相撲 打っ棄り。 うっちゃりとは

打っ棄り

相撲 打っ棄り

双葉山定次(1940年頃) 基礎情報 四股名 双葉山 定次 本名 龝吉 定次 愛称 不世出の横綱・相撲の神様 昭和の角聖・立浪三羽烏・無敵 ・打っ棄り双葉 協会の知恵袋 生年月日 没年月日 1968-12-16 (56歳没) 出身 ・布津部 身長 180cm 体重 135kg BMI 41. 来歴 [ ] 定次少年の角界入り [ ] に大分県宇佐郡天津村布津部(現:大分県宇佐市下庄)で生まれる。 5歳の時にが自身の右目に直撃して負傷し、これが元で右目が半失明状態になった ただ一人父親は吹き矢を誰が吹いたか知っていたが、定次が傷つかないように、また吹き矢を吹いた者を恨むことが定次にとってマイナスになるかもしれないため、相手の名前を言わなかった、と長のは分析している。 少年時代は成績優秀で普通に進学を目指していたが、父親が営むが失敗して5000円(現在の2億5000万円に相当する)の借金を負い 、兄と妹と母親も早くに亡くしている事情から、次男坊でありながらも一家の家計を支えるべく父の手伝いをしながらたくましく育つ。 研究家の芝清之が作成した『双葉山物語』では、この海運業の手伝いをしているときにの巻上げ作業で右手のに重傷を負ったとしている。 定次が14歳の頃、父と乗っていた船が大波を受けて転覆、龝吉父子は海に投げ出されたが、たまたま近くを通っていた船に助けられて九死に一生を得た。 その後定次は別の業者に雇われることになった。 定次は相撲の方はそれほど気持ちを入れていたわけではなかったが、初めて出場した相撲大会で畳屋の男と取組むことになった。 だが、定次は相撲を取ったことがなかったため相手に食いつかれてしまい動けなくなった。 見物人から「押せ、押せ」の声が聞こえたため、定次は相手を上から押さえつけて倒した。 しかし、相手はしばらく起き上がれなかったという。 逆にこのことが地元の新聞に載り、この記事を見た長の(のちに専務理事となる)の世話でに入門する。 1927年3月場所に。 の双葉山は「は双葉より芳し」から命名し、入門時に世話になった双川部長の一字も含まれる。 双川は大分県に赴任する前、の出身地の富山県で学務部長を務めていた。 そのような関係から立浪とは昵懇の間柄で、かねてから全国を転勤して回る双川に新弟子を見つけたら入門の世話をするように頼みこんでいた。 そのことから、立浪が弟子勧誘の網を全国に張り巡らせていたことが窺える。 双葉山の苦労時代 [ ] 出身地である宇佐市で双葉山を研究している市民グループ「豊の国宇佐市塾」の平田崇英塾長が語るところによると、新弟子時代の双葉山は同期入門のと午前6時から開始される朝稽古に競って早起きし、とうとう午前4時から稽古を始めたことで「早すぎて眠れない」とから苦情が来たという。 こうした稽古熱心さから、当時は兄弟子が双葉山に対してを加えることも日常茶飯事だったとされており、を盛ったを持って200回の屈伸を行った後、兄弟子のぶつかり稽古の格好の標的となるといった猛稽古を課されることも珍しくなかったという。 それでも入門前に海運業に従事して精神と肉体を鍛えていたこともあって、こうした苦行を力に変えていった。 下積み時代の双葉山の指導係だった(当時「高浪」)に言わせると「相撲っぷりは平凡だった。 ただ、稽古熱心で、どんなにたたきつけられても、決して弱音を吐いたことがなかった」とのことであり、その高浪も「でも、まさかあんな大横綱になるとは」とその出世ぶりに驚いている。 以前は目立った力士ではなかったが、成績は4勝2敗(当時以下は1場所6番)が多く大きく勝ち越すことがない一方でもなく(3勝3敗は何度かあった)、年寄春日野(元横綱)や から「誰とやってもちょっとだけ強い」と評されたという。 5月場所には19歳3ヶ月で新に昇進(西5枚目)、この場所で3勝8敗と初めて負け越した。 1月場所は東十両6枚目で迎えるはずだったが、場所前にが発生した。 ら脱退力士の主張には共感するものもあり、その勧誘には大いに迷ったが、部屋の女将の「(脱退力士らは)主張はいいのだが本当に変えたいことがあるなら内部にいてやるべき」との言葉に残留を決意。 再編された2月場所の番付で西4枚目と繰り上げ入幕となる。 入幕後しばらくは、相撲が正攻法すぎて上位を脅かすまでには至らなかった。 ただ足腰は非常に強い(船に乗っているうちに自然と鍛えられたらしい)ため、攻め込まれても簡単にはを割らずに土俵際で逆転することが多く「双葉」と皮肉られていた。 「相撲が雑で工夫がない」という批判も多かったが、若い頃から双葉山を可愛がっていただけは「双葉(山)の相撲はあれで良いのだ。 いまに力がつけば欠点が欠点でなくなる」と評価したという。 1月場所にはに昇進するが、4勝6敗1分と負け越して前頭筆頭に転落。 5月場所も4勝7敗と負け越し、この頃までは苦労の連続だった。 69連勝 [ ] 新横綱の頃の双葉山。 太刀持ち名寄岩、露払い羽黒山。 にの手術を機に体重が増え、それまでの相撲ぶりが一変した。 取り口そのものは正攻法で変わらなかったが、それまでは力不足で土俵際まで押し込まれることが多かったのに対し、から「後の先をとる」を地で行き相手より一瞬遅れて立つように見えながら先手を取り、右四つに組み止めた後に、寄り、または左からので相手を下すようになった。 なお、この年に「相撲には未練はございません」と言って相撲界を辞める決心をしてに行ったが、この時は後援者に諭されて戻った。 1月場所は初日の戦で敗れて黒星発進だったが、横綱から初を奪い、・(場所後横綱)の両も破るなど2日目から4連勝、6日目全勝の玉錦との対戦を迎える。 この玉錦戦は落として4勝2敗とするが(玉錦はそのまま全勝優勝)、7日目を下すと、これから双葉山の69連勝がスタートする。 双葉山はこの場所を5連勝で終えて9勝2敗 、翌場所の昇進を決めた。 新関脇で迎えた同年5月場所では、9日目に玉錦を初めて破って11戦全勝で初優勝、場所後に大関へ昇進した。 これ以降、双葉山は本場所で玉錦に負けることがなかった。 玉錦は前々場所(1935年5月場所)4日目から双葉山に敗れるまで27連勝しており 、その連勝の1勝目が他ならぬ双葉山だった。 玉錦の最後の優勝と双葉山の初優勝を跨いで二度以上優勝した力士はおらず、玉錦の現役死もあるが明確な覇者交代の一番として現在まで語り継がれている。 1月場所を11戦全勝。 この場所では玉錦は初日から6連勝しながら左骨折のために途中休場しており、双葉山の5連覇中唯一玉錦戦のなかった場所となっている。 先場所初白星をあげたとはいえまだ地力では玉錦が上をいっており、玉錦にすればこの時が双葉を倒す最後のチャンスだったのではないかという見方もある。 同年5月場所を13戦全勝で連続での全勝優勝を果たし、横綱に推挙される。 玉錦、武蔵山、男女ノ川とともに5月場所(、、、栃木山)以来の史上3例目の4横綱となり、ということで初めての4横綱総当たりもあると話題を呼んだが、武蔵山が休場がちだったことや玉錦の現役死もあって、1938年5月場所で一度実現しただけで終わってしまった。 新横綱で迎えた1月場所、9日目の両國戦では、両國をたかに見えたが、控えの玉錦と男女ノ川からありとが付いた。 は両者に経過を説明したが玉錦があくまで双葉の負けを主張して納得せず、揉めに揉めた。 後年、双葉の大連勝が48で止まっていたかもしれない大物言いとして語り継がれることになる。 これには双葉人気への両横綱のひがみからの物言いではないかという声も当時あったが、両國は明らかに体勢を崩してだったものの、双葉山も大きく右足を踏み越してしまっており、さほど無理のある物言いでもなかった。 結果、取直しとなり双葉山が吊り出しで勝利し49連勝、この場所でも13戦全勝で優勝した。 続く5月場所も千秋楽、玉錦戦とのの大相撲を制して13戦全勝、5場所連続全勝優勝を果たす。 この記録を受けて協会から"古今に例がない"と表彰されたが、本人は「これからまだやるんですから、そんなことをしないでください」と言ったという。 この時点で66連勝、の63連勝を、約150年ぶりに塗り替えている。 谷風の記録は・・を挟み純然たる連勝記録ではなかったが(また力士を相手にを行い5人抜きを果たして1勝に代えられた星が二つ含まれる)、逆に双葉山がの力士であれば両國との物言い相撲や玉錦との水入りはそれぞれ預と分にされていた可能性もあり、いずれにしても単純比較は難しい。 当時の相撲ファン達の間では、双葉山の連勝がどこまで続くかという話題で大いに盛り上がっていた一方、誰が双葉山の連勝を止めるかという点にもファン達の注目が集まるようになり、「 双葉よ負けるな双葉を倒せ」という相する流行語が生まれた。 この当時、武蔵山は休場続きで、男女ノ川は好不調の波が大きく、衰えたとはいえ前の第一人者である玉錦がやはり双葉山の連勝を止める有力候補とも目されたが、その玉錦が現役のまま病死すると、もはや双葉山の連勝を止める力士はいないと思われ、100連勝まで予想する声も出始めた。 70連勝ならずの一番 [ ] 、双葉山の敗北を伝える紙面。 1月場所、前年の・の巡業でに感染して体重が激減 、体調も最悪だったので、双葉山は当初休場を考えていた。 しかし、長の玉錦が前年にを悪化させて現役死した(双葉山が2代会長に就任)のと、武蔵山も休場し、不振続きで前場所負け越した男女ノ川しか横綱がいなくなるため、責任感の強い双葉山は強行出場した。 双葉山は調子が悪いながらも初日から3日目まで連勝を重ね、70連勝を賭けて1月場所4日目()を迎える。 この場所で初日から4日目までの実況中継を担当したは、「不世出の名力士・双葉、今日(15日)まで69連勝。 果たして70連勝なるか? 70は、古来稀なり! 」とのアナウンスで放送を開始した。 対戦相手は前頭4枚目の。 この取組前まで、双葉山が連勝記録を更新し続ける中で、一門では「打倒双葉」を合言葉に、を作戦本部長として毎日、双葉山に対する戦略・戦術を練った。 笠置山は当時としては珍しい大学()出身の関取で、自身が記した「横綱双葉山論」では、双葉山の右目が前述の吹き矢によって半失明状態であることを知っていたことから、対策の結論として「双葉山の右足を狙え」とした。 この右足対策を十分に身に付けたまま、安藝ノ海は本番を迎えた。 安藝ノ海は立合いから双葉山を寄せ付けようとしなかったが、双葉山は右手で安藝ノ海の左ひじを跳ね上げて右四つに組んだ。 安藝ノ海は左に回り込み双葉山の右に食い下がり、双葉山の右に対して左を掛けた。 両者の身体が大きく傾いたが一度堪えた後、双葉山が安藝ノ海の身体を担ぎあげるようにして外掛けを外し、再度右から掬い投げにいったので、安藝ノ海の身体は右側に傾きながら双葉山と共に倒れた。 双葉山の身体が先に土俵に付いていたため、 双葉山の連勝は69で止まり、安藝ノ海は金星を挙げた。 実況を担当していた和田は、当然4日目に連勝が途切れるなどとは予想しておらず、双葉山が倒れた時に、控えにいたに対して「負けましたね!? 確かに負けましたね!? 」と確認してから「 双葉敗れる! 」と叫んだ。 しかし、万一双葉山が敗れた場合に備えて用意していた言葉は霧散し、ただに向かって何度も「双葉山敗れる! 」を繰り返したと自著に記している。 この相撲を見ていた役者の(当時6歳)の証言によると、館内はだけでなく、酒瓶、暖房用のや煙草盆などが投げられ、興奮の坩堝と化した。 は、2000年に放送されたの特別番組にゲスト出演した際に「の仕事で直接見られなかったが、が押し寄せてくるような地鳴りのような轟音がした。 すると、(20代)も(17代、のち21代庄之助)もみんな口を利かない、厳しい表情で戻ってきた。 それで、『あ、双葉(山)関が負けたんだ』と思った」と回想している。 この69連勝は現在まで最多 である。 双葉山が三役に上がった頃、一場所の取組日数は11日だったが、双葉山人気が凄まじく、1月場所でも徹夜で入場券を求めるファンが急増したため、日数が13日となり(1937年5月場所から)、さらに現在と同じ15日(1939年5月場所から)となった。 安藝ノ海戦の取組後 [ ] 双葉山は約3年ぶりとなる黒星を喫し、連勝を69で止められたにも関わらず、悔しさや絶望感などを表情に見せることなく普段通り一礼し、東のを引き揚げて行った。 同じ東方の支度部屋を使っており、この後の結びの一番のために土俵下で控えていた男女ノ川は、取組後に「あの男(双葉山)は勝っても負けても全く変わらないな」と語っているが、支度部屋では「あー、クソッ! 」と叫んだと新聞記事に書かれている。 双葉山は、その日の夜に師と仰ぐに対して「イマダモッケイタリエズ(未だたりえず)」と打電した。 これには双葉山の言葉を友人が取り次いだものという説もある。 その日、双葉山は以前から約束していた大分県人会主催の激励会に出席しており、後者の説を採るなら、同会で発せられた言葉であったことになる。 70連勝を阻止された当日の夜だったことで、急遽敗戦を慰める会の雰囲気になったが、いつもと変わらない態度で現れた双葉山に列席者は感銘を受けたという。 なお、双葉山自身は著書の中で、友人に宛てて打電したもので、友人が共通の師である安岡に取り次いだものと見える、と述べている。 一方、安藝ノ海は、土俵下でこの取組を見ていた後のによれば「勝ち名乗りを受けるための蹲踞をためらっているように見え、心ここにあらずという表情だった」という。 この後安藝ノ海は次の一番で取るにを付け、勝ち残りで控えに座り、結びの一番が終わって支度部屋に引き上げた(現在ならインタビュールームでアナウンサーから殊勲インタビューを受け、支度部屋では大勢の記者に囲まれる)。 取組を終えた安藝ノ海は出羽海部屋に帰ろうとしたが、国技館を出た瞬間から双葉山に勝った彼を見ようとした多くの群衆に取り囲まれもみくしゃにされた。 そのため部屋へほんの数分で帰れる時間を1時間以上もかかってしまい、部屋へ着いた安藝ノ海の着物はボロボロになった。 部屋へ戻ってから師匠のに報告した際、出羽海は「勝って褒められる力士になるより、負けて騒がれる力士になれ」と諭したという。 これには、安藝ノ海の入門を世話した藤島(この時はで入院中)の言葉だとの説もある。 当時部屋の豆行司だった28代庄之助は、出羽海のをしながらこの時の言葉を聞いたと証言しており、後者の藤島発言説を否定している。 しかし、翌5日目に両國、6日目に鹿嶌洋と3連敗し、9日目には玉錦の跡を継いだに敗れて4敗を喫した(最終的には9勝4敗)。 その姿は小説家のに「まるで負けるのを楽しんでるみたい」と評され、当人は「動揺するまいと身構えたところに気付かぬ動揺があったのだろう」と語っている。 続く5月場所も、連勝が止まったショックから立ち直れないのではないかと危ぶまれたが、初めて15日制で行われた本場所で全勝で復活を遂げる。 12日目での優勝決定は15日制での最速記録でもある。 1936年1月場所の玉錦からこの場所の双葉山までは、8枚のが並ぶことになった(そのうち6枚が双葉山、残り2枚は玉錦との各1枚)。 1月場所も初日から連勝を続け、11日目に西前頭筆頭のにで敗れ30連勝を阻止されたが、この1敗だけの14勝1敗で連続優勝。 全勝でない優勝はこれが初めてだった。 5月場所では11日目までに4敗を喫した。 病気明けだった70連勝ならずの場所のような体調面での不安要素もない中での4敗であり、周囲も驚いたが当人の苦悩はそれ以上に深く、「信念の歯車が狂った」と言って突如を表明し、世間を騒がせた。 協会や周囲の必死の説得によって双葉山は引退を翻意し、途中休場扱いとされた間に、にある妙音の滝に27日間(24日間とも)を行い、1月場所で14勝1敗で8度目の優勝。 なおこの場所は、「の旋風」と呼ばれた場所で、1敗は13日目その前田山の張り手攻勢からの吊り出しに敗れたもの。 取組後に双葉山は「張り手も相撲の手のうち」と発言している。 このように求道者的態度で相撲道に励み、戦前を代表する大横綱の地位を守ったが、立浪との関係は必ずしも良好ではなかった。 大派閥である出羽海一門に激しい対抗心を燃やす師匠と、力士会会長としての立場との間で多くの葛藤があったとされている。 例えば、関取は師匠を初めとした一門の親方の縁者やの者を妻にするのが一般的 だった時代に、立浪から直接「お前に部屋を継承させたい」と自らの娘を紹介されても断って(その娘は弟弟子のと結婚)、前述のアメーバ赤痢で入院(大阪の高安病院)した際に知り合ったファンの一般女性と、結婚したことが挙げられる。 また、部屋を離れて自ら道場を開くなどもあった。 1941年5月場所はとの平幕2人に黒星を喫し、羽黒山(14勝1敗)に優勝を譲ったが(双葉山は13勝2敗)、この翌場所から5月場所までを4連覇。 5月場所千秋楽の安藝ノ海戦から、1月場所5日目まで36連勝を記録している(止めたのは同場所東前頭9枚目の)。 69連勝序盤の頃はまだ双葉山も体が出来上がっておらず、うっちゃりに頼る相撲も何番かは見受けられた。 しかしこの頃には右四つ寄り、の型の安定性は正に磐石であったという事から、むしろこの時代こそが双葉山の全盛期と見る向きも多い。 なお、15日制での2場所連続全勝優勝はこれが初めてで、のちにが7月場所で3場所連続を記録するまで最多記録だった(その後記録を4場所に伸ばした)。 現在では双葉山の四股名はになっている。 土俵問題と現役引退 [ ] 双葉山の断髪式。 羽黒山が鋏を入れている(1946年) 36連勝の止まった1944年1月場所では、その後11日目、12日目と、の若手2人に連敗を喫し、千秋楽にはに横綱同士で初めての黒星をつけられ、11勝4敗に終わる。 この場所は戦中最後の15日制での本場所になった。 つづく1944年5月場所は、軍部に国技館を接収されでの開催となったが、またも照國に敗れ9勝1敗、全勝の羽黒山に優勝をさらわれる。 の開戦と相前後して69連勝を達成し頭角をあらわした双葉山だったが、の戦局の悪化とともに優勝から遠ざかることになる。 は1943年時点で3連覇であった、1943年頃は土俵下まで落ちる相撲がかなり目立ち、同年11月場所2日目の支度部屋では記者からも衰えを指摘されるようなコメントを受けた。 やはり後楽園球場での開催となった11月場所 6日目、の頃から目をかけ、この場所は関脇となっていたに敗れたことで体力の限界を感じ、現役引退を決意した。 翌日は増位山にを与えて休場したが、相撲協会や関係者に慰留されてこの時は引退を撤回した。 両國国技館で行われた6月場所は、3月のによって穴が開いたために晴天日のみの興行(そのため7日間開催)かつ非公開となったが、初日に新鋭小結のを下し、その後を全休した。 この時は場所前から体調不良を理由に初日しか出場しない約束となっており、休場届を提出した後に2日目の割が組まれたことで不戦敗は付かず、成績は1勝6休で、結果的に相模川との取組が最後となった。 1945年11月場所で番付に名を残したものの引退。 結果的にその引退はでの敗戦と重なり、東冨士との対戦が結果として最後の黒星、相模川との取組が最終出場となった。 引退の動機のひとつとして、16尺の問題があったと言われている。 による占領政策で各種武道が制約を受ける中、相撲協会は相撲の娯楽色を強めることで生き残りをはかり、その一環としてそれまでの15尺土俵から16尺へ広げようとしていた。 双葉山はこれに反対意見を持ち、「元々は何もない野原で取っ組み合っていた相撲が、土俵という領域を与えられたことで技術を洗練させてきた。 土俵の拡大はその歴史を逆行させるものである」とする言を残している。 それでも相撲協会は土俵を4. 84m(16尺)とすることを正式決定し、11月場所から採用されたが、双葉山はこの場所の広くなった土俵には上がらず引退。 自ら引退を発表した時のニュース映画は現在も残っているが、その中で双葉山は「15尺土俵上で精進を重ねて参ったのでありまして」と、暗に土俵の拡大を批判したともとれる言葉を述べており 、1943年11月場所5日目の支度部屋でも「しかしまあ、大体学童には十三尺内外、一般には十五尺でもいい、というようなところじゃないかね」と記者に話していた。 1945年11月の1場所だけ採用された16尺土俵は結局、「終戦直後の食糧不足の中だというのに土俵が広すぎる」という現役力士の不評を買い、肝心の進駐軍将兵への集客効果も思ったほどではなかったため、すぐに元の15尺へ戻された。 引退後 [ ] 双葉山の手形 現役中からその実績を評価され、同様の形で現役力士のまま弟子の育成を許されたため、に立浪部屋から独立して「双葉山相撲道場」を開いた。 独立にはのがをそっくり譲った。 その後戦況の悪化により福岡県に「双葉山相撲錬成道場」を設立という名目で疎開。 一般人や青少年に無料開放し、専門的な指導員を置いて相撲を学ぶ場とするとともに、当時の報道には"屯田相撲"とも書かれていたようである。 将来的には双葉山ら力士達も居住して、相撲道の発展に尽くすことを目指したものであった。 この錬成道場の開設は、戦時色が強まっていた当時の"報国"の意図も含まれていた。 戦時中は太宰府を拠点に勤労奉仕隊を結成、で働くなど難局を乗り切ろうとした。 引退後に年寄・時津風を襲名して道場名をに改称する。 戦後の部屋再建においては、戦前の"小部屋時代"の苦労を分かち合ってきたからからの融資の受け方など資金のやり繰りの方法を指南してもらった。 錬成場の方は1948年にへ売却されて歴史を終えた。 先代の11代時津風を襲名していたのはだったが、小九紋竜は現役時代から悪評が高く、好きで借金を重ねて喧嘩を繰り返したり、平気で人を騙すなど不品行が目立ったほか、脱走して満州になった挙句、数年後に時津風継承問題が起こった際に平然と戻って来て、年寄時代にも脱走を起こすなどの勤務態度の悪さでも知られていた。 その前の代の10代時津風の唐錦豊治郎は、東京相撲引退後に侠客として大阪相撲に舞い戻り、取締(理事長格)にまでなったという、やはり"アウトサイダー的な"人物であった。 悪い名跡なら私が良くします」としてそのまま時津風を襲名した。 道場を創立した理由について双葉山は後に自著『相撲求道録』において「横綱として現役である内に、弟子の養成をしてみたい、自分がこの身に体得した限りのものを、それが自分の体に生きている間に、若いものに伝えておきたい、と考えるようになりました。 そこで、師匠(元小結緑嶋の4代立浪)の了解も得、協会にも特に認めてもらって双葉山相撲道場を作ったわけです」と語っている。 日米開戦直後の1941年12月24日には、によって揮毫された「力士規七則」が稽古場に掲げられた。 これは、が武士の心得を記した「士規七則」に倣って作られたものであり、「一同は毎朝これを朗読して、それからいかにも清々しい気分で稽古にとりかかったものです。 それは言わずかたらずのうちに、わたくしどもの心構えにふかく影響するところがあったと信じます」と、双葉山は『相撲求道録』に綴っている。 1943年5月場所中、双葉山は「この道場は、今までの相撲部屋とは全く違う。 ワシは親方として、師匠として、皆を立派な力士に育て上げたい。 どんな職場でも、すべて国家のお役に立たねばならない。 一人でも多く、正しい"本当の力士"を、皆と一緒になって生み出し、これこそ"真の国技"だということを、まず力士同士で示したい。 そして土俵を通じて、お国に恥じないご奉仕をしたい。 『双葉山部屋』と言わず、『道場』と名乗った目的も、ここにあるのだ」と同乗の師匠としての思いを語っている。 からGHQに接収されて「」と名を変えた国技館で行われた本場所は不入りだったが、千秋楽の翌日に双葉山のが行われると、この日だけは超満員だった。 GHQによるメモリアルホールの使用許可は千秋楽までだったが、相撲協会が特に懇願して一日の延長を求めたものだった。 現在のように引退相撲とを同時に行った最初の例であるとされ、結果的に旧両国国技館の土俵で断髪式を行った唯一の力士となっている。 、、らがハサミを入れた。 現在では断髪式の時に力士は土俵上に用意したに座るが、双葉山断髪式の写真を見ると土俵上でしていることが判る。 璽光尊事件 [ ] 璽光尊事件で石川県警の進入を阻止する双葉山(中央) 現役引退から1年が経過した、にあった「」に対して、が違反の容疑 で取り締まりを行った。 双葉山は現役時代に蓄膿症の手術を受けた頃から熱心なの信者だったが、この時はなぜか璽宇に帰依していた。 その理由は「日本の敗戦による虚脱感、または部屋と相撲協会の指導者の立場で悩んでいた」「璽宇の関係者だったに誘われた」「教祖の(長岡良子)の奸計にはまった」など諸説あるが、いずれにせよ双葉山の悩みと求道的な性格に付け込んで、言葉巧みに璽宇関係者が双葉山にを行って利用したものと言われている。 双葉山は金沢市で警察関係者の進入を阻止したことで、璽光尊と共にされた。 これをという。 逮捕された双葉山は、若き日の友人である記者の藤井恒雄によって説得されて我を取り戻すと、璽光尊に双葉山奪回を命じられて訪ねてきた呉清源の言葉は一切無視し、璽光尊を離脱した。 大捕物だったにも関わらず璽光尊事件自体は双葉山も含めて厳罰にならなかった が、これは双葉山や呉清源を、を広め信者や物資を集めようとする「」から救出する意図があったからとも言われている。 当時の新聞は双葉山の得意が右四つだったのにかけて、事件を「悲劇の左四つ」の見出しで報じたという。 双葉山は後、自身の道場に戻る。 日本相撲協会理事長として [ ] 璽光尊事件での不祥事を起こした双葉山だったが、現役時代の実績に加え、引退後も国民的人気が高いままだったこともあって、10月に異例となる相撲協会理事への就任が決まった。 さらに、2月から相撲協会取締を3期に渡って務める。 1月からの理事長代理を経て、5月には出羽海理事長の自殺未遂事件を受けて、出羽海の理事長退任・相談役就任と同時に日本相撲協会理事長へ就任した。 相撲人気の回復とともに、その守旧的な体質への批判がで取り上げられるほど高まっていた時期に理事長を務めることになり、• 相撲協会構成員(年寄、など)の65歳定年制の実施• 部屋別総当り制の実施• の再編と法人化 などの改革に尽力した。 協会内ではと、後に理事長へ就任するを腹心として重用し、外部有識者としては若き時代からの盟友である玉ノ海の意見によく耳を傾けた。 年寄・時津風としてはを横綱に育て上げ、・・を大関に育てるなど、自身も経験してきた猛稽古によって多くの名力士を育成した。 1958年には関取が最高で12人を数え、これは出身部屋の立浪部屋やニ所ノ関部屋の10人を上回り、、の15人に続いた。 の話では、現役引退からかなり経過したにも、自ら廻しを締めて弟子に稽古をつけていたという。 弟子の豊山は停年退職後のインタビューで「現役の頃、部屋付きの親方衆が『押せ』『投げろ』と力士に対してげきを飛ばしているところに、師匠の双葉山関が姿を見せると『静かにせい』と一喝していた」 と指導について証言しており「師匠から具体的に『ああせい、こうせい』と言われたことはない。 親方がそこにいるのが教えだった。 私の成績が悪い時には、師匠自らまわしを締めることもあった。 得意の右四つ左上手に組んでくれてね。 肌で伝えてやろうということだったのだろう。 『もっと真剣に気合を入れろ』と」 と振り返っている。 に行われた日本相撲協会の財団法人化35周年記念式典の際、相撲協会理事長として挨拶状を読み上げることになった。 しかし、当日になって挨拶状を渡す役だった秀ノ山が挨拶状を忘れてしまい、慌てて取りに戻っている間、時津風は土俵上で直立不動で待ち続け、当初は失笑が洩れていた館内はやがて静まり、挨拶状を受け取る頃には拍手の渦となった。 には相撲界で初めてを受章した。 晩年 [ ] 相撲協会理事長としての長期にわたる活躍を期待され、なかにはを期待した者もいたが、晩年はによって体調を崩す日々が続き、入退院を繰り返した。 11月場所では優勝した(45連勝中の最中)に賜杯を授与したが、その直後の同年に、あたかもを模したかの様な白の姿でへ再入院し、同年にのため、死去。 56歳没。 で日本相撲協会葬が執り行われた。 は「霊山院殿法篤日定大居士」。 没後、を追贈された。 時津風の没後に開かれた座談会では男女ノ川が「理事長、思いがけなかったねえ。 ぼくより10歳も若いのに…(中略)ぼく自身は55か56で逝っちゃうだろうと予想していたんだが」とコメントを残している。 没後、時津風部屋は元横綱鏡里のが継承(13代時津風)したが、のちに夫人から「部屋は豊山に継がせたい」という生前の言葉が明かされた。 正式の遺言状はなくその証言に疑義も呈されたが、結局鏡里が身を引く形で元豊山のが14代時津風を襲名した。 人物 [ ] 双葉山の怪力〜豪快な上手投げ [ ] 右手と右目にハンデがあったためもあるが、左上手投げの強さは常識を超えており、上手は通常なら深く取るにも関わらず、対戦相手を軽々と放り投げた。 引退から5年経って参加したにおいても、を豪快な上手投げで破った。 全盛期の形は右四つから左上手を取るという完成された形だった。 が随筆に記しているところでは、双葉山の場合は左上手からの引きつけが凄まじく強烈なため、相手は利き手である右下手の力をその上から被さる左上手に完全に殺され、何も出来ない状態のまま強烈な上手投げを食らったという。 でを専攻した経験と、理論に関する著書を多数出版しているの三段目力士だったは、「(双葉山は)腕力を使って相手を投げるのではなく、で相手を押さえて投げる。 自分の身体をとして使うから、上手が深いほど相手は浮き上がる。 物理学的に考えると納得いく 」と、その特殊な技術を分析している。 横綱審議委員長を務めたことのある舟橋聖一は双葉山の追悼特集で「何と云っても彼の特色は、立上がると同時に、左の上手をしっかり取って引きつけ、ほとんど同時に右を差すか、その手をブランとさせる『外四つ』の体型で、これが彼独特のテクニックであった(中略)『よし』と見るや、左から上手投げをうちながら、今まで自由にしていた右の差し手を相手の前褌近い部分に持っていくなり、同時に右下手捻りを複合させるのである。 相手はほとんど残せなかった。 この投げは、遠くへは飛ばず、双葉の足の下へくずれるように倒れるのが特徴である」と、その取り口を評していた。 同時に「彼は必ずしも膂力に秀でてはいなかった。 腕相撲をやれば、同じ部屋の羽黒山にも名寄岩にも負けた。 しかし、土俵へ上がると彼の力は十倍にも二十倍にも活性を加えて作用した」とも書き残している。 双葉山は立合いに相手を良く見るが、攻撃はほとんど相手に先行する。 武道のやり方としては「後の先」と言われる作法で、現役時代に「うっちゃり双葉」と呼ばれていた頃も右四つからの上手投げなどの正攻法の相撲を仕掛けていたが、当時は通用せずに結果的にそのようになってしまった。 稽古場での強さも群を抜いており、大関以下を相次いで相手にして相当の番数をこなしても、息が上がることがほとんど無かったという。 模範とする土俵態度 [ ] どんな相手に対しても同じような態度で臨んだ。 力水は一回しかつけず、自ら待ったをかけることはなく、相手力士がかけ声を発すれば制限時間前であっても、一回の仕切りでさえ受けて立った(一回の仕切りで立った取組でも勝利している)。 後述のように双葉山が土俵上での短い仕切り時間に無駄な動作を嫌って極限まで集中力を高めたためだが、こうした土俵態度も今日まで力士の模範とされている。 相撲態度に関しては文句が無かった一方で、に関しては男女ノ川と同様に腕を廻してを行ったため、酷評されたことがある。 後年にはそういうことは無くなったが、当初は土俵入りの際の力みも目立った。 残した不滅の足跡 [ ] 幕内成績は、31場所で276勝68敗1分33休(勝率. 820)。 春秋園事件での繰上げ入幕のため、通算勝率では他の横綱に一歩譲るが、横綱昇進後は17場所・180勝24敗22休で(勝率. 882 )と跳ね上がる。 他に 優勝12回 (年2場所制での最多、そのうち全勝8回 )、 5場所連続全勝(年2場所制で最多)、 関脇1場所、大関2場所は全て全勝で通過(明治以降唯一)、 69連勝(相撲の記録が残る以降で最長記録)など、不滅の足跡を残しており、「大横綱」と称される事も少なくない。 実力・実績は申し分ない反面、強力なライバルが不在だった面も指摘される。 玉錦が全盛期を過ぎており、復活の無いまま最終的にはに現役死したこと、戦時中から戦後直後にかけての大相撲を支えた羽黒山とは同部屋のため対戦が無かったこと、さらに、入幕後は一度も双葉山に負けたことが無かった、現役時代に双葉山から金星を2個獲得したといった大関獲りを期待された「双葉キラー」の両者がそれぞれ中毒、東京大空襲で現役死するなど、強敵と戦う機会をかなり避けることが出来たのも事実である。 戦時中の正横綱だった照國が唯一ライバルと言える場合もあるが、台頭が双葉山の現役後半で、双葉山と年齢的に近い(3歳差)武藏山も右肘の故障で低迷、さらに安藝ノ海・鹿嶌洋がその孤高を慰める健闘を見せた以外、この点ではまったく恵まれなかった。 エピソード [ ]• 双葉山が生まれた1912年は明治45年(大正元年)であるが、明治がに改元する前に生まれており、明治生まれで最後の横綱である。 年2場所制であった戦前の大相撲では、大阪や名古屋で「準場所」と呼ばれる場所を開催していた。 準場所での成績を含めた場合、6月の場所5日目から、6月にで行われた準場所3日目にに敗れるまで、87連勝を記録している。 当然ながら公式記録では無いものの、双葉山の強さを物語る記録である。 「二葉山」を名乗った時期があるように書かれることもあるが、これは下位力士だった時代に上に誤記されたものである。 なお双葉山生家付近に「(ふたばやまじんじゃ)」という神社があり、四股名「双葉山」の由来ともされている。 が、これは地元に江戸時代以前から存在していた神社である。 現在の大相撲で力士は力水を最初に一度しかつけないが、これは双葉山から始まっている。 双葉山以前の時代は仕切り直しのたびに力水を付ける者も多かったが、新弟子の頃に「武士にとっての水盃だ」と兄弟子から教えられ、死を覚悟しての水盃なら、一度付ければ十分だと考えたという話が広く流布しているが、双葉山自身はこれを否定、「ただ土俵上であまり無駄なことはするまいと思っただけ」と語っている。 文献によっては「目を疲れさせてはいけないから」という意図があったともされている。 右目の状態は、入門から入幕の頃にかけては霞んだり物が二重に見えていたが、やがてほとんど見えなくなったといい、疲れたりするとこの右目の影響で、いい左目までものが二重に映ったりすることもあったという。 それでも、本人はなまじ見えるよりその方が都合が良かったと語っている。 対戦力士側にも、「あの人(双葉山)は目の前の相手と違うものを見て相撲を取っている」といった証言が多く残る。 実際、双葉山の右目はやや白濁しており、右目に白い星があった。 そのことから相手は神眼だといって恐れたという。 横綱昇進後に喫した24敗(うち不戦敗が2つ)は、安藝ノ海に69連勝を止められた一番を含めて、大半が右側から攻められたものである。 右目が失明状態だったことは公表されておらず、 のある日、に詣で、法主の車椅子を押していて、「横綱、右目が悪いのだね」と言われた(日顕は、車椅子を押す力が右に偏ることから気づいたという)のが、他人から右目のことを指摘された最初だったという。 また、櫻錦戦で敗れた時に「飛び違い」という決まり手だったことから、「もしかして双葉山は目が悪いのではないか」という噂が広がったという。 なお、の著書に引かれた笠置山の談話によると「私たちはみんな知っていました。 ですから作戦を立てる場合、その目のことは計算に入れていました」という。 横綱昇進時はまだ独身だったことや、その童顔もあって「横綱」とも呼ばれた が、が新弟子の頃に春日野の用事でに双葉山を訪ねたところ、「この世にこんな綺麗な人がいるのかと思った」ほどの美女を侍らせていたと証言している。 1943年の記事には、双葉山が自身で創設した相撲部屋を「道場」と呼称した理由について「勧進相撲以降、相撲が専門力士の間に飲み残されてきた傾向にあったので、やむを得なかったとはいえ、このように相撲は、日本民族とは切っても切れる関係にありながら、近代に至って、国民とのつながりは果たしてどうであったか、とかえりみるとき、専門力士の間に保存されているのみであって、広く国民の相撲としての存在からは、はるかに遠いものとなっていたことは否み得ない事実であった」としており、太平洋戦争の影響下で軍事意識高揚のために相撲が草の根にまで浸透したことに関しては「相撲がようやく、日本民族のものとしても、本来の姿を取り戻したとものとして、私は喜びを禁じ得ないものである」と喜んでいた。 但し、これは太平洋戦争の最中の談話として双葉山自身が相応しい内容を選んだ結果のものであると留意されたい。 少なくとも太平洋戦争の終盤の時期は支度部屋では煙草を吸わない(当時相撲の支度部屋は喫煙可であった)人物であり、1943年11月場所2日目の支度部屋でのそうした様子を報道する記事もあった。 1943年11月場所3日目の支度部屋に、相撲観戦に訪れていた老婆がらしきものを差し入れとして持ってきた 当時は支度部屋への一般人の出入りも禁止されていなかった。 同場所6日目の支度部屋では魚屋の店員らしき人物がを搬入しており、このように国民的人気のある横綱とあって戦時中であったものの食生活は豪華であった。 1943年11月場所7日目の支度部屋では、部屋制度について「例えば同系統のものはひとつにして、大きな部屋別というようなものにして、東西対抗に、もう少し精彩を与えるというような方法は…」と記者から意見され、これに対して「自分の弟子だからこそ熱心に面倒も見るし指導も思い切ってできる。 これが単に協会の若い者、というようなことになれば、こうした師弟関係というものはどうしても熱を失いやしないかと思う」と部屋制度の維持が妥当と訴えた。 にが横綱へ昇進した際、当時は弱小の一門だったとしては玉錦以来の新横綱誕生、かつ二所ノ関一門関係者の中で玉錦の現役時代を詳しく知っている者がいなかったため、双葉山自らが横綱土俵入りの指導を行った。 また、での横綱推挙式と奉納土俵入りに関しても、玉錦が生前使用していた化粧回しがで焼失して現存していなかったためにこれも用意できなかった。 そこで、自ら現役時代に使用して戦火を免れた三つ揃いの化粧回しを、若乃花が所属していたへ貸し出して間に合わせたという。 9月1日、直弟子の元で14代時津風の内田勝男が、双葉山が親方時代に愛用していた真鍮製火鉢を寄贈し、双葉山の史料を展示する観光交流施設「双葉の里」で御披露目式が開かれた。 妻の穐吉澄子(2005年死去)は極端なマスコミ嫌いだったため、双葉山についてのインタビューを拒み続けた。 そのため、双葉山の特集を組んだ番組や著書では、澄子の証言は双葉山死去直後に相撲雑誌に書いた手記を除くほか確認できるものは無い。 双葉山と澄子の間には長男・経治(1944年生)と長女・博子(1948年生)がいたが、博子は高校時代に病死、経治は双葉山が1965年に福岡県に建てた日蓮宗の「妙音教会」という寺 のになったが、1988年に44歳の若さで死去した。 孫娘には元77期生・双葉美樹(2001年退団)や舞台女優の穐吉次代(後に穐吉美羽に改名)がいるが、双葉山没後に生まれたため接点はない。 この作の中で(取組を父親のと見ていた)は、宙を舞った火鉢のことを「火の粉をまき散らしながら飛ぶ」という様な表現で事を書き記し、舞った火鉢を「」とまで表現している。 また、歌舞伎俳優で後に横綱審議委員となった六代目澤村田之助もこの日、に連れられて初めて相撲観戦に行って双葉山の敗戦を見た。 昭和以降に大関以上の地位まで昇進した者で、大関時代の成績が全勝(無敗)なのは双葉山のみである。 また、昭和以降に横綱に昇進した者の中で大関を最短所要場所数で通過したのも双葉山である(所要場所数:2場所)。 双葉山の名言 [ ] ウィキクォートに に関する引用句集があります。 「稽古は本場所のごとく、本場所は稽古のごとく」• 「相撲ぐらい怪我をしないスポーツはない」• 「相撲は体で覚えて心で悟れ」• 「われ未だ木鶏たりえず」• 「勝負師は寡黙であれ」• 「一日に十分間だけ精神を集中させることは誰にでも出来るはずだ(一日のうち十分ぐらいは緊張のうちに身を置くことができないはずはない)」• 「絶対に同体というものはない」 主な成績 [ ] 通算成績 [ ]• 通算成績:348勝116敗33休1分 勝率. 750• 幕内成績:276勝68敗33休1分 勝率. 802• 横綱成績:180勝24敗22休 勝率. 882• 現役在位:51場所• 幕内在位:31場所• 横綱在位:17場所• 大関在位:2場所• 下記に、双葉山のその他の連勝記録を記す(20連勝以上対象)。 回数 連勝数 期間 止めた力士 備考 決まり手 1 69 1936年1月場所7日目〜1939年1月場所3日目 安藝ノ海 1936年5月場所〜1938年5月場所5場所連続全勝優勝 外掛け 2 29 1939年1月場所10日目 〜1940年1月場所10日目 五ツ嶋 1939年5月場所全勝優勝 はたき込み 3 21 1942年1月場所6日目〜1942年5月場所11日目 清美川 外掛け 4 36 1942年5月場所千秋楽〜1944年1月場所5日目 松の里 1943年1月場所〜5月場所2場所連続全勝優勝 渡し込み• 上記の通り、20連勝以上4回、30連勝以上2回記録している。 各段優勝 [ ]• 幕内最高優勝:12回(1936年5月場所、1937年1月場所、同年5月場所、1938年1月場所、同年5月場所、1939年5月場所、1940年1月場所、1941年1月場所、1942年1月場所、同年5月場所、1943年1月場所、同年5月場所)• 全勝優勝:8回(大鵬と並んで歴代2位)• 1932年1月番付(で興行中止)では十両東6枚目。 主な力士との幕内対戦成績 [ ] 力士名 勝数 負数 力士名 勝数 負数 力士名 勝数 負数 9 1 0 1 5 2 10 1 1 1 5 4 4 6 2 3 3 2 7 1 5 2 10 5 2 4 7 2 5 2 5 2 安藝ノ海節男とは、70連勝を阻止された取組後は全勝。 「同じ相手に連敗はしない」という双葉山の信念を物語る対戦成績である。 他にも玉錦とは6連敗の後に4連勝、武藏山とは4敗1分の後に2連勝、男女ノ川とは5連敗の後に10連勝、清水川とは1勝4敗の後に4連勝。 双葉山よりも先に大関・横綱へ昇進していた力士でも、双葉山の横綱昇進後は全く歯が立たなくなった。 著書 [ ]• 『相撲求道録』 黎明書房(1956年)• 『横綱の品格』 新書006 ベースボール・マガジン社 『相撲求道録』に加筆、改筆を加えたもの。 巻頭言をが、をが執筆している。 『新版 横綱の品格』 ベースボール・マガジン社 2018年3月に上製本として復刊。 大鵬の巻頭言は巻末に移り、貴乃花の帯の推薦文はなくなった。 関連書籍 [ ]• 『一人さみしき双葉山』、1991年3月。 関連楽曲 [ ]• 『双葉山』(唄: 作詞:高橋直人 作曲:あらい玉英) - 参考文献 [ ]• ベースボールマガジン社刊『大相撲名門列伝シリーズ 4 立浪部屋』(2017年)• ベースボール・マガジン社『大相撲名門列伝シリーズ 5 時津風部屋』(2018年) 脚注 [ ]• 『相撲』2012年8月号83頁の記事では、当時を知る写真館の店主である工藤明が「双葉山関も写真が大好きで、ウチへはそれこそありとあらゆる写真を取りに来て下さった。 」と証言している。 「双」は「雙」の略字だが、番付では初土俵のときの誤記とおぼしき「二葉山」以外は全て「 双葉山」と表記されていた。 6 16:29• 双葉山自身は著書『相撲求道録』の中で、友達と遊んでいる最中に目を傷めたのだが、吹き矢が当たったためということについてははっきりとした記憶がないとしている。 石井代蔵『巨人の素顔〜双葉山と力道山〜』(講談社)• 『双葉山の世界』豊の国宇佐市塾• 『相撲』34ページ• 5月場所などは4勝のうち3勝がうっちゃりによるものだった。 『相撲』35ページ• この場所中に祖母が死去したこともあり、悲しみを乗り越えるために猛稽古に取り組んだ成果とも取れる。 ただし、直後の大日本相撲選士権大会や10月の大阪大場所では玉錦に敗れている。 1回を含む。 昭和以降に大関へ昇進した力士で大関在位期間が全勝だったのは 双葉山のみである。 なお、大正時代にはが2場所20戦を19勝1預で横綱に昇進している。 『相撲』26ページ• これが遠目には安藝ノ海が右外掛けを掛けたかのように見えたため、翌日の各新聞は「安藝ノ海の右外掛け」と誤って報じた。 を見て誤報であることは明確になったが、当時ベテラン記者のは「と言えども正確とは言えんよ」と言って自説を譲らなかったという。 『相撲』28ページ• これ以降、2018年1月場所終了時までにこの記録を超えた力士は現れておらず、超えることは出来ていない。 近年ではにが63連勝を挙げたが、あと一歩及ばなかった。 ただし、1月場所にがでその数字を上回った。 27代木村庄之助『ハッケヨイ 残った』1994年 48ページ。 『相撲』36ページ• 12日目に2敗力士がいなくなり、のために東正横綱の双葉山の優勝が確定。 がある現行制度に照らせば13日目での優勝決定だったことになる。 現在でも継承などの点から親方の娘との結婚が見られる。 盛岡タイムス Web News 2016年2月1日• 大空出版• さんに聞く• 白鵬が連続全勝優勝の記録を更新するまで(3回)、、、も2場所連続全勝優勝を記録した。 屋外での開催となるため、翌年1月場所を前倒しで開催。 正確には幕下までは13尺土俵で取っている。 『大相撲名門列伝シリーズ 5 時津風部屋』p53• ちなみに時津風部屋は、現在でも「双葉山相撲道場」の看板を正式な部屋名と共に掲げている。 が入門する際、「時津風部屋はどこですか? 『大相撲名門列伝シリーズ 5 時津風部屋』p9• のちにも、土俵上ではなかったが講堂となった旧国技館で断髪式を行っている。 璽光尊こと長岡良子も逮捕後の精神鑑定の結果、「誇大妄想性痴呆症」と診断されて食糧管理法違反も違法なしと判断、不となった。 『大相撲名門列伝シリーズ 5 時津風部屋』p12• 産経ニュース 2016. 2 22:19• 2016. 2 22:19• スポーツ・グラフィックナンバー『熱血!名力士列伝 怪力・異能・土俵の鬼』〈〉(原著1993年2月10日)。 『相撲』33ページ• 実業之日本社 2013. 『相撲』19ページ• 制度導入以降の最高勝率。 ただし、白鵬は2007年7月場所から2020年3月場所現在までの横綱在位76場所で872勝125敗143休(勝率. 875)で、双葉山の勝率に現在のところ迫っている。 全勝8回は当時の最多記録。 年6場所制となってからは大鵬と並んで歴代2位タイ、2020年3月場所現在の最多は白鵬の15回。 小坂秀二『わが回想の双葉山定次』(1991年9月 読売新聞社)304頁• の証言では、結婚するまで童貞だったという意味ではなく、一度も八百長をしなかったからそう呼ばれたのだという(、166頁)。 『大相撲名門列伝シリーズ 5 時津風部屋』p19-21• 『大相撲名門列伝シリーズ 5 時津風部屋』p52• 西日本新聞 2018年09月02日 06時00分(西日本新聞社、2018年9月3日閲覧)• 『相撲』62ページから64ページ、「きちょう面で信念に徹した人」。 は双葉山に関する取材を澄子に試みようと何回か手紙を出したが返事が無く、止む無く断念したという経緯を明かしている(、183頁)。 『相撲』2018年1月号126ページ• 1936年5月場所〜1937年1月場所は11戦全勝、1937年5月場所〜1938年5月場所は13戦全勝。 1939年1月場所は13日制。 蓄膿症により全休• 脇腹疼痛により12日目から途中休場• アメーバ赤痢により7日目から途中休場• 面疔により2日目から途中休場 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 - 双葉山と仲の良かった力士で、二人で「大鉄傘下の花形力士二人」と称された。 - テレビドラマで少年時代の双葉山を演じた経験のある力士 外部リンク [ ]•

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土佐豊の打っ棄りは決まったように・・・大相撲秋場所2日目

相撲 打っ棄り

「火ノ丸相撲」236話のネタバレ 前回はコチラ! 「 」 薫丸 「鬼関!休んでなくて大丈夫なんですか!?」 鬼丸 「ああ!鼻血も止まった」 鬼丸 「休んどる場合じゃねぇさ・・・!」 鬼丸が駆け付けた土俵上ではこの日一番の結び刃皇と三日月が相撲を取っています。 共に9勝1敗と優勝の行方を左右する大一番で長い相撲となっています。 三日月の得意のおっつけで刃皇に廻しを取らせません。 童子切 「・・・悪くない形や」 童子切 「刃皇とて対応間違えたらやられるで」 この大一番を童子切もテレビから見守ります。 三日月 「さすが何でもお見通しだ・・・」 相撲に出会うまでは何でもできていた三日月は何にも真剣になることができていませんでした。 しかし、相撲と出会って周りが真剣な奴らばかりで三日月は居心地の良さを感じています。 しかし、刃皇が受けきります。 そして、打っ棄りを決めます。 鬼丸 (最強の横綱刃皇ともう一度戦いてぇ・・・!!) 刃皇と三日月の試合を見届けた鬼丸は再度刃皇との対戦を心待ちにします。 九月場所 12日目 大般若 「勝てよミカ・・・刃皇にリベンジしてぇんだろ・・・!」 土俵上で鬼丸と三日月が相対します。 三日月 (君は俺に相撲の楽しさ・・・恐さを教えてくれた人) 三日月 (俺は潮君に真剣勝負の場で勝ったことがない) ・・・ 第236話は以上となります。 刃皇にはさすがの一言のいいようしかありませんでした。 そして、12日目の鬼丸対三日月! 九月場所も終盤に差し掛かってきてここからの1敗は命取りになります。 どちらも2敗で譲れない一戦。 上り調子の鬼丸が勢いのまま三日月を倒すのかそれとも打倒刃皇に向けて三日月が2敗を守り切るのか気になる来週以降の展開にも期待が高まります。 ・・・ 感想は以上となります。 次の第237話はコチラ! 「 」 無料で読める! 以上で「火ノ丸相撲」236話のネタバレ・感想を終わらせていただきます。 この「火ノ丸相撲」を文章だけではなくて漫画で楽しみたくありませんか?.

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随談第61回 野球・相撲噺(その4)

相撲 打っ棄り

1,238• 560• 379• 189• 213• 239• 591• 181• 139• 118• 162• 175• 320• 146• 133• 248• 106• 447• 100• 125• 2 NEW ENTRY.

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