カーペンターズ イエスタデイ ワンスモア。 Yesterday Once More (イエスタデイ・ワンス・モア) / CARPENTERS

【歌詞和訳】カーペンターズ「Yesterday Once More 」は本当に繊細な歌詞なんです!!

カーペンターズ イエスタデイ ワンスモア

今回、 歌詞を 和訳するのは カーペンターズの「 Yesterday Once More」。 有名な曲なので、タイトルを知らなくても、曲を聴けば 「あ~あの曲」ってなる人が多いのでは。 タイトルの「Yesterday Once More」は和訳すると、 「昨日をもう一度」という感じですかね。 しかし、歌詞を和訳してみると、「Yesterday Once More」の使い方はちょっと違って、「It's yesterday once more」っていう風に使われているので・・・ 「昨日みたいに感じるわ」と和訳しました。 このCarpenters「Yesterday Once More 」の曲の全体のイメージとしては、昔好きだった音楽を聴くことで思い出が呼び起され、 懐かしくも悲しくもなるっていう繊細な感じだと思うんです。 その辺を意識して、 カーペンターズの 「Yesterday Once More 」の歌詞の和訳をしてみました。 【歌詞和訳】Carpenters「Yesterday Once More 」 以下、英語歌詞は引用 日本語歌詞はオリジナル Carpenters『Yesterday Once More 』 When I was young I'd listen to the radio 若かった頃 ラジオを聞いてたわ Waitin' for my favorite songs お気に入りの曲を待ちながら When they played I'd sing along, その曲が流れてきたら 一緒に歌うの It made me smile すると 笑顔になれるのよ Those were such happy times and not so long ago 本当に幸せ時だった まだそんな昔ではないけど How I wondered where they'd gone あの曲たちはどこに行ってしまったの? But they're back again just like a long lost friend でも 戻ってきたわ まるで古い友人のように All the songs I loved so well 全部 私が大好きだった曲たち Every sha-la-la-la 全ての曲たちが Every wo-o-wo-o, 全ての思い出が Still shines まだ輝いてるわ Every shing-a-ling-a-ling, 全ての曲たちが That they're startin' to sing's, また歌い始めているわ So fine とても素敵なの When they get to the part 曲があの部分にさしかかると Where he's breakin' her heart そう 彼が彼女の心を痛めるくだり It can really make me cry, just like before その部分を聴くと 私は泣いてしまうの 昔と同じように It's yesterday once more 昨日みたいに感じるわ Lookin' back on how it was in years gone by どれだけの年月が流れたんだろうって振り返ると And the good times that I had 良かった思い出たちが Makes today seem rather sad, 今の私をより悲しくさせるわ So much has changed. 本当にたくさん変わってしまったの It was songs of love that I would sing to then あの頃 歌っていたのは ラブソングだったの And I'd memorize each word 今でも どの歌詞も覚えているわ Those old melodies still sound so good to me 懐かしいメロディは 私を今でも心地よくさせてくれる As they melt the years away 過ぎ去った時間を溶かすかのように Every sha-la-la-la 全ての曲たちが Every wo-o-wo-o, 全ての思い出が Still shines まだ輝いてるわ Every shing-a-ling-a-ling, 全ての曲たちが That they're startin' to sing's, また歌い始めているわ So fine とても素敵なの All my best memories come back clearly to me 全ての良かった思い出が はっきりと浮かんでくるわ Some can even make me cry, 泣いてしまう思い出もあるけれど Just like before 昔と同じようにね It's yesterday once more 昨日みたいに感じるわ Every sha-la-la-la 全ての曲たちが Every wo-o-wo-o, 全ての思い出が Still shines まだ輝いてるわ Every shing-a-ling-a-ling, 全ての曲たちが That they're startin' to sing's, また歌い始めているわ So fine とても素敵なの Every sha-la-la-la 全ての曲たちが Every wo-o-wo-o, 全ての思い出が Still shines まだ輝いてるわ Every shing-a-ling-a-ling, 全ての曲たちが・・・ Carpenters「Yesterday Once More 」歌詞を和訳してみて・・・ この曲の主人公は、もう長い間生きていた女性かなと。 私はそんなイメージ。 長い間生きてくれば、それは色々な思いでがありますよね。 そんな思い出が音楽と共に呼び起される。 楽しい思い出もあれば、悲しい思い出もある。 そして、 まるで昨日のことのようにそれらを感じる。 そんな、主人公の心の様相がヒシヒシと伝わってくる本当に繊細な歌詞だなって思いました。 洋楽ですけど、日本人好みの味わい深い歌詞ですよね。 そして、誰にも 記憶と共にリンクしている曲ってあるじゃないですか。 歌詞を和訳していて、この主人公のように、色々な曲と共に思い出が私にも蘇ってきました。 音楽が脳を刺激するんですかね?本当に、当時のことが昨日とまでは言わなくても最近のことにように感じる。 ただの思い出ではなくて、「音楽」とリンクしている思い出って、鮮明に思い出しやすいのかな。 歌詞を和訳していて、ここが一番ツボっていう部分があります。 「良かった思い出たちが 今の私をより悲しくさせる」 う~ん、切ない感情です。 これって、楽しい思い出を思い出すと、普通は楽しくなるじゃないですか? でも、それってその楽しい 思い出を共感できる人がまだ周りにいるからなんですよね。 たしかに、「良い思い出」を思い出しても、それを共感できる人達がもう周りに居なかったら、逆に悲しくなるのかな。 だから、そう思うと、サビの「Every sha-la-la-la」「Still shines」の部分なんて明るく歌っているけど、 「良い思い出たちが 今でも輝いている」からこそ、主人公の女性の胸の内は・・・ 本当に繊細で素敵な歌詞だなって、和訳していて思いました。 この曲の歌詞がビンゴでハマる世代には、とても心に染みわたっているんだろうなって。 なるほど、長い間愛される訳ですね。 そんなカーペンターズの「Yesterday Once More 」の歌詞の和訳でした。

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イエスタデイ・ワンス・モア / yesterday once moreの歌詞和訳

カーペンターズ イエスタデイ ワンスモア

本当は『スーパースター(Superstar)』のほうが好きで、そっちのほうを和訳してみたいんだけど(その歌の歌詞を久々に見てみると、非常に強い思いが伝わってくる) 本当はカーペンターズの歌詞は英単語が小中学生レベルなんだけど、それでも訳するのに一苦労。 一種のカンニングだけど、別の和訳の記事を見てようやく理解した感じです。 とはいえ訳してみると、昔に戻って童心に立ち返る気持ちがよく伝わる。 とりあえず、乗っけてみます。 ちなみに理想的なインプット(覚える)とアウトプット(使う)の比率は、3:7といわれる。 そこを頭の片隅にとどめてやってくか。 おまけで、『闇金ウシジマくん サラリーマンくん』の小堀豊のセリフを言ってみる。 上司のパワハラに悩む医療機器の営業で、休日のジョギングの直前、妻に 「あなたはいいわよね、好き勝手出来て(Only you are happy, only you do what you want)」 と言われた後のセリフ。 「ファーーーーーーーーック!!(Fuuuuuuuuuuuuuuuuuuuuuuuuuuuck)」と大声をあげながら言うんだけど、仕事や家庭に対する拒絶感をリアルに表していると思う。 "That I do what I want, you told!? Don't kidding! I work the hard job, have many stress and can't be rest in my home!! 30 thousand yens for a month my pocket money is, so I can't resolve my stress!! The 33-years-old ordinary adult I am, but my own time has only an hour with jogging and I can't to even go the cafe!! Why do I work every day and every day? Anxious, boring and only tiring my job is, so I can have no hope! To feed my family, I can't quit my job despite I want to do so. But, I'm squeezed by you more than I can be so, but you no thanking to me. Only "It's naturally. " Your words is! " 原文:好き勝手だと!? ふざけるなよ!! 仕事してストレスためて家でもゆっくり休めねえ!! 月3万の小遣いで憂さ晴らしもできねえ!! 33歳のいい大人が自分だけの時間は、1時間のジョギングだけで、喫茶店にも行けないわけですよ!! 俺は毎日毎日、なんのために働いているんだろう? 不安で、退屈で、ただ疲れるだけの仕事で、希望がない! 家族を養うために、やめたくてもやめられない! なのに搾り取られるだけ取られて、なんの感謝もないじゃないか!! 『当たり前でしょ』の一言で済ませやがって!!• mixiユーザー 2019年02月19日 19:26 グルーピーというのが原曲でスーパースターはそのカバーですね。 歌手の追っかけの女の子が弄ばれ愛してるって言ったじゃない?というのがオリジナル。 歌詞を改変してカレンが歌唱して永久に残る名曲に昇華した。 カーペンターズの中では最も好きな曲の内の一つです。 リマスター版よりもオリジナル版のベースが好き。 びっくり。 歌詞を改変しなければ不朽の名曲にはならなかったと。 聞き出して30年後くらいに気づきましたw 2020年• 07月• 08月• 09月• 10月• 11月• 12月 2019年• 2018年• 2017年• 2016年• 2015年• 2014年• 2013年• 2012年• 2011年• 2010年• 2009年• 2008年• 01月• 02月• 03月• 04月• 05月• 06月• 07月• 08月• 09月• 10月•

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米コンピ『イエスタデイ・ワンス・モア』解説

カーペンターズ イエスタデイ ワンスモア

概要 [ ] 1970年代を中心に、アメリカのラジオ番組『』やアダルト・コンテンポラリー・チャートでの記録を塗り替え、や、・ミュージックといったジャンルにおける主要なヒットメーカーとなった。 ビルボード・ホット100チャートで1位となったシングルが3曲、アダルト・コンテンポラリー・シングル・チャートで1位が15曲ある。 さらに、トップ10入りは12曲に及ぶ。 アルバム・シングルの総売上枚数は1億枚を上回るとされている。 14年間の活動で、11枚のアルバム(うち『』『』『』『』『』の5枚がトップ10シングル曲を収録)、31枚のシングル、5本のテレビ・スペシャル番組、テレビ・シリーズ番組を1本制作した。 アメリカ本国をはじめ英国、日本、オーストラリア、オランダ、ベルギーなど世界各国でツアーを行った。 オリコンチャートブックの集計では1970年から1989年(いわゆるレコード時代)の日本での海外アーティスト別アルバム売上枚数はビートルズに次いで第2位である。 シングル売上枚数は第1位。 CD時代に入った後も、1995年発売のベスト盤『』が200万枚越えるセールスを記録する等、日本においても時代を超越して愛され続けているグループである。 カレンが、(いわゆる拒食症)の合併症による心停止のために死去してから、摂食障害の危険性の認識が深まったといわれている。 歴史 [ ] 家族の歴史とDowneyまでの道のり カーペンター兄弟は二人ともコネチカット州ニューヘーブンにある Grace—New Haven Hospital 現在のYale—New Haven Hospital にて Harold Bertram 1908年11月8日 — 1988年10月15日没 とAgnes Reuwer 旧姓 Tatum,1915年 3月5日 — 1996年11月10日没 の夫婦のもとにに生まれた。 ハロルドの父(兄弟の祖父)はイギリス人で中国で宣教師をしていたため中国で生まれた。 その後、一家は1917年にイギリスにもどり1921年にアメリカにわたり技術者として身を立てた。 父方の祖母のネリーは美しく、とてもきれいな大きな歌声を持つ女性だった。 兄弟の母であるAnges Tatum Carpenterは バルチモアー出身で、小売店を営む家庭の4人姉妹として生まれた。 アグネスの父は姉妹たちに一生懸命働くことの重要さと勤労道徳をしっかり教え込んだ。 アグネスはとても意志が強く、ウエディングドレスも自作し、子供を守り家事をきっちりこなす母親であった。 夫婦は1935年4月9日に結婚し、第二次世界大戦が終わり アメリカ庶民が手頃の価格の自分の家を求めるブームの頃 カーペンター夫婦は1946年 ニューヘイブンの郊外に家を購入した 55 Hall Street, New Haven。 ハロルドは New Heaven pulp and board company でカラープレス工として働いた。 アグネスとハロルドは週末は 車の洗車をして 家庭が豊かになるように努めた。 兄であるリチャードは1946年10月15日生まれで、ハロルドの兄弟の名をとり Richard Lynnと名付けられた。 3年後の1950年3月2日、妹 Karen Anneが誕生した。 [ AE Biography ] 夫婦は子供を非常にかわいがったが、リチャードによると、夫婦は表だって愛情を表現するのをあまり好まなかった。 このことがカレンがのちに神経性食思不信になった時に周囲から母親からの愛情が足りないのが原因と指摘された由縁である。 しかし、リチャードが後にテレビ番組で 「うちの家族は 他の家族の様に Hugging(何かの折に愛情確認のために抱きしめる)はしなくても、お互いのことをちゃんと思いやっているんだ」としたコメントした。 父ハロルドは表立った愛情表現は下手であったが、音楽に対する感情表現を表すのは子供たちの前でもためらいがなかった。 ハロルドが集めた音楽はHarry Hag James Spike Jonze,Rachmaninoff,, Tchaikovsky, Red Nichols さらにクラッシックと多様で これがリチャードが多種多様の音楽に触れる要因となった。。 リチャードはおとなしい子供で、ほとんどの時間をピアノを弾いたり音楽を聞いたりして家で過ごしていた。 3歳になるころまでにリチャードが興味を持ったのは、地下室でレコードプレーヤの前で何時間も音楽を聴くことであった。 父は地下室の天井から吊るしたブランコを作り そこでカレンとリチャードはブランコに揺られながら音楽を聴いて育った。 二人はいつも一緒で、それはカレンが亡くなるまで同じであった。 リチャードは屋内で遊ぶのを好む子供だったのに対しカレンがはかなりのお転婆で、よくソフトボールをして遊んでいた。 リチャードは12歳の時にピアノを始め、16歳の時に近くのYale大学でピアノのレッスンを受けた リチャードがミュージシャンとしての将来を目指していることは、この頃までには近所の皆が知るようになっていた。 他の子供がローラースケートして外で遊んでいるころ、リチャードのピアノ練習の音色が窓から聞こえたそうである。 母アグネスはこの頃までには、リチャードがクラシックでなく、その先にある音楽の何かで身をたてると予感していたようで、毎日、彼が練習するのを聞いていたそうだ。 アグネスとハロルドはリチャードの音楽才能の芽が出たのを感じて、彼のために音楽活動にとって将来性のあるハリウッドのある南カリフォルニアに引っ越すこと決断し、1963年6月、車に引っ越しの荷物を詰めカリフォルニアを目指したのである。 一家はハリウッドの中心から少し離れたダウニーに移り住んだ。 ダウニーは一家の住みなれたニューヘイブンと同じように郊外で、ミドルクラスといわれる家庭が住むのに適していた。 彼がら最初に住んだアパートは 今もあり、そこに一年以上いたといわれている。 Downey, CAにて カーペンター家はニューヘイブンの家が売れず経済的に厳しかった。 そのようなわけで家族はまずShoji 現在はThe Pinecrest Apts、12020 Downey Avenue, Downey, CA )に移り住んだ。 最初はShojiアパートの22号室であったが 数か月後、向かいの大きな23号室に移り住み約1年過ごした。 1965年の11月、父であるハロルドがやっとダウニーのFidler Avenueに家族向けの一軒家を手に入れ、一家はそこに移り住んだ。 (リチャードはStorybook Houseと呼んでいる)このStoryBook Houseが立っていた場所はParamount市とBellflower市の境界に位置していたため、高速105号線の建設でちょうどこの場所だけが取り壊されてしまった。 歴史的建造物であったのにと嘆くものもある。 カーペンター一家はこのFidler Avenueの家に1971年まで住み続けた。 1966年に発売されたMagicLampやその夏にHollywood Bowlで開かれたバンドコンテストに優勝したリチャード・カーペンター・トリオとして活動していた時もこの家に住んでいた。 生い立ち [ ] は1946年10月15日、妹は1950年3月2日生まれである。 リチャードは父親の膨大なコレクションのを聴き、の練習に熱心だった。 一方カレンは親しみやすく外向的でスポーツを好んだが、兄と一緒に音楽を聴くことも多かった。 1963年6月、両親のハロルドとアグネスは家族を連れてカリフォルニア州ロサンゼルス郊外のに移り住んだ。 リチャードを音楽業界へ近づけることと、カレンと父がの厳しい冬を嫌ったための移住であった。 同年の秋からリチャードはへ通い、体育の代わりにバンドを選択科目とした。 後のカレンも、これを参考にして選択を体育から音楽に変更した。 音楽教師のブルース・ギフォードは、リチャードが「」を指示されて演奏するのを聞いて、リチャードのピアノ奏者としての才能を認めた。 翌年度からリチャードはロングビーチ校へ通い、将来の作曲パートナーとなると出会った。 ベティスの協力のもとに、リチャードはやがて「」、「」、「」といったヒット曲を生み出していく。 またでやを演奏することになるや、1966年に・ソングの「」を共作するらと知り合ったのもこの学校でのことである。 カレンは、1964年にダウニー高校へ入学し、ドラム演奏の才能を見せはじめた。 カレンは、運動は好きだが体育の授業は嫌いだったと述べている。 カレンは体育から逃れるため、カリフォルニア州立大学学生であったリチャードに、やはり同様に体育からを選択できるように、教師を紹介してもらい 、結果、ダウニー高校マーチング・バンドの一員となることを認められた。 1963年、リチャードを教えていた教師のブルース・ギフォードは、カレンにを担当させたが、カレンは気に入らなかった。 あるでカレンは、「演奏に不便で運びにくく、バンドの演奏よりも常に4分の1音高い音を出すことなどに苛立っていた」と述べている。 その後間もなくカレンは、友人でありバンド仲間のフランキー・チャベスからドラムの演奏を勧められ、チャベスのセットを借りてドラムを教わった。 「基礎から始めて2人で何時間も練習したのだろう」とリチャードは語っている。 1964年に両親からのドラムセットを買って貰ったころには、カレンの腕前はプロ並みに上達しており、リチャードが後年のドキュメンタリー『』 "" で語っているところによれば「エキゾティックなの列を叩き出せるほどになっていた」 という。 初期の活動 [ ] 1965年まで1年間カレンはドラムの練習に励み、リチャードは教師フランク・プーラーの指導の下でピアノを練習した。 兄妹はジャズ・トリオの結成を真剣に考えるようになり、親しくなったウェス・ジェイコブズとバンドを結成した。 ドラムはカレン、ピアノはリチャード、ベース/チューバはジェイコブズという編成のジャズ・トリオで、「リチャード・カーペンター・トリオ」と名乗った。 1966年、トリオはで毎年行われていた "" (いわゆる形式のコンテスト)に出場し、「」のインストゥルメンタル・ヴァージョンや自作曲「アイス・ティー」を演奏した。 1966年6月24日、トリオはこの大会で優勝し、との契約を勝ち取った。 そこで彼らはの「」やの「」 "" などといった曲を録音した。 しかし、RCAとの契約はすぐに打ち切られてしまう。 1966年、ロサンゼルスのベース奏者ジョー・オズボーンが所有していたガレージ・スタジオで深夜にセッションが行われることとなり、そこでオーディションを受けるトランペット奏者の伴奏を務めるために参加することとなったリチャードに、カレンも同行した。 この時、ためしに歌ってみるようオズボーンから頼まれたカレンの声のすばらしさが認められ、1966年5月13日、カレンはオズボーンが立ち上げたばかりのレーベル、マジック・ランプ・レーベルとソロ・アーティストとしての短期レコード契約を結ぶこととなった。 このレーベルからはリチャードが作曲した「ルッキング・フォー・ラヴ」 "Looking for Love" と「アイル・ビー・ユアズ」 "I'll Be Yours" を収録したシングルが制作されたが、レーベル自体がその後すぐに消滅。 しかしオズボーンは、カレンとリチャードがからのオファーを受けることとなる1969年まで、2人にデモ・テープの録音を続けさせた。 1967年、リチャードとカレンはカリフォルニア州立大学ロングビーチ校の学生ミュージシャン4人と共に、「ザ・サマーチャイムズ」という名のセクステット(6重奏団)を結成した。 やがて「スペクトラ」と改名し、最終的には「スペクトラム」の名に落ち着いた。 グループはジョリー・ナイト・ステーキ・ハウスやなどで頻繁に演奏するようになった。 スペクトラムはレコード会社と契約を交わせなかったが、同じバンドのメンバーであると同時に、のち1983年のカレンの死まで多くの楽曲の共作者となると、リチャードは親交を深めた。 1968年、スペクトラム解散。 リチャード・カーペンター・トリオのウェス・ジェイコブズは、ベースとチューバを演奏していたが、へ加入するためグループを去った(1970年首席チューバ奏者となった)。 リチャードとカレンは1968年の中ごろにテレビ番組 "Your All American College Show" から出演依頼を受けた。 全国の大学からさまざまなグループを集めてコンテストに参加させるオーディション番組であった。 兄妹はの曲 "" で参加することとしたが、バンドを去ったジェイコブズの代わりとなるベース奏者が必要となり、オーディションを行った。 結局、そのテレビ出演だけの臨時参加という形でビル・シショフが選ばれた。 一時的なメンバーを加えたリチャード・カーペンター・トリオは1969年6月22日にテレビデビューを飾った。 この演奏が、リチャードとカレンにとって初めてのテレビ出演でもあった。 この出演を最後にリチャード・カーペンター・トリオは最終的に解散し、レコード会社からのオファーを待つこととなる。 当時はや、、などロックグループが主流だった。 しかし、リチャードとカレンは自分たちの路線を貫き、二人は友人たちの手を借りながらさまざまなレコード・レーベルにデモ・テープを送り続けた。 それがの共同所有者でありトランペット奏者・ヴォーカリストでもあるの関心を惹いた。 このアルパートがリチャードとカレンを世に送り出すことになる。 当時の州法で19歳のカレンは未成年者だったため、両親も署名した。 兄妹はあえて定冠詞 "The" の付かない "Carpenters" を契約上の名義とすることに決めた("The Carpenters" は「カーペンター兄妹」ないし「カーペンター家」を意味するが、"Carpenters" だけでは「大工たち」の意味になる)。 その理由についてリチャードは、2004年に発売された "" のライナーノーツにおいて、やのように、「ザ・〜ズ」ではないバンド名のほうがかっこいいと思ったからだと述べている。 『』と題されて1969年にリリースされた彼らの最初のアルバムには、リチャードがスペクトラム時代に作曲ないし共作した楽曲もいくつか収録されている。 このアルバムにおける人気曲は、ビートルズのヒット曲をバラード風にアレンジした「」で、・ホット100で最高54位、アダルト・コンテンポラリー・チャートでトップ20位入りするなど、まずまずのヒットとなった。 この曲の成功を受けて、『オファリング』は1970年に『』へと題名を変えて再発された。 アルバム『涙の乗車券』のチャート・アクションは今一つ振るわなかったが、リチャードとカレンは/作の「」でついに成功を手にする。 このシングルは1970年にリリースされて初登場56位となり 、1970年7月22日にはチャート1位に昇りつめ、4週にわたって首位の座を守った。 また1970年ビルボード誌年間ランキングでは第2位となっている。 ベストセラーとなったアルバム『』の収録曲からはこの曲と「」がRIAAによってゴールドディスクに認定され、同アルバムは『』誌による『偉大なアルバム500選』 "" の175位にも選ばれている。 その年の最優秀新人部門をはじめとする2つのグラミー賞も受賞した。 「close to you」が1位となった直後に、カーペンターズがカヴァーした「愛のプレリュード」(/作)がビルボード・ホット100で第2位となり、アダルト・コンテンポラリーチャートでは首位を7週間保持した。 リチャード自身もこの曲はグループの「代表曲」だと認めている。 この曲はもともとウィリアムズとニコルズがクロッカー・ナショナル銀行のテレビCM曲として前年に作曲したものだが、リチャードはテレビで聴いたときにその曲のヒット性にいち早く気づいたのである。 「愛のプレリュード」はウィリアムズとニコルズにとって初のヒット・シングルとなった。 2人はその年の締めくくりとして、クリスマス・ソング「」をリリースした。 この曲は、カリフォルニア州立大学時代に2人の参加していた合唱団の監督を務めていたフランク・プーラーとリチャードが共作した作品で、1970年のビルボードのホリデイ・チャートで上位にランクインして、翌年以降も同チャートにたびたび登場した。 一連のヒット・シングルやアルバムによって、カーペンターズは1970年代を通じてヒット・チャートの常連となった。 1971年のヒット曲「」は、元は監督による1970年の映画『』の結婚シーンのためにレコーディングされたものである。 映画館でこの曲を聴いて気に入ったリチャードは、その後間もない1970年秋にこの曲を録音し、カーペンターズにとって3枚目のゴールド・シングルとなった。 続いて送り出された「」はビルボード・ホット100の第2位を記録し 、ポール・ウィリアムズとロジャー・ニコルスにとって2曲目のヒット・シングルとなった。 カーペンターズの評伝を著した作家コールマンは、「雨の日と月曜日は」をおそらく最もポピュラーなカーペンターズの楽曲であろうと評している。 さらにこの曲はカーペンターズ第4のゴールド・シングルとなったが、1位獲得を阻んだのはの「イッツ・トゥー・レイト」 "" だった。 /ボニー・ブラムレット作曲のシングル「」はカーペンターズの次の代表曲となり、ここで聴かれる痛切で心に残るカレンの歌声は高い評価を受けている。 この曲もビルボード・ホット100で第2位となった。 この作品は彼らにとって最も売れたアルバムの1つであり、RIAAのプラチナムを4度にわたって獲得(売上400万枚以上)している。 この作品でカーペンターズはグラミー賞 を受賞し、3部門でノミネートされた。 1972年にリチャードはによるソロを導入したバラードを考案した。 後にこうした形態の曲をやのバンドが継承して と呼ばれる1ジャンルにまでなったことから、リチャードがこのジャンルの先駆者とみなされることもある。 この曲「」はリチャードとベティスによって作曲されたもので、カーペンターズが1972年に出した2枚目のシングルとして最高7位を記録した。 「愛にさよならを」は主演の映画 "" に着想を得たものである。 この映画は1940年に制作され、作中にはが演じる作曲家が登場する。 この作曲家は歴史上最も美しい歌 "Goodbye to Love" の作者として有名という設定である。 リチャードによれば、この曲は映画の中に言及があるだけで演奏されてはいなかったが、同名の曲を自分で書こうと思いつき、1972年にベティスと共作するまでそのアイディアを温めていたという。 これを機にペルーソは1983年までカーペンターズの伴奏者を務めることとなった。 しかし、ファンの中にはカーペンターズのレコードにエレキギターのソロが入ることに不満を抱く者も少なくなく、嫌がらせの手紙を送りつける者さえいたという。 1973年リリースのアルバム『』のタイトルは2人の母アグネス・カーペンターの案による。 この作品にはで挿入歌として使用された楽曲「」や、昔のラジオを懐かしむ懐古的な歌詞の「」などが収録されている。 日本とイギリスでのカーペンターズ最大のヒット曲である「イエスタデイ・ワンス・モア」はアルバムのB面1曲目に収録され、その後に60年代前半にヒットした例えばの「」などのオールディーズのメドレーが続き、聴き物となっている。 カーペンターズにとって初となるは "" と題され、アメリカとイギリスでアルバムチャートのトップに立っている。 特にイギリスにおいては、1974年7月13日にの『』にトップを奪われるまでトータル17週も首位に立ち 、70年代に最も売れたアルバムのひとつとなっている。 また、このアルバムはアメリカでも2008年までに700万枚以上を売り上げ 、7倍のマルチ・プラチナ・ディスクを授与されている。 このベスト・アルバム用に新たに作り直され、アルバムの先行シングルとしてリリースされたのが「」である。 1972年リリースのアルバム『』に収められていたこの曲のアルバム・ヴァージョンを聴いたカントリー・シンガーのがこの曲をカヴァーして1973年にリリースすると、リチャードとカレンも自分たちもシングルとしてリリースするべきかどうかについて議論した。 1970年代後半 [ ] カーペンターズは1974年には新しいアルバムを発表しなかった。 リチャードはこれについて「単に時間がなかったから。 アルバムを作る気分にもなれなかったし」と語っている。 その代わりに、2人はポール・ウィリアムズ/ロジャー・ニコルズ作曲のシングル「」をリリースしている。 これはもともと1972年のアルバム『』に収録されていたものだが、カーペンターズはそのLPをリリースした2年後になって、この曲をシングル・カットすることを決定した。 1974年3月、そのシングル・ヴァージョンはビルボード・トップ100チャートの11位に達し、アルバム『ア・ソング・フォー・ユー』からの5番目のトップ20ヒットとなった。 一方、同1974年には『ナウ・アンド・ゼン』に収録されたハンク・ウィリアムズの「」をアップテンポにリメイクした。 この曲はアメリカでシングルとしてリリースされたほか、日本のチャートでも30位以内にランクインし、イギリスをはじめとする他の多くの国でもヒットした。 オランダでは、カーペンターズにとって最大のヒット曲となったほどである。 また1974年の暮れには、ジャズ調の編曲を施したクリスマス・ソング「」をシングルとしてリリースしている。 1975年はまだ彼らにとって多作の年であった。 が1961年にチャート1位を獲得したヒット曲で、・サウンドのクラシックであった「」をカヴァーしたシングルがヒット。 これは1974年にリリースしたものだが、75年の1月にビルボード・トップ100で1位を獲得し、彼らにとっての3度目の(そして最後の)首位獲得作品となった。 このシングルはまた、カレンとリチャードにとっての12番目のアメリカでのミリオンセラーにもなった。 日本ではこのシングルが最高の売上枚数を記録している。 「プリーズ・ミスター・ポストマン」に続き、春にはリチャードとジョン・ベティスの共作「」がビルボードで4位まで上昇し、これは彼らにとって最後のアメリカでのトップ10ヒットとなった。 リチャードとベティスはこの曲がヒット・シングルになるとは思っていなかったので、ロジャー・ヤングとの賭けでトップ5入りしない方に賭けており、2人はヤングに1000ドル支払うはめになったという。 1975年の上半期に成功を収めたこの2曲はいずれも1975年のアルバム『』に収められている。 このアルバムはほかにもの「」との「」のカヴァーを収録しており、これらも同じ年に中ヒットを記録した。 このアルバムのジャケットは、日本人デザイナーのの代表作のひとつである。 ただし、以降彼らのレコード・セールスは次第に下降線を辿り始めた。 『緑の地平線〜ホライゾン』はプラチナム・アルバムに認定されたが、その後(アルバムからの2枚目のシングルがチャートから消えて以降)カーペンターズにとっては初めてマルチ・プラチナムに達することのなかったアルバムとなった。 1976年6月11日に発売された次のアルバム『』も、ゴールド・ディスクには認定されたものの、彼らにとってはファースト・アルバム『』以来の7年間で初めてプラチナ獲得に至らなかったアルバムである。 それでも1976年のシングル・リリースは成功を収めていたが、当時のヒット・ラジオ番組は音楽的スタイルを変化させており、ついにはカーペンターズのような「ソフト」なグループの多くを苦しめるようになった。 カーペンターズのその年最大のポップ・シングルはのカヴァー「」で、最高12位であった。 カレンの最も好きな曲といわれる「」はビルボード・ホット100では25位にとどまったが、アダルト・コンテンポラリー・チャートでは「見つめあう恋」に続き14枚目となる1位を獲得した。 これは同チャートの歴史上他に類を見ない記録となった。 彼らの功績の1つとして数えられることは少ないが、カーペンターズはアメリカでは最も早く自分たちのレコードの宣伝のためにミュージック・ビデオを制作したグループの1つである。 1975年の初めに、彼らはディズニーランドで「プリーズ・ミスター・ポストマン」の演奏を撮影しているほか、「オンリー・イエスタデイ」をハンティントン・ガーデンで収録しているが、ここでのカレンは健康で調子良さそうに見える。 しかし、1年後に撮影した「見つめあう恋」のビデオに出演した時には目に見えて違いが現れるようになっていた。 1977年から1979年にかけてディスコ・ブームの真只中であり、カーペンターズやら大人向けの「イージー・リスニング」のアーティストは、ラジオなどで放送される機会がやや減りつつあった。 1977年にリリースされたカーペンターズの実験的なアルバム『』は、他の音楽ジャンルへ挑むことによって、より多くの層へ訴えかけようとする試みであったが、(「一人にさせて」)、(「恋の強がり」)、ポップ・ソング(「想い出にさよなら」、「あの日、あの時」)という不釣合いな混ぜ合わせに、「ふたりのラヴ・ソング」(アダルト・コンテンポラリー・チャート4位)、「星空に愛を コーリング・オキュパンツ 」といったヒット曲を抱き合わせたというものである。 最も有名な曲、ミュージカル『』から取られた「月影のバルコニー〜泣かないでアージェンティーナ」やの「星空に愛を」などのカヴァーはいずれも合唱とオーケストラによる伴奏が加えられた。 シングル「星空に愛を」はイギリスではヒットしたが、アメリカのポップ・チャートでは32位止まりとなり、カーペンターズとしては初めてゴールド認定となる50万枚の売り上げに達することのなかったアルバムとなった。 この曲はのシングルとして発売され、1979年のアダルト・コンテンポラリーおよびカントリー・チャートの両方で1位を獲得し、リチャードの感性の正しさを証明した。 カーペンターズによる「ふたりのラヴ・ソング」と「星空に愛を」のミュージック・ビデオがDVD "" で観ることができる。 国内チャートでの成績はやや振るわなくなってきたとはいえ、カーペンターズはまだ十分な人気を維持していた。 1978年の初めには、アップテンポでを加味した「スウィート・スマイル」がカントリー・チャートで意外にもトップ10入りを果たした(ビルボード・ポップ・チャートではトップ40に若干及ばなかったが、アダルト・コンテンポラリーで7位、カントリー・チャートで8位を獲得した)。 この曲は後年カントリーやポップのスターとなるが作曲したものである。 イギリスでは2作目のベスト・アルバム "" が発売された。 一方アメリカではカーペンターズ初のクリスマス・アルバム『』が発売されてその季節の人気作品となり、勢いの衰えはじめたこの時期にあっては意外な売れ行きを見せ、カレンとリチャードに再びプラチナムをもたらした。 1980年代初頭 [ ] 1979年、リチャードはのリハビリ施設で薬物依存症からの回復を試みる。 その間にカレンはニューヨークに渡って、プロデューサーにを迎えた初のソロ・アルバムの制作を決意する。 彼女はこのアルバムのためにより大人向けでディスコ調の作品を選び、これまでのイメージを払拭しようと努めた。 カレンにとっては不幸なことに、このアルバムは発表しないものとする決定が下され、この作品の制作費として印税から50万ドル以上の負債を請求されたのである。 この決定に怒りを覚えつつも、ある面では慣れぬ仕事から解放されたカレンは、依存症から立ち直った兄と新しいアルバムの制作にとりかかる。 お蔵入りになったカレンのソロ・アルバムは1996年10月に『』としてリリースされるまで未発表だったが、録音された楽曲のうち4つは1989年のカーペンターズのアルバム『』の中で陽の目を見た。 その際に「イフ・アイ・ハド・ユー」はシングルとしてリリースされ、アダルト・コンテンポラリー・チャートで20位以内にランクインした。 カーペンターズは1980年に『』と題されたテレビの特番に出演し、やをはじめとする著名なゲストと共演した。 これはカレンがトム・バリスと結婚したのと同じ年に撮影されたもので、この時期のカレンは比較的健康な体重を取り戻していた。 1981年6月16日にリリースされたカーペンターズのデュオとしての次なるLP『』は、商業的には失敗に終わった。 この作品はアメリカでは、カレンが亡くなる1983年初頭までは20万枚ほどしか売れていなかった。 しかしながら、アルバムからシングル・カットされたロマンティックな「タッチ・ミー」はHot100で16位まで上昇し、全米ポップ・チャートにおける彼らの最後のトップ20ヒットシングルとなった。 この曲はビルボードのアダルト・コンテンポラリー・チャートでは彼らにとって15番目の首位記録作品でもある。 カレンのトーマス・ジェイムズ・バリスとの結婚や、彼女が患っていた拒食症などの個人的な問題は、グループの復帰に暗い影を落とした。 瞬く間に恋に落ちたあと、カレンは不動産業者のバリスとの結婚式をビバリーヒルズ・ホテルのクリスタル・ルームで盛大に行った。 1980年の8月31日に挙げられたこのセレモニーの中で、カレンは翌年に「タッチ・ミー」のカップリングとしてリリースされる、リチャードとベティスが書き下ろした楽曲「ウエディング・ソング」を披露している。 だが、結婚してから1年ほどの間に、彼女の容姿は変わり果てていった。 『メイド・イン・アメリカ』の販売促進用に制作されたビデオで窺えるその姿は、もはや彼女が重病人であったことを裏付けるのに十分な証拠といえるものであった。 カレンとバリスの結婚生活は惨憺たるものであり、彼らは1981年の終わりには別居する。 1982年、カレンは障害の診療を受けるためニューヨークの著名な心理セラピスト、を訪ね、この年の11月には仕事に復帰して離婚手続きを完了するためにカリフォルニアへ戻った。 カレンの甲状腺は通常のものであったが、新陳代謝を加速するために甲状腺の薬を通常の10倍服用していることが分かった。 これに加えて大量の下剤(日に90錠から100錠)を服用していたことが、彼女の心臓を弱める原因となった。 カレンの突然の死 [ ] ニューヨークの病院での2か月以上にわたる治療を経て、カレンは30ポンド(13. 6キログラム)以上も体重を戻したが、急激な体重の増加は、長年の無理なダイエットですでに弱っていた彼女の心臓に、さらなる負担をかけてしまった。 1983年の2月4日の朝、カレンはダウニーの両親の家で心肺停止状態に陥ってダウニー・コミュニティ病院に運ばれるが 、それから20分後に死亡が確認された。 彼女はその日、離婚届へ署名するつもりであったという。 検死によると、カレンの死因はに起因するの心毒性であった。 解剖学的な結論としては、心臓麻痺が第1の原因で、拒食症は第2の原因であった。 第3に挙げられるのがで、これは負担や衰弱としては非常に軽いもので、慢性的な疾患と関連した一般的な体の衰えというべきものであった。 エメチンの心毒性が死因であったことは、カレンが当時は簡単に入手できた薬である吐剤(誤って毒物を摂取してしまった人が即座に嘔吐できるようにするためのもの)を悪用していた可能性を示唆したが、明確な証拠はない。 彼女の告別式は1983年2月8日火曜日にダウニーの統一メソジスト教会で執り行われた。 カレンは白い開いた棺にピンクのドレスを着せて横たえられ、およそ1,000人の会葬者が最後の別れを告げた。 会葬者の中には、、、、、といった彼女の友人たちがいた。 別居中であったカレンの夫も葬儀に出席し、結婚指輪を外して棺の中に入れた。 1983年10月12日、のから2、3ヤードほどのところにカーペンターズの星型プレートが飾られた。 多くのファンと並び、リチャード、ハロルド、アグネス・カーペンターが除幕式に出席した。 カレンの死は拒食症だけでなく過食症に対してもメディアの注目を呼び寄せた。 カレンの死によって有名人たちも自らの摂食障害を公表するようになったが、その中にはやといった人々がいた。 医療センターや病院はこうした障害に悩む人々からの相談を受けることが多くなった。 カレンの死が大きく報道されるまでは、一般大衆の間では拒食症や過食症についてあまり知られていなかったため、症状を正確に認識して対処することは困難だったのである。 2003年12月、カレンと両親の遺骨がカリフォルニア州サイプレスのフォレスト・ローン記念公園から掘り起こされ、カリフォルニア州のピアース・ブラザーズ・ヴァリー・オークス記念公園に改めて埋葬された。 カーペンターズ以降 [ ] カレンの死後も、リチャードは未発表音源集やコンピレーション・アルバムなどデュオの作品のプロデュースを続けた。 『メイド・イン・アメリカ』やそれ以前のアルバムでお蔵入りになっていた完成曲を収録したアルバム『』は1983年の終りにリリースされ 、チャート46位に達してゴールド認定を受けた。 このアルバムからは2枚のシングルがカットされた。 「」はカレンのソロ・アルバム用に録音された曲の2つ目のヴァージョンである(1979年にによりマイナー・ヒットとなっていた)。 このシングルはアダルト・コンテンポラリー・チャートで第7位となったが、ポップ・チャートでは101位にとどまった。 次のシングル「ユア・ベイビー」はACチャート12位となったが、「バブル・アンダー」はチャート入りしなかった。 リチャード・カーペンターは1984年5月19日にメアリ・ルドルフと結婚した。 1987年8月17日には長女クリスティが、1989年7月25日には次女トレイシィが、1992年7月25日には三女ミンディ・カレン(叔母の名を継いだ)が生まれ、その後もコリンとテイラーが生まれた。 1984年、リチャードはデュオの最初のクリスマス・アルバム『クリスマス・ポートレイト』からのアウトテイクに新しい音源を加えた2枚目のクリスマス・アルバム『』を、カーペンターズの「新作」として制作した。 また1987年には、リチャード初のソロ・アルバム『』をリリースした。 このアルバムからは、をゲスト・ヴォーカルに迎えた「サムシング・イン・ユア・アイズ」がヒット・シングルとなった。 カーペンターズのイメージを守りレコードの版権管理をしていこうと務めるリチャードに対しては批判が集中した。 彼らを題材として扱うドキュメンタリーやドラマが制作されることになると、リチャードがそれらすべてに対して実質的な監督権を主張したためである。 1987年には、の自主制作短編映画 "" (カレンが衰えて早すぎる死を迎えるまでを、実際の女優ではなくを用いて描いている)の配給に介入した。 この映画のカレンに対する描写は同情的なものだったが、カレンの不幸を浮き立たせるために家族に対しては悪印象を与えるような表現がとられており、リチャードはカーペンターズの曲が無許可で使用されていることを根拠に訴訟を起こし、映画の配給を差し止めさせた。 1989年のテレビ映画『カーペンターズ・ストーリー』( ""、シンシア・ギブ主演)はリチャードの協力下に制作され、好意的な評価と高い視聴率を獲得した。 この映画の放映後数週間はレコード屋からカーペンターズの在庫がなくなったほどである。 カレンのソロ・アルバム『』は1996年10月にリリースされた。 ここに収録された楽曲は、ロック(をゲスト・ヴォーカルに迎えた「メイキング・ラヴ・イン・ジ・アフターヌーン」)からブルース(「ラスト・ワン・シンギン・ザ・ブルース」)まで、幅広いジャンルの音楽をカヴァーしている。 なお、このアルバムのプロデューサーであるはセテラがかつて所属していたバンド、の楽曲も数多く手がけている。 カレンが1979年から1980年にかけて録音した未発表のソロ曲は他にも9曲ある。 1997年にリチャードは自身のピアニスト・編曲家・作曲家としての才能のすべてを注ぎ込んだアルバムを録音して発表したが、そのタイトルはまさに "" というものであった(日本盤タイトルは『新たなる輝き:イエスタデイ・ワンス・モア』)。 日本におけるカーペンターズの人気は非常に高く、カレンの死後も長く続いた。 日本人でないアーティストのシングルが日本で大きく売れることは稀であるが、カーペンターズは例外である。 1995年には日本市場向けにリチャードが編纂した『青春の輝き:ヴェリー・ベスト・オブ・カーペンターズ』 "22 Hits of the Carpenters" がチャートトップを獲得し、2002年には出荷枚数300万枚を突破する。 2003年には300万枚突破記念盤として再発、2005年には10周年記念盤として再々発された。 近年の活躍 [ ] リチャード・カーペンターは、妻のメアリ・ルドルフ・カーペンターおよび4人の娘と1人の息子らとともにカリフォルニア州サウザンド・オークスに住んでおり、夫妻は芸術家の後援活動をしている。 2004年にリチャードと妻はカレンを記念したサウザンド・オークス市民芸術プラザ基金 Thousand Oaks Civic Arts Plaza Foundation に対し、300万ドルの寄付を行うことを公約した。 これを受けて2006年9月20日には初年度となる「リチャード・カーペンター奨学金コンクール・ショー」 Richard Carpenter Scholarship Competition Award Show が開催された。 ショーの後にはリチャードと娘のトレイシーやミンディも演奏した。 彼はカーペンター・センターの資金繰りを目的とすることも含めて、コンサート活動を継続している。 2001年にはで行われたペトゥラ・クラークの「サイン・オブ・ザ・タイムズ」コンサートにゲスト出演し、演奏の一部はCDやDVDでリリースされたほか、の特番で放映された。 2002年にリチャードはクラークをカーペンター・センターへ招いたり、クラークのCD "The Ultimate Collection" で客演するなどもしている。 2008年、アルバム『ナウ・アンド・ゼン』(1973年)のジャケットで有名になった、カリフォルニア州ダウニーのニューヴィル・アヴェニューにあるカーペンター家の家屋の取り壊しが間近に迫った際には、ファンによって抗議運動が展開された。 音楽と歌詞のスタイル [ ] 低音域の声 [ ] カーペンターズの音楽を特徴的なものにした要素の1つは、カレンの用いた低い音域の声である。 やの分野には見られたが、当時のポピュラー音楽の世界に歌手はほとんど存在しなかった。 しかし、カレンはおよそ3オクターヴにわたる広い声域をもっていたのである。 リチャードの声もカレンの歌声と非常に相補的なものだと評価されていた。 カレンは高い音域の声も出すことはできたが、低音(カレンは自分の "basement" と呼んでいた)ほど特質のあるものではなかった。 リチャードはカーペンターズのオフィシャル・サイトのファンからの質問のページで、カレンと自分は彼女の「」に魔法のようなものを感じており、音の豊かさという点では比較にならなかったため、彼女の高音を強調するつもりはまったくなかったと述べている。 カレンの「魔法」が低音域にあったため、リチャードはカヴァー曲はもちろん自作曲もカレンにふさわしいキーで編曲しなおした。 カーペンターズの曲の多くは(「ユー」「見つめあう恋」)、(「イエスタデイ・ワンス・モア」)、(「恋よさようなら」「リーズン・トゥ・ビリーヴ」「ふたりの誓い」「ユール・ラヴ・ミー」)などのキーを用いている。 カレンはこれらDからGまで、場合によっては、、も用いているが、こうした芸当のできる歌手は多くないことから、カレンの声域の広さはよく知られている。 ドラム演奏 [ ] 歌手であると同時にドラマーでもあったカレンは、1974年まではしばしばドラムも演奏していた。 リチャードによれば、カレンは自分を「歌えるドラマー」だと考えていた。 5フィート4インチ(163センチメートル)しかなかったカレンは、ライヴでドラムを演奏するとキットの陰に隠れてよく見えなかった。 やむをえず2人は、バラードの時にはカレンが立ち上がって歌い、それ以外のあまり有名でない曲の時には座るという妥協案を見出した。 年が経つにつれ、カレンがドラムを演奏している時にも彼女のヴォーカルを求める声が高まるようになり、カレンがドラムの前に座る時間は徐々に減っていった。 1976年のアルバム『見つめあう恋』のころには、カレンはまったくドラムを叩かなくなっていた。 アレンジ [ ] カーペンターズの音楽は、そのアレンジの見事さによって高く評価されている。 アレンジは大抵リチャードが担当し、その手腕は広く賞賛された。 アレンジの大半はクラシックのスタイルで、多くの弦楽器や、ときには金管楽器や木管楽器も用いた(「星空に愛を コーリング・オキュパンツ 」では、160人以上の歌手と演奏家を迎えている )。 著名な音楽評論家のダニエル・レビティンは "Electronic Musician" 誌において「リチャード・カーペンターこそ、ポップ・ミュージック界で最も才能あるアレンジャーの1人である」と述べている。 プロモーション活動とツアー [ ] 1969年の最初のアルバム『オファリング』に対するレヴューはあまり芳しいものではなく、カーペンターズのスタートは順調なものではなかったが、2人はの前座として自分たちのプロモートに励んだ。 1974年ののホテルにおけるコンサートのときに、リチャードはそのいきさつについて説明した。 映画『ハロー・ドリー! 』封切り後のベネフィット・ディナーの際にバカラックの方から彼らの元を訪れて、後日行われるバカラックのディナー・ショーの前座をやってみないかと誘ったのである。 このときにバカラックは自分の曲をどれでもいいからメドレーにして歌ってみろとの要求を出した。 カーペンターズは2か月をかけて8曲のメドレーをまとめ上げた。 このメドレーは全部で13分近くあったものを5分に短縮した上で1971年のアルバム『カーペンターズ』に収録された。 カーペンターズはコンサート・ツアーやテレビ出演などの過密なスケジュールをこなしていった。 彼らが出演したテレビ番組には『』 や司会の『』 、『キャロル・バーネット・ショー』( ""、1971年および1972年)、『マイク・ダグラス・ショー』( ""、1971年) などがあり、『・ショー』( ""、同じく1971年)では「ふたりの誓い」と「雨の日と月曜日は」を演奏した。 BBCのテレビ特番 "" では生演奏を披露している。 彼らはまた夏の間だけのシリーズ番組 "" で主演を務め、アメリカでは毎週火曜日の午後8時にで放送された。 1980年のラジオでのインタビューでカレンとリチャードのいずれもが、1970年代初めのテレビとの関わりにおいて自分たちはつけ込まれ利用されていたこと、その後の作品を制作してゆく上での支配権を握られそうになっていたことなどを述べている。 1973年5月には、時のアメリカ大統領と訪米中の西ドイツ首相からの招待を受け、ホワイトハウスで演奏することになった。 カーペンターズは1971年から1975年にかけて数多くのコンサートを行っている。 以下の表はリチャードが保存していた旅行記録に基づいたものである。 カレンは強迫観念的にダイエットをするようになり、やがてになって症状も進行していった。 この拒食症が最初に現われたのは、ラスヴェガスでのショーの途中でカレンが倒れた1975年のことである。 カレンは消耗しきっており、フィリピンとイギリスおよび日本へのコンサート・ツアーはキャンセルするよう命じられた。 リチャードはその時期の6、7日の過密スケジュールのことを後悔しており、現在明らかになったことを当時すでに知っていたら絶対にそのような日程には同意しなかっただろうと語っている。 カレンはシングル「オンリー・イエスタデイ」のミュージック・ビデオを撮影したころには(まだ病的ではなかったが)顕著に痩せて見えるようになった。 一方リチャードもメタカロン(催眠剤)の中毒に陥っており、1970年代後半には演奏に悪影響を及ぼしはじめ、これらをきっかけとして1978年に2人はライヴ・コンサートへの出演を辞めることとなった。 カーペンターズとして行った日本公演は、1972年、1974年、1976年の3回である。 1974年の日本公演では、武道館ではひばり児童合唱団と、京都では地元の合唱団(リチャードが「Kyoto Children's choir」と紹介していた。 )と「」を日本語で歌った。 テレビ特番 [ ] カーペンターズ主演のテレビ特番も非常に好評で、彼らは1970年代を通じてお茶の間にその姿を見せていた。 彼らは計5本のテレビ特番をもち、いずれも1976年から1980年にかけて放映された。 1976年12月8日放送の "" はヒット番組となり、アメリカの視聴率調査会社ニールセンのランキングでも第6位となった。 彼らのテレビ特番には大抵「shtick」(演出上の見せ場として、お決まりのギャグなどを演じる滑稽な場面)があり、リチャードはこれをたいへん嫌っていたが、カレンは気に入っていたようで、その個性をカメラの前で花開かせることとなった。 カーペンターズ最後のテレビ特番 "" は1980年5月に放送された。 この番組には「shtick」もなく、最初から最後まで音楽だけで構成されていた。 テレビ司会者のジョン・デヴィッドソンや有名なスタンダード歌手のエラ・フィッツジェラルドらがゲスト出演し、さまざまな歌を披露した。 この番組で演奏された曲の多くは2004年にアルバム『』収録曲としてCDでリリースされた。 カーペンターズのオフィシャルサイトで、このアルバムに収められた15曲のうち5曲が "Music, Music, Music! " から取られたものであると明記されている。 しかし、は純粋に音楽だけで番組を作るというカーペンターズの決定に不満を覚えていた。 ドキュメンタリー『リメンバー・ザ・カーペンターズ』 "" で、リチャードはABCのスタッフがこぼした「一体あいつらはこれを何だと思っているんだ? の番組か?」という言葉を引用している(PBSは教養番組を主とするアメリカの公共放送局で、日本ではにあたる)。 皮肉にも、このドキュメンタリーは翌1998年にMPIホーム・ビデオ社からDVDとして発売される前にPBSで放映された。 評価と影響 [ ] 音楽評論家からの酷評 [ ] カーペンターズの絶大な人気は、音楽評論家たちの批判をはねのける勢いをもっていた。 バラードやミドルテンポのポップスを中心とした2人の音楽性は、批評家たちから退屈で甘ったるいと斬り捨てられていたのである。 しかし、レコード業界は2人にいくつもの賞を授与した。 カーペンターズはそのキャリアにおいて3度のグラミー賞を受賞している(1970年に最優秀新人賞および「close to you」で最優秀ボーカル・グループ賞 、1971年に『スーパースター』で最優秀ボーカル・グループ賞 )。 また、1973年には、投票によって第1回の最優秀ポップ・ロック・デュオにも選ばれた。 多くの批評家たちから「ミルクを飲んで、アップル・パイを食べて、シャワーを浴びる」といった印象だと批判されたことに対して、リチャードはインタビューにおいてたびたび「自分はミルクなど好きではないし、ワインも飲む。 マリファナ合法化のために投票さえした」とまで言いながら、そうした評価を払拭しようと努めている。 カーペンターズの再評価 [ ] カーペンターズの本格的な再評価は、1990年代から2000年代にかけて各国で制作された、 "" (アメリカ)や "The Sayonara" (日本)、 "" (イギリス)などさまざまなドキュメンタリーによってもたらされた。 作品の技術的な質の高さや歌に奥底に秘められた悲しみ、カレンの歌声やその人生に刻まれた苦悩が多くのファンを惹きつけた。 彼女の特徴的なヴォーカルが、その後のポップ・ミュージックにや、といったアルト歌手を登場させる契機になったといわれている。 1990年に・バンドのは "Tunic Song for Karen " という曲を録音した(アルバム『』収録)。 これはカレンが新しい「友だち」のや、らの元を訪ねてもう一度ドラムを演奏するために家族へ別れを告げるという内容の歌である。 批評家からはそのサウンドが「ソフトすぎる」と批判されていたにもかかわらず、カーペンターズをへ入れるべきだとする運動や嘆願書が数多く存在する。 1994年のトリビュート・アルバム『』では、や、、、、といったアーティストによって、カーペンターズのヒット曲のオルタナティブ・ロック的解釈が試みられた。 カーペンターズの曲の多くは、もはやポップ・スタンダードとなっている。 特に「」などはで歌われることも多い。 この曲は『』で挿入歌として使用され 、『』の2つのエピソードや『』でも使われている。 「」はやから、に至るまで、数多くのアーティストによってカヴァーされた。 はテレビ番組『』でこの曲を歌い、若い世代にもこの曲を知らしめた。 「愛のプレリュード」と「close to you」は、その良質さと歴史的重要性からグラミーの殿堂入りを果している。 アーティスト達からの評価 [ ] 自分に大きな影響を与えた人物としてカレン・カーペンターの名を挙げている現代のアーティストには、、、、、、、、ケリー・ジョーンズ()、ジョニー・ボーレル()、ジョー・オメアラ()、などがいる。 はプロフィールにカーペンターズを「嫌いなアーティスト」として挙げていた。 その他 [ ] リチャードと妻メアリ・ルドルフ・カーペンターは、2007年にのフィランソロピスト(社会奉仕家)・オブ・ザ・イヤー賞を授与された。 ディスコグラフィ [ ] アメリカ合衆国のバンドカーペンターズのディスコグラフィは、14枚のスタジオ・アルバム、2枚のライブ・アルバム、11枚のコンピレーション・アルバム、3作の音楽ビデオ、1枚のトリビュート・アルバム、46枚のシングル、2枚のサウンドトラックにより構成される。 その経歴を通じて、カーペンターズは解散までにリード・アーティストとして30枚のシングルをリリースした。 この30枚のうち13枚がRIAAによってゴールドディスクに認定され、22枚がアダルト・コンテンポラリー・チャートのトップ10に到達した。 またカーペンターズは1969年から1983年までに10枚のアルバムを発表した。 そのうち6枚のアルバム(『close to you』、『カーペンターズ』、『ア・ソング・フォー・ユー』、『ナウ・アンド・ゼン』、『緑の地平線〜ホライゾン』、『見つめあう恋』)がビルボード・ホット100のトップ20入りした曲を収録している。 詳細は「」を参照 グラミー賞受賞歴 [ ] 1970年代を通じて、リチャードとカレンはグラミー賞に何度もノミネートされている。 リチャードはインストゥルメンタル曲『フラット・バロック』 "" によって、個人でもノミネートされた。 2人はグラミー賞を3度受賞し、2曲が殿堂入りを果している。 リチャードは仕上がったを一目見るなり最高の出来だと感じたと語っている。 その後カーペンターズのアルバムすべてにおいてこのロゴが使用されることになったが、ファンからは「なぜ『パッセージ』にだけこのロゴが使用されていないのか」という質問が多く寄せられている。 これに対しリチャードは裏ジャケットの下中央で使われているはずだと答えている。 広告曲 [ ] 日本でも現在に至るまでその人気は確かなもので、広告・ドラマの主題歌などさまざまなメディアで耳にする機会は少なくない。 また、彼ら自身が1970年代にのハイクラウンチョコレートや、のソフトドリンク、ポップのCMに起用されていたことがある。 英語教材 [ ] スローテンポで聴きやすいスタンダードポップス、音楽的にも優れた楽曲、覚えやすく歌いやすいメロディー、カレンの正確な発音、正しい英文法、基本的な単語で構成された歌詞、スラングがないこと、ヒット曲が多いこと……などから、などと共に「英語教材」としても一般的に広く薦められている。 脚注 [ ] []• Album notes for The Carpenters Gold:35th Anniversary Edition by The Carpenters. Erlewine, Stephen Thomas. Billboard. 2012年12月9日時点のよりアーカイブ。 2007年12月28日閲覧。 The Carpenters Official Website. 1-10. 2007年11月30日閲覧。 Costin, Carolyn 1999 , The Eating Disorder Sourcebook, New York, New York: McGraw-Hill Professional,• Zerbe, Kathryn J. 1995 , The Body Betrayed:A Deeper Understanding of Women, Eating Disorders, and Treatment, Carlsbad, California: Gurze Books, LLC. Wikipedia. 2019-11-18. youtube. [ carpenters wiki U. wikipedia. youtube. Television production, DVD. Los Angeles, California: Ralph Edwards Productions. , p. , p. LeadSister. 2007年12月29日閲覧。 , p. Videotape, DVD. MPI Home Video.. , p. , p. True Hollywood Story Television broadcast• , p. , p. , p. Carpenter, Richard 1969. Album notes for Ticket to Ride by The Carpenters. , p. , p. Cy Howard Director , Producer. 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Audio commentary for DVD. 20th Century Fox. Internet Movie Database. 2007年12月29日閲覧。 Internet Movie Database. 2007年12月29日閲覧。 VH1's Greatest Women of Rock and Roll• The Carpenters' Official Fan Club Newsletters, Issue 26. June, 1973. Richard and Karen Carpenter's Official Website. 2008年1月21日閲覧。 参考文献 [ ]• 1994 paperback. The Carpenters:The Untold Story 1st ed. Harper Collins Publishers. 『カレン・カーペンター:栄光と悲劇の物語』(1版) 福武書店、1995年。 ムック 『カーペンターズ 永遠の輝き』 共同通信社、1996年。 - (英語)• - (英語)• (日本語).

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