前 の 西暦 前 740 年,アッシリア は 十 部族 王国 の 住民 を 流刑 に 処し まし た。 それ と ほぼ 同じ ころ,神 の 預言 者 イザヤ は,エホバ が『アッシリア 人 を 砕い て,踏みにじり』,イスラエル を 故国 に 連れ戻す こと を 予告 し,こう 書き まし た。 「エホバ は……アッシリア……から 残っ て いる ご自分 の 民 の 残り の 者 を……集め られる」。 200 年 ほど 後,まさに その とおり の こと が 生じ まし た。 ニネベ の 陥落 より も ずっ と 前,アッシリア の 王 たち が 敵 を 縮み上がら せ て い た ころ,イザヤ は 全く 違う タイプ の 支配 者 の 登場 を 予告 し て い まし た。 こう 書い て い ます。 「わたしたち の ため に ひとり の 子供 が 生まれ,わたしたち に ひとり の 男子 が 与え られ た……。 君 と し て の 支配 が その 肩 に 置か れる。 ダビデ の 王座 と その 王国 の 上 に あっ て,君 と し て の その 豊か な 支配 と 平和 に 終わり は ない。 それ は,今 より 定め の ない 時 に 至る まで,公正 と 義 と に よっ て これ を 堅く 立て,支える ため で ある。 実 に 万軍 の エホバ の 熱心 が これ を 行なう」。 「平和 の 君」で ある イエス ・ キリスト の 支配 は 全地 に 及び ます。 に こう あり ます。 「その 日 に は 義 なる 者 が 芽生え,豊か な 平和 が 月 の なくなる とき まで 続く こと でしょ う。 そして,彼 は 海 から 海 に 至る まで,川 から 地 の 果て に 至る まで 臣民 を 持つ こと に なり ます」。 エホバ 神 は,この 力強い「平和 の 君」を 用い て, に ある 次 の よう な 約束 を 果たさ れ ます。 「あなた方 は 来 て,エホバ の 働き を 見よ。 神 が 驚く べき 出来事 を 地 に 置か れ た の を。 神 は 地 の 果て に 至る まで 戦い を やめ させ て おら れる。 神 は 弓 を 折り,槍 を 断ち切り,もろもろ の 車 を 火 で 焼か れる」。 この 聖書 預言 の 成就 の 先触れ と し て,エホバ の 証人 は 聖書 教育 活動 を 行ない,イエス と 同じ よう に 人々 に 平和 な 生き方 を 教え て い ます。 に 記さ れ て いる 次 の よう な 聖書 預言 を 成就 する の は,人間 で は なく,神 です。 「彼ら は その 剣 を すき の 刃 に,その 槍 を 刈り込み ばさみ に 打ち変え なけれ ば なら なく なる。 国民 は 国民 に 向かっ て 剣 を 上げ ず,彼ら は もはや 戦い を 学ば ない」。 一方,今 の 世界 と その 支配 者 たち は 軍事 費 に 年間 1兆 ㌦ も 費やし て い ます。 聖書 は,正確 な 歴史 と 預言 を 記録 し て いる と いう 点 で,他 に 類 の ない 本 です。 真理 を 誠実 に 探し求める 人 たち に とっ て,まさに 信頼 の 置ける 本 な の です。 この 連載 の 次 の 記事 で は,聖書 の 歴史 に 登場 する 3 番 目 の 大 帝国 の 首都,古代 バビロン を 取り上げ ます。

次の

アッシリア帝国ってすごく残酷でしたよね。

アッシリア 王国

アッシリア帝国の最大領土(前7世紀) メソポタミアの北部に起こったは、前3千年紀には王朝、などに支配されていた。 この時期のアッシリアは古アッシリアといい、帝国期のアッシリアと区別する必要がある。 おそらく小アジアのから鉄器の製造技術を学び、前9世紀にはごろ、鉄製のと騎兵隊を採用して、次第に強大となってきた。 弱小民族からオリエントの覇者へ 前8世紀の中ごろ、 ティグラトピラセル3世(在位前745~727)は国境の拡大につとめ、服従した国は属国として支配し、抵抗した国は滅ぼして属州とする「帝国主義的」な政策に転換した。 彼はさらに軍制改革をこない、などの武具を改良し、強大な軍事力を有してシリア・パレスチナ方面に遠征し、にはダマスクスを占領してを征服し、さらに東方ではにはバビロンを征服し、メソポタミアを統一し、アッシリア王とバビロニア王を兼ねてた。 アッシリアは、にはを滅ぼし、はアッシリアに朝貢する属国となった。 ティグラトピレセル3世の軍制改革 引用 ティグラトピレセル3世はアッシリアの軍制を大改革して、それまでの主として自由農民や奴隷によって編成さていた軍隊を属州や属国から徴募され訓練された職業軍人による常備軍に替え、従来の二人乗りで6本幅の車輪の戦車に替えて大型の8本軸の車輪を持つ三人乗り戦車を採用した。 また歩兵の武具や攻城具をも改良し、これによってアッシリアは強大な軍事力を獲得した。 <山我哲雄『聖書時代史・旧約編』2003 岩波現代新書 p. 137> アッシリアのオリエント統一 前8世紀末の サルゴン2世は支配地の諸民族を都に移住させるなど、メソポタミア全域に対する支配を強めた。 さらにに、がエジプトを含む全を征服して最初のとなった。 前3000年紀の都市国家段階の古アッシリアと区別して、前1000年紀のアッシリアを 新アッシリア帝国ということもある。 最盛期の都はであり、アッシュール=バニパル王の王宮が発掘され、厖大な楔形文字を記した粘土板が発見され、 世界最初の図書館として知られている。 駅伝制 アッシリア帝国は広大な領土をいくつかの州に分けて総督を置き、交通制度としてを整備して中央集権体制を維持しようとした。 ニネヴェの図書館は、各州から集まる情報を集積する、帝国の情報センターの役割を担っていた。 アッシリア帝国の滅亡 しかしその支配は、軍事力による過酷なものであったためか、被支配者の諸民族が反発し、それを抑えるため軍事力に力を注いだ結果、次第に国力を消耗した。 アッシュール=バニパル王の死後、バビロニアにはカルデア人(アラム系)が(カルデア)が台頭し、東部のイラン高原にはが自立、さらにエジプトにはエジプト人の第26王朝が復活した。 そして、新バビロニアとメディアの連合軍によって首都ニネヴェを占領されてアッシリア帝国は滅亡した。 アッシリア帝国滅亡後、オリエントは(カルデア王国、メソポタミア地方)、(イラン高原)、(第26王朝など)およびこの(小アジア)の4国分立時代となる。

次の

10分でわかる世界史Bの流れ!オリエント世界(4)~オリエント世界の統一~

アッシリア 王国

ヒッタイト・ヒッタイト人とは? ヒッタイト(Hittites)とは、アナトリア (アジア大陸最西部で西アジアの一部で、現在のトルコのアジア部分を成す地域)のハットゥシャ(Hattusa)を中心にして、紀元前15世紀辺りに帝国(王国)を築いた人々またはその帝国のこと。 ヒッタイト人は インド・ヨーロッパ語族としては最古のグループの一つで、同じ土地と言語を共有する部族の集団として一体となって発展し、一つの優れた帝国を築いていくことになりました。 つまり、 ヒッタイト人は人類史上で初めて鉄を材料とした道具を開発した人々であり、他の民族や国が青銅器しか作れなかった当時、高度な製鉄技術 (具体的には鉄鉱石から鉄を取り出す技術と鉄を加工して使う技術)を持つヒッタイト人は、 メソポタミアや周辺地域を圧倒的な力で支配することに成功した人々だったのです。 ちなみに、製鉄技術は当初ヒッタイト帝国内で独占的に守られていましたが、ヒッタイト帝国が力を失って滅亡していく過程で他の地域へも普及し、世界中で鉄器が作られるようになっていったと考えられています。 ヒッタイト文明の特徴 鉄や戦車によって高い軍事力を誇ったヒッタイト ヒッタイト文明の特徴の一つとして挙げておくべきなのが、鉄を開発したことで手に入れた圧倒的な軍事力。 ヒッタイト人は紀元前1500年頃から、鉄を用いた新たな技術を開発していたのは上述した通り。 それまで、人類が使っていた兵器は一般的に、青銅 (銅とスズの合金)から作られていました。 ( ヒッタイト人が開発した戦車「チャリオット」: 出典:) そのため、ヒッタイト人達が独自に製鉄する技術を開発したことは、ヒッタイトの軍事力を飛躍的に高め、それが、多くの戦いにおける勝利につながったのです。 またヒッタイト人が戦争で成功を収めたもう一つの理由、古代の戦車または「チャリオット」と呼ばれる戦闘用馬車の開発と使用も忘れてはなりません。 2頭の馬の力によって動かされることで、スピードもありながら小道や脇道を進むことも出来る戦車で、チャリオットを持たない他の国の軍に対して圧倒的に優位な状況を作り出せたのです。 楔形(くさびがた)文字を使っていたらしい またヒッタイト文明では、記録を残すためにくさび形文字を使っていたと考えられています。 くさび形文字とは紀元前3500年頃から起こったにおいて使われていた古代の筆記方法で、尖らせた筆 (アシを尖らせた物)で、粘土版の上に 楔のような形の文字を掘るようにして記録します。 ヒッタイト人達は、シリアからくさび形文字で文書を書ける筆記者を呼び、当時のヒッタイト人達に読み書きを教えるように指示していたようなのです。 その結果、現存するくさび形文字が刻まれた粘土版は、ヒッタイトの歴史研究を進めて行く上で最も優れた記録の一つであると考えられています。 ヒッタイトの歴史 ヒッタイトの歴史は紀元前1700年頃から紀元前1500年頃までの「 古王国時代」、そして紀元前1400年頃から紀元前1180年頃までの「 新王国時代」と大きく2つの時代に分けられます。 紀元前1500年頃から紀元前1400年頃までを「 中王国時代」とする説もありますが、この時代に関する記録はほとんど残っておらず、良く分かっていません。 ヒッタイト古王国時代(紀元前1700頃〜紀元前1500頃) ヒッタイト古王国は、ラバルナ1世と呼ばれた王によって、クズルウルマク川 (トルコを流れる川)の周辺に建国されました。 当時は幾つかの異なる部族が同地域に居住していたため、この時代の王達の目的は主に、 異なる部族からなるヒッタイトの人々を一つの帝国に治めて支配下におくことでした。 紀元前1595年頃には、当時の王「ムルシリ1世」の指揮の下、ヒッタイト軍はアナトリアからバビロンまで侵攻し、 当時メソポタミア全地域を支配していたバビロン第一王朝を滅ぼし、その帝国領土を大きく拡げることに成功します。 そして、紀元前1500年頃、当時の王であったテリピヌが死ぬことで、ヒッタイト古王国は一旦終わりを迎えます。 ちなみに、ヒッタイトの初代王「ラバルナ1世」の「ラバルナ」はその後、ヒッタイトの君主を指す称号として定着したため、ヒッタイトの歴代王達はラバルナと呼ばれていました。 ヒッタイト中王国(紀元前1500頃〜紀元前1400年頃) ヒッタイトの歴史において、紀元前1500年から1400年は中王国と呼ばれていますが、紀元前1500年まで続いたテリピヌによる治世後の この時代に関する記録は、現在までほとんど見つかっていません。 古王国と新王国は連続しないとする説がある一方、別な見解では 古王国と新王国は連続するとされるため、共通したまとまった見解がなく、それが基本的にはヒッタイトを二つの時代に区分し、そこへ中王国を追加する形を取ることが多い理由です。 しかし、この時代の重要な出来事として、エジプトと同盟が結ばれたと考えられています。 但し、エジプトがヒッタイトの新たな敵となった「ミタンニ(Mitanni)」とも同盟を結んだことにより、同盟関係は早々に行き詰まることとなってしまいましたが・・・。 ちなみに、「 なぜ記録がわずかしか無いのか?」という疑問に対する答えの一つとして、• 「この時代ヒッタイト人は他の民族集団や王国から攻撃の標的となっていたのではないか?」 というものがありますが、その真相は謎に包まれたままです。 ヒッタイト新王国(紀元前1400年頃から紀元前1180年頃) 紀元前1400年頃から始まった新王国の時代は「 ヒッタイトの帝国時代」とも呼ばれ、「シュッピルリウマ1世 (紀元前1344〜紀元前1322)」とその息子「ムルシリ2世 ( 紀元前1322年〜紀元前1295年)の治世は、ヒッタイト帝国が最盛期を迎えた時代でした。 特に、新王国時代におけるヒッタイト文明の発展、そして強大な軍事力の維持に必要な鉄などの資源確保は、交易路にかかっていたため、 帝国の領土を広げて交易を安定させることは当時のヒッタイトには重要なことだったのではないでしょうか。 また、この時代になってから 王位が親から子へと代々継承されるようになり、君主は王国の大祭司とされ、国民にとっては神のような存在となったのです。 一方で、ヒッタイト帝国と共に、 アッシリアやミタンニなどの王国も力を強めていきました。 そんな中、紀元前1285年頃にはシリアのカデシュにおいて、ラムセス2世 (エジプト新王国第19王朝のファラオ)が率いるエジプト軍と戦って撃退し、同時に世界最古の講和条約 (戦争状態を集結させるための条約)を結びます。 しかし、この カデシュの戦いを境にした頃から、ヒッタイト帝国の勢力は徐々に弱まっていき、対して他の王国(主にアッシリア)は台頭していくことになります。 この結果、ヒッタイトは国を維持するだけの力を失い、ついには紀元前1180年頃に崩壊したとされます。 この過程で、ヒッタイトは独自の文化を守っていくことも困難となり、ヒッタイト人が各地に拡散していく中で、製鉄技術も世界中に広まっていったのです。 ヒッタイトに関して知っておきたい5つのポイント ヒッタイト人やヒッタイト文明に関して、歴史も含めた基本的なことを紹介してきましたが、ここからはヒッタイトをより知るためにも、5つのポイントを見ていきましょう。 本当は負けたのにカデシュの戦いに勝利したとするエジプト 上でも述べた通り、ラムセス2世のエジプトとカデシュで戦ったヒッタイトは見事勝利し、この地域からエジプト軍を追い払うことに成功したわけですが、この件に関して、ラムセス2世側は全く事実と異なることを吹聴していたんだとか。 (ラムセス2世) 面白いことに、なんとエジプト人はこの戦いを エジプト軍の総合的な勝利としたらしく、しかも記念碑まで建てて祝福したそう。 現在は、歴史的な調査によってカデシュの戦いはヒッタイトが勝利したと判明していますが、歴史の描写は何とも信頼できないものであることが分かりますね。 (当時のヒッタイトとエジプトの領土:ピンクはヒッタイトで青はエジプト) ちなみに、カデシュはシリアに位置するため、エジプトから一見すると遠く、この地までエジプト軍が遠征してきたように思うかもしれまえんが、当時のエジプトはカデシュにまでその領土を広げていたため、ヒッタイトとエジプトはほぼ隣接していると言って良い国だったんです。 ヒッタイト人の起源は謎に包まれている 初期のヒッタイト人、そしてその起源については、未だに全くと言っていいほど分かっていません。 一方で、ヒッタイト人の文明には、ヒッタイト人の前にこの地域にいたハッティ人やフルリ人との共通点が見つかっています。 その結果、 ヒッタイト人は現在のウクライナがある地域からアナトリアへ到達し、その後、アナトリア半島に元々存在していた フルリ人とハッティ人と同化していったのではないかと考える向きもあります。 また、ヒッタイト人は旧約聖書にヘテ人として現れ、その中では古代イスラエル人と彼らの神の敵として描かれたり、ノアの子孫であるとも言われます。 ヒッタイト文化ではライオンはとても重要な存在だった ライオンはヒッタイト人の文化の中で、とても重要な存在であったのかもしれません。 と言うのも、ヒッタイトの遺跡の至る所から、 大きなネコ科の描写が発見されており、そのネコ科の動物はおそらくライオンだと考えられるから。 また、ライオンの身体にワシの羽を持ち、人間の頭と胴体が合わさった「 ヒッタイト版のスフィンクス」も存在していたようなのです。 他の地域の影響が見られるヒッタイト人の信仰 ヒッタイト人の神々に関して、しばしば 獣を背にして立つ様子や、動物の格好をしている描写が見られます。 例えば、ヒッタイトの神「Tarhunt」は雷神であり、スカンジナビアの神トールとよく似ています。 そして、このヒッタイトの雷神はイルルヤンカシュという蛇または竜と争ったとされており、 インド神話におけるヴェーダの神インドラと蛇のヴリトラとの戦いに酷似しています。 このことから、 ヒッタイトの神話はインド神話や古代スカンジナビアの信仰の影響を受けていたのではないかと考えられます。 加えて、ヒッタイトの宗教では1000もの神々が存在し、それぞれ特定の目的を持っていたとされ、例えば、農業、戦争、守護、豊穣、天気などを司る神が存在したらしいです。 また、ヒッタイト人は石に神々を彫り、その石は神聖なるものとして崇拝されていたと言われます。 トルコの元大統領アタテュルクはヒッタイトのファンだった!? ヒッタイト人時代に作成されたくさび文字が記された粘土板が、トルコ北中央部に位置するボアズキョイおよびその周辺で何点か発見されています。 そして、そのうちの多くはアンカラのアナトリア文明博物館に展示されていますが、このことを指揮したのはトルコの初代大統領 ムスタファ・ケマル・アタテュルクだそう。 アタテュルクは、オスマン帝国時代には将軍を務め、その後トルコ共和国を樹立するために起きたトルコ独立戦争やトルコ革命を指揮し、現在のトルコ共和国が出来てからは元帥と大統領として活躍した、 トルコにとっては生みの親とも言える偉大な人物。 そんなアタテュルクは、 長年トルコにヒッタイトに関する博物館を作ることを希望していたらしく、アナトリア文明博物館はアタテュルクの音頭によって建設され、そこへヒッタイト文明の遺産も展示されることになったそうなんです。 アタテュルクはトルコ建国だけでなく、 亡くなった後でもヒッタイト文明の解明に貢献し続けているってことですね。 合わせて読みたい世界雑学記事• 未だに多くの謎が残りますが、その功績からして、間違いなく人類が誇れる古代文明の一つだと言えそうです。

次の