銀河 鉄道 の 夜 舞台。 銀河鉄道999

アクタージュファンに「想稿 銀河鉄道の夜」(ことのはbox)をオススメしたい!

銀河 鉄道 の 夜 舞台

初めてを読んだのは、小学校の4年生か5年生の時。 そのころ私はすでに重度の・読書好きであったにもかかわらず、わが家では本を買うという習慣がほとんど無かった。 あるのは姉たちが定期購読していた学習雑誌か、農業雑誌の「家の光」(ああ、懐かしい!)くらい。 そんなある日、めったにない事なのだが、父に誕生日に何が欲しいかと聞かれ、「本」と答えたのである。 父は「本か…」とつぶやいたような気もするが、ク(ホンダカブ)の後ろに乗せて町の本屋に連れていってくれた。 特に目当ての本があったわけではない。 一軒の本屋で『名作集 (少年少女世界名作全集)』( 1963. 25)を見つけたのは偶然である。 その時点でを知っていたかどうかは、憶えていない。 おそらく知らなかったのではないかと思う。 それを選んだ理由は思い出せないが、中身を少し読んで、どこか、何か、心惹かれるものがあったということなのだろう。 それを買ってもらい、さらにもう一軒別の店での『』も買ってもらったが、こちらの方は知っていた。 『』はすぐに読み終えた。 それなりに面白かったが、そのときはそれだけのことである。 この『名作集』は50年たった今現在、手元にあるのだが、「」、「」、「」等、代表的な童話はほぼ収録されており、詩が「」、「永訣の朝」ほか三篇、他に「その他の作品紹介」や解説等、今見ても良く構成された、充実した内容である。 詩についてはやや印象が薄いが、小学校の4・5年生にはちょっと難しかったのだろう。 中学校での「」との出会いまで待つ必要があった。 ちなみに同書の「」では、ジョバンニがカムパネルラの死を知る場面がに乗車する前におかれているが、現行ではそれが終りにおかれている。 同書に親しんだ私としては現行の配置転換はいまだになじめないところがあるのだが、後述の氏も同様だとのこと。 ともあれ、小学生の私にとって、初めて出会ったの作品は実に魅力的だった。 その世界にごくすんなりというか、ぬるりと入っていった感覚を、今も懐かしく思い出す。 その当時「異界」という言葉は、むろん知るよしもなかったろうが、それは間違いなく異界への入り口であった。 運命的な出会いだったといっても良い。 そして今に至るまで私にとって、は最も好きで、大切な文学者・詩人であり続けている。 似たような体験をへた賢治好きは多いだろう。 学生時代に知り合った友人S氏もまた幼時に母親の読み聞かせによって賢治好きになったとのこと。 しかしそのことを知ったのは、つい最近のことだ。 およそ美術以外のことは、あまり話題にしたことがない間柄なのである。 その彼が『童話「」の舞台は・南昌山』( 2010. 23 ツーワンライフ出版)という本を知っているかと言う。 についての本、研究書は多い。 それこそ山ほどある。 おそらくと双璧か、あるいはそれ以上、つまり日本で最も多く研究書・関連書が出ている文学者であろう。 あまりに多すぎるゆえに最近ではめったなことでは買わない、読まない。 なによりも筑摩書房の『校本 全集』全14巻が出て、さらにその後、『新校本 全集』全16巻+別巻1(全19冊)が出るにおよんで、その膨大さに圧倒されて、何かをあきらめたような気がする。 S氏が上述の本に載っている南昌山847. 5mに、の日に登り、頂上で一泊しようと言う。 詳しくは同書を読んでもらうに如くはないが、概要は「」の中の天気輪の柱のある丘が西方の南昌山であり、カムパネルラのモデルが中学校の一年先輩の藤原健次郎だという説を主として考証したものである。 ゆかりの地めぐりとしては、ちょっとした奇縁があって、三年前にその墓や賢治記念館、記念館、イギリス海岸などを訪ね歩いた。 だから、いまさらゆかりの地といってもそうは食指が動かない。 しかし、山登りとなればまた話が別だ。 できればかといきたいところだが、上述の主旨からすれば、標高に不足はあるが、仕方がない。 同書を一応読み終える頃には、それなりにというか、大いに興味が湧いてきた。 同書によればに乗ったのは、ケンタウル祭=の日ということであるが、いかんせん梅雨の真っ最中。 幸いS氏の都合もあり、一ヶ月ほどずらして早めの梅雨明けを期待したのだが…。 旅行全般についてS氏が、山登りについては私がという分担で、7月12日発。 昼前に着。 事前に依頼しておいたボランティアガイドの高橋さんと合流。 聞けば全国どこでもボランティアガイドが大流行りで、それはけっこうなことなのだが、最近はそれらの多くが有料となっているらしい。 それなりの理由あることなのだろうが、有料のボランティアというのも何だかなあ~、という気はする。 しかしここ岩手花巻では無料との由。 むろん抜かりのないS氏のことだから、あらかじめ手土産を用意してきたのはさすがである。 その高橋さんのガイドで、レンタカーで動く。 羅須地人協会の建物(現在、県立花巻農業高校に移築されている)、イギリス海岸、羅須地人協会跡地、賢治の生家、賢治の母の実家、田日土井の「と座禅」詩碑、賢治と宮沢家の墓、ぎんどろ公園(花巻農学校の跡地)、などを見て歩く。 田日土井の詩碑以外はすでに一度訪れているところだが、二度目には二度目の感慨があるが、本稿は「山」のカテゴリーなので、委細は省略。 昔ながらの湯治場の面影を色濃く残している宿である。 素泊まりとはいえ、布団と浴衣を借りて3000円とは素晴らしい!中でも昔の雰囲気をそのままとどめている白猿の湯の、豪壮かつ質朴な浴室空間は、私が体験した温泉の中でも最上位にランクされるものだった。 二日目の朝、駅で連絡しておいた『童話「」の舞台は・南昌山』の著者さんとお会いする。 駅の展示コーナーでたまたま開催中の「賢治が愛した南昌山と親友藤原健次郎 『童話』の舞台は南昌山」展の展示パネルを前に丁寧なレクチャーを受けた。 地方の在野の研究者として、地道かつ実証的な研究を続けてこられたその熱意が、痛いほどに伝わってきた。 標高は高くないが、美しく、また可愛らしい愛すべき山々の連なり。 こうして佇めば、百年の時を隔てて、少年の頃の賢治と共振しているような気がする。 現地に身を置かなければ見えないものがある。 来て、本当に良かったと思う。 詩碑の設置された山麓の「水辺の里」は、何年か前の出水でまだ荒れたままなのが惜しまれる。 幣懸 ぬさかけ の滝は、南昌山神社と山頂とを結ぶ、雨乞い神事の起点となる重要な場所である。 また、これから見るはずの山頂の「天気輪の柱」の石柱が柱状節理のものであり、その産地というか採取の場所がこの幣懸の滝だったのではないかという、私の机上の仮説を確認する上からも重要視していた。 ところが、滝に近づいてみると、何人かの男女がうごめいている。 見れば女性モデルが滝身で濡れながら、数名のスタッフに囲まれて撮影中である。 どうやら、色っぽいというか、怪しげな雰囲気のそれであるようだ。 私としては、もっと滝に近づかなければ地質的考察ができないのだが、ちょっと近づける雰囲気ではない。 仕方がない。 帰途に寄ることにして早々に立ち去る(ただし、帰途では後述するように雨が降っていたせいもあり、立ち寄り確認するのをすっかり忘れてしまった…)。 南昌山の肩に上がる林道の途中から右に入れば、すぐに南昌山神社。 ここまで松本さんに送ってきていただいた。 突然の物好きな旅人にもかかわらず、すっかりお世話になりました。 本当にありがとうございました。 この神社は年代(782~806年)にが山頂に造営し、16年(1703年)に青竜権現の祠が建てられ、合わせてそれまで毒ヶ森と呼ばれていた山名を「 南部(藩)繁 昌」の意をこめて南昌山と変えたとある。 さらにその後嘉永2年(1849年)に山麓の現在の地に移されたということである。 祭神は青龍権現で、雨乞いの山として古来より有名。 そのためか、谷文晁の『日本名山図譜』にも収録されている。 ここが今回のわれわれの出発点である。 しかし「 南部繁 昌」で南昌山というのも相当に現世御利益的な改名ではある。 ちなみに現在の毒ヶ森の名は南昌山のすぐ北西のピークに冠され、さらに少し離れた南西の和賀郡境にも同じ名前の山がある。 後者は残雪の頃にでも歩けば良い山のようだが、さて実現できるだろうか…。 ともあれ人里近い山は、色々と人間の都合で、改名させられたりするということなのだ。 実は、賢治たちが南昌山の山頂に登ったルートはどこか、という問題がある。 松本氏は前掲書や『新考察「」の誕生の舞台 物語の舞台が南昌山である二十考察』(2014. 1 ツーワンライフ みちのく文庫)において、賢治の描いた鉛筆スケッチをもとに、幣懸の滝の上流で北ノ沢から分かれた支流の金壺沢の右俣沿いに上る林道「盛岡庭線」と同じラインであった旧道を登ったものとされている。 このラインは地形的にももっとも容易なため、古くからあった道と重なっていると思われる。 現在でも南昌山を訪れる多くの人が辿るルートであり、肩まで自動車を利用して、1時間ほどで山頂を往復することができる。 賢治たちも基本的には、このルートを利用したのは間違いないだろう。 右下に延びる稜線が東稜、左下の線が金壺沢右俣=現在の林道ルート、下のが幣懸けの滝とされるが? ただし私は、絵を見る限りにおいては、道を描いたとされる左下の線は、金壺沢の右俣の沢筋を表現したものに見える。 実際には道は沢沿いにあったわけだから位置関係や意味合いとしては同じことなのであるが、絵の中のモチーフの扱いとしてはあくまで沢を描いたものだと思う。 それは山頂から右下方に伸びる木立の生えた稜線(東稜)の、具体的描写との対比からもそう思われる。 また、この道とされる線は上部で二ヵ所の分岐を示しており、それは沢筋を表現する時に自然と現れる表現様式である。 以上は絵描きとしての私の観点であり、また長く山登りをしながら記録としての「ルート図」を描いてきた経験から自然に導き出される結論である。 また松本氏は、画面下部の黒い点(染み)を幣懸の滝と同定されているが、右下方に伸びる稜線と、その向こう側に描かれた北ノ沢と思われる二本の線(その左のものはやはり途中で支流とも思われる線を派生させている)の位置関係からして、幣懸の滝ではないと思う。 幣懸の滝は、右下方に伸びる稜線が、北ノ沢と金壺沢が合流する地点で消失するさらに下流に位置するからである。 地形図と照らし合わせてこの絵を見れば、以上のことがより明快に見てとれよう。 むろん絵であるから、必ずしも忠実に実際を再現したものとはかぎらない。 しかしおそらく現場、もしくは実際の体験から間をおかずに描いたものであろうから、そうした場合、大きなデフォルメ(変形)は成されないものである。 では絵の中のこの黒い点(染み)は何かと言えば、現物を見ていないので断定はできないが、保存状態等に由来する単なる染み、汚れなのではないかと思う。 エックス線等の科学的調査を行えば真相は容易に判明することだろうが。 ともあれ、この林道のラインは地形的にも最も容易なため、古くからあった道とほとんど重なっていると思われる。 現在でも南昌山を訪れる多くの人が辿るルートであり、肩まで自動車を利用して、1時間ほどで山頂を往復することができる。 賢治たちも基本的には、このルートを利用したことは間違いないだろう。 しかしそれと別に、現在でももう一つ、側からのルートがある。 それがこの神社から山頂に伸びる東稜というべきルートなのである。 の地形図には破線は記されていない。 『分県別登山ガイド の山』(1993. 15 )でもふれられていない。 しかしネットで調べると容易に検索でき、それなりに登られていることがわかる。 山麓に神社がある場合、そしてそれが山とかかわりがある神社の場合、その山頂にはが置かれ、神社の裏手から直接登り始めるようになっているのが一般的である。 南昌山の場合、もともと山頂にあった神社を麓に移したという経緯がやや特殊ではあるが、山頂が(雨乞い)神事の場であるという意味で、神社と山頂の関係の深さは変わらない。 前記の林道のラインが生活と密着した容易なルートであることと、神事の場へのルートとしての東稜ルートが併存することは不思議ではない。 南昌山は「かつて活動していた火山が風化浸食を受け火道が露出した岩頸と呼ばれる地形」のため、下半はなだらかだが、釣鐘型の頂上から下、標高差250mほどの間はどの方向も傾斜がきつい。 林道からのルートは現在はが九十九折り状に整備され登りやすくなっているが、以前は一直線のやはり急傾斜だったようである。 つまり林道ルートも東稜ルートも、前半がなだらかで後半が急傾斜という構成は同じなのである。 だとすれば雨乞い神事の際に辿るルートは神社から東稜であったという可能性があり、山頂の「天気輪の柱」の所以を知っていたであろう賢治たちが少なくとも一度はその神事ルート=東稜を辿ったのではないかという可能性も考えられるのではないだろうか。 以上は私の、とりあえず机上の推論である。 東稜=神事ルートについては地元で調べれば容易に判明するだろう。 しかし、それはそれとして、正直に言えば、林道ルートで車で肩まで行き、そこから30分で頂上というのは、あまりに楽すぎて面白くないというのが本音だった。 多く賢治が辿ったであろう林道ルートは下りに歩くことにして、せめて登りは少しは面白そうな東稜からということにしたのである。 数年前に一度、箱根の駒ケ岳から神山、冠ヶ岳まで一緒に歩いたことがある。 体力等もそれなり、気心も良く知っている。 幸い天候も今日一杯はもちそうだし、2時間ほどの行程であり、不安はない。 神社わきの木の階段を上がり、登り始める。 若干急な所もあるが、よく歩かれており、歩きやすい。 なだらかな部分と時おりの多少の急な部分を繰りかえす。 熊を恐れるS氏のガランガランと鳴る鈴やら、ときおり吹く熊除けの笛がやかましい。 とはいえこの辺は熊の多数棲息する所ではあるらしい。 なめとこ山も峰続きだし。 実際途中で一か所、翌日もう一か所、少し古いものだが、熊の糞を見つけた。 ところどころに巨木も現れる。 さすが東北の山、独特の深さ、風情だ。 展望はほとんど無いが、百年前にひょっとしたらこの尾根を歩いたかもしれない賢治少年たちのことを思えば感慨深いものがある。 ここから頂上までが一気の急登である。 とはいえ標高差は250m、1時間足らずだ。 登り始めると、岩と木の根と湿った泥の急傾斜に張られたロープが連続するようになる。 ロープはマニラ麻で、湿った泥がこびり付き、コケまで生えている。 手がかりになるような結び目も無い。 旧式のロープ張りである。 三点確保を保ちながら、なるべく体重をかけずに、バランス保持程度につかまれと指示するが、S氏はそれどころではなさそうで、必死に両手でしがみついて登っている。 気持はわかるが、一番危ないパターンだ。 ロープに体重をかけると、場所によっては後続の者を弾くこともあるのだ。 歩幅を狭く、ゆっくり登れと言っても大股で息を切らせている。 確かにその気になれば、結構恐いところもあった。 途中二三度休憩をとって見下ろせば、樹が多いせいであまり高度感はないが、なかなかの急登であることは間違いない。 その分、私は楽しかったのであるが。 ルートとしてはやはり登り専用というべきであって、下りにはちょっとすすめ難い。 頂上は小広く、木立に囲まれている。 あの天気輪の柱(のイメージの源泉)と言われる奉納された石柱が何本も立っていた。 その内の何本かは柱状節理の特徴を示していた。 何体かのも鎮座している。 そしてこの山頂のどこかに、今も賢治の遺言に従って、一冊の『国訳』が埋められたままでいるのである。 いや、賢治はそのイメージの一半をこの山頂で形成したのか。 そして私はその現場に、遅れて今、佇んでいる…。 それやこれやとイメージと感慨が交錯し、何だかとりとめもなく時間が過ぎてゆく。 酒と賢治談義が弾む。 盛岡方面が見えるだけだ。 その方向に展望台というかテラスのようなものがしつらえられてある。 夜半からの雨が予想されることもあり、そのテラスの上にテントを張る。 夕食はコンビニで買ったおにぎりとインスタントみそ汁。 それなりに美味しくいただけた。 ただ一つ残念なのは、ぜひ見たいと思っていた山頂でのヒメボタル(姫蛍)の乱舞。 もうすでに出ていると言う情報もあったのだが、天候のせいかついに一匹も現れなかった。 「まるで億万のの火を一ぺんに化石させて、空中に沈めたという具合」、ああ、それを見るために、わざわざこの時期に山頂で泊まったのに。 仕方がないが、やはり残念である。 夜半、小便に起き出してみれば、しめやかな雨。 濃密なガスの中、天気輪の柱は静かに濡れていた。 簡単な朝食をとってのんびりと出発する。 雨はひとしきり本降りとなるが、問題はない。 林道までよく整備された擬木の階段の道を下る。 ちょっと整備しすぎと文句を言いたいところだが、歩きやすい。 舗装された林道を淡々と歩き、50分ほどで、車を置いた南昌山神社に着いた。 濡れた服を着替え、山行を終了した。 振返れば、休憩を入れても合わせてたかだか3時間半ほどの歩程だったが、変化のあるルートで楽しめた。 思索的要素の多い、印象深い山登りであった。 その日の午後は盛岡に行き、ともりおか啄木・賢治青春館を見る。 前者では万鐡五郎・松本峻介・船越保武の常設展を中心に見、後輩ののO氏と30余年振りで会う。 お互い年をとったもの。 年をとったからこそ再会できるのであろうが。 その夜はこれも賢治ゆかりのに泊。 やはり湯治部で素泊まり3000円。 湯も申し分なし。 ただし疲れからか、酒は弾まず、早々に寝入った。 【コースタイム】 7月13日 南昌山神社14:10~東稜~南昌山16:35 847. 5m 7月14日 南昌山8:45林道9:13~南昌山神社10:05 sosaian.

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「銀河鉄道999」と「銀河鉄道の夜」の関係

銀河 鉄道 の 夜 舞台

初めてを読んだのは、小学校の4年生か5年生の時。 そのころ私はすでに重度の・読書好きであったにもかかわらず、わが家では本を買うという習慣がほとんど無かった。 あるのは姉たちが定期購読していた学習雑誌か、農業雑誌の「家の光」(ああ、懐かしい!)くらい。 そんなある日、めったにない事なのだが、父に誕生日に何が欲しいかと聞かれ、「本」と答えたのである。 父は「本か…」とつぶやいたような気もするが、ク(ホンダカブ)の後ろに乗せて町の本屋に連れていってくれた。 特に目当ての本があったわけではない。 一軒の本屋で『名作集 (少年少女世界名作全集)』( 1963. 25)を見つけたのは偶然である。 その時点でを知っていたかどうかは、憶えていない。 おそらく知らなかったのではないかと思う。 それを選んだ理由は思い出せないが、中身を少し読んで、どこか、何か、心惹かれるものがあったということなのだろう。 それを買ってもらい、さらにもう一軒別の店での『』も買ってもらったが、こちらの方は知っていた。 『』はすぐに読み終えた。 それなりに面白かったが、そのときはそれだけのことである。 この『名作集』は50年たった今現在、手元にあるのだが、「」、「」、「」等、代表的な童話はほぼ収録されており、詩が「」、「永訣の朝」ほか三篇、他に「その他の作品紹介」や解説等、今見ても良く構成された、充実した内容である。 詩についてはやや印象が薄いが、小学校の4・5年生にはちょっと難しかったのだろう。 中学校での「」との出会いまで待つ必要があった。 ちなみに同書の「」では、ジョバンニがカムパネルラの死を知る場面がに乗車する前におかれているが、現行ではそれが終りにおかれている。 同書に親しんだ私としては現行の配置転換はいまだになじめないところがあるのだが、後述の氏も同様だとのこと。 ともあれ、小学生の私にとって、初めて出会ったの作品は実に魅力的だった。 その世界にごくすんなりというか、ぬるりと入っていった感覚を、今も懐かしく思い出す。 その当時「異界」という言葉は、むろん知るよしもなかったろうが、それは間違いなく異界への入り口であった。 運命的な出会いだったといっても良い。 そして今に至るまで私にとって、は最も好きで、大切な文学者・詩人であり続けている。 似たような体験をへた賢治好きは多いだろう。 学生時代に知り合った友人S氏もまた幼時に母親の読み聞かせによって賢治好きになったとのこと。 しかしそのことを知ったのは、つい最近のことだ。 およそ美術以外のことは、あまり話題にしたことがない間柄なのである。 その彼が『童話「」の舞台は・南昌山』( 2010. 23 ツーワンライフ出版)という本を知っているかと言う。 についての本、研究書は多い。 それこそ山ほどある。 おそらくと双璧か、あるいはそれ以上、つまり日本で最も多く研究書・関連書が出ている文学者であろう。 あまりに多すぎるゆえに最近ではめったなことでは買わない、読まない。 なによりも筑摩書房の『校本 全集』全14巻が出て、さらにその後、『新校本 全集』全16巻+別巻1(全19冊)が出るにおよんで、その膨大さに圧倒されて、何かをあきらめたような気がする。 S氏が上述の本に載っている南昌山847. 5mに、の日に登り、頂上で一泊しようと言う。 詳しくは同書を読んでもらうに如くはないが、概要は「」の中の天気輪の柱のある丘が西方の南昌山であり、カムパネルラのモデルが中学校の一年先輩の藤原健次郎だという説を主として考証したものである。 ゆかりの地めぐりとしては、ちょっとした奇縁があって、三年前にその墓や賢治記念館、記念館、イギリス海岸などを訪ね歩いた。 だから、いまさらゆかりの地といってもそうは食指が動かない。 しかし、山登りとなればまた話が別だ。 できればかといきたいところだが、上述の主旨からすれば、標高に不足はあるが、仕方がない。 同書を一応読み終える頃には、それなりにというか、大いに興味が湧いてきた。 同書によればに乗ったのは、ケンタウル祭=の日ということであるが、いかんせん梅雨の真っ最中。 幸いS氏の都合もあり、一ヶ月ほどずらして早めの梅雨明けを期待したのだが…。 旅行全般についてS氏が、山登りについては私がという分担で、7月12日発。 昼前に着。 事前に依頼しておいたボランティアガイドの高橋さんと合流。 聞けば全国どこでもボランティアガイドが大流行りで、それはけっこうなことなのだが、最近はそれらの多くが有料となっているらしい。 それなりの理由あることなのだろうが、有料のボランティアというのも何だかなあ~、という気はする。 しかしここ岩手花巻では無料との由。 むろん抜かりのないS氏のことだから、あらかじめ手土産を用意してきたのはさすがである。 その高橋さんのガイドで、レンタカーで動く。 羅須地人協会の建物(現在、県立花巻農業高校に移築されている)、イギリス海岸、羅須地人協会跡地、賢治の生家、賢治の母の実家、田日土井の「と座禅」詩碑、賢治と宮沢家の墓、ぎんどろ公園(花巻農学校の跡地)、などを見て歩く。 田日土井の詩碑以外はすでに一度訪れているところだが、二度目には二度目の感慨があるが、本稿は「山」のカテゴリーなので、委細は省略。 昔ながらの湯治場の面影を色濃く残している宿である。 素泊まりとはいえ、布団と浴衣を借りて3000円とは素晴らしい!中でも昔の雰囲気をそのままとどめている白猿の湯の、豪壮かつ質朴な浴室空間は、私が体験した温泉の中でも最上位にランクされるものだった。 二日目の朝、駅で連絡しておいた『童話「」の舞台は・南昌山』の著者さんとお会いする。 駅の展示コーナーでたまたま開催中の「賢治が愛した南昌山と親友藤原健次郎 『童話』の舞台は南昌山」展の展示パネルを前に丁寧なレクチャーを受けた。 地方の在野の研究者として、地道かつ実証的な研究を続けてこられたその熱意が、痛いほどに伝わってきた。 標高は高くないが、美しく、また可愛らしい愛すべき山々の連なり。 こうして佇めば、百年の時を隔てて、少年の頃の賢治と共振しているような気がする。 現地に身を置かなければ見えないものがある。 来て、本当に良かったと思う。 詩碑の設置された山麓の「水辺の里」は、何年か前の出水でまだ荒れたままなのが惜しまれる。 幣懸 ぬさかけ の滝は、南昌山神社と山頂とを結ぶ、雨乞い神事の起点となる重要な場所である。 また、これから見るはずの山頂の「天気輪の柱」の石柱が柱状節理のものであり、その産地というか採取の場所がこの幣懸の滝だったのではないかという、私の机上の仮説を確認する上からも重要視していた。 ところが、滝に近づいてみると、何人かの男女がうごめいている。 見れば女性モデルが滝身で濡れながら、数名のスタッフに囲まれて撮影中である。 どうやら、色っぽいというか、怪しげな雰囲気のそれであるようだ。 私としては、もっと滝に近づかなければ地質的考察ができないのだが、ちょっと近づける雰囲気ではない。 仕方がない。 帰途に寄ることにして早々に立ち去る(ただし、帰途では後述するように雨が降っていたせいもあり、立ち寄り確認するのをすっかり忘れてしまった…)。 南昌山の肩に上がる林道の途中から右に入れば、すぐに南昌山神社。 ここまで松本さんに送ってきていただいた。 突然の物好きな旅人にもかかわらず、すっかりお世話になりました。 本当にありがとうございました。 この神社は年代(782~806年)にが山頂に造営し、16年(1703年)に青竜権現の祠が建てられ、合わせてそれまで毒ヶ森と呼ばれていた山名を「 南部(藩)繁 昌」の意をこめて南昌山と変えたとある。 さらにその後嘉永2年(1849年)に山麓の現在の地に移されたということである。 祭神は青龍権現で、雨乞いの山として古来より有名。 そのためか、谷文晁の『日本名山図譜』にも収録されている。 ここが今回のわれわれの出発点である。 しかし「 南部繁 昌」で南昌山というのも相当に現世御利益的な改名ではある。 ちなみに現在の毒ヶ森の名は南昌山のすぐ北西のピークに冠され、さらに少し離れた南西の和賀郡境にも同じ名前の山がある。 後者は残雪の頃にでも歩けば良い山のようだが、さて実現できるだろうか…。 ともあれ人里近い山は、色々と人間の都合で、改名させられたりするということなのだ。 実は、賢治たちが南昌山の山頂に登ったルートはどこか、という問題がある。 松本氏は前掲書や『新考察「」の誕生の舞台 物語の舞台が南昌山である二十考察』(2014. 1 ツーワンライフ みちのく文庫)において、賢治の描いた鉛筆スケッチをもとに、幣懸の滝の上流で北ノ沢から分かれた支流の金壺沢の右俣沿いに上る林道「盛岡庭線」と同じラインであった旧道を登ったものとされている。 このラインは地形的にももっとも容易なため、古くからあった道と重なっていると思われる。 現在でも南昌山を訪れる多くの人が辿るルートであり、肩まで自動車を利用して、1時間ほどで山頂を往復することができる。 賢治たちも基本的には、このルートを利用したのは間違いないだろう。 右下に延びる稜線が東稜、左下の線が金壺沢右俣=現在の林道ルート、下のが幣懸けの滝とされるが? ただし私は、絵を見る限りにおいては、道を描いたとされる左下の線は、金壺沢の右俣の沢筋を表現したものに見える。 実際には道は沢沿いにあったわけだから位置関係や意味合いとしては同じことなのであるが、絵の中のモチーフの扱いとしてはあくまで沢を描いたものだと思う。 それは山頂から右下方に伸びる木立の生えた稜線(東稜)の、具体的描写との対比からもそう思われる。 また、この道とされる線は上部で二ヵ所の分岐を示しており、それは沢筋を表現する時に自然と現れる表現様式である。 以上は絵描きとしての私の観点であり、また長く山登りをしながら記録としての「ルート図」を描いてきた経験から自然に導き出される結論である。 また松本氏は、画面下部の黒い点(染み)を幣懸の滝と同定されているが、右下方に伸びる稜線と、その向こう側に描かれた北ノ沢と思われる二本の線(その左のものはやはり途中で支流とも思われる線を派生させている)の位置関係からして、幣懸の滝ではないと思う。 幣懸の滝は、右下方に伸びる稜線が、北ノ沢と金壺沢が合流する地点で消失するさらに下流に位置するからである。 地形図と照らし合わせてこの絵を見れば、以上のことがより明快に見てとれよう。 むろん絵であるから、必ずしも忠実に実際を再現したものとはかぎらない。 しかしおそらく現場、もしくは実際の体験から間をおかずに描いたものであろうから、そうした場合、大きなデフォルメ(変形)は成されないものである。 では絵の中のこの黒い点(染み)は何かと言えば、現物を見ていないので断定はできないが、保存状態等に由来する単なる染み、汚れなのではないかと思う。 エックス線等の科学的調査を行えば真相は容易に判明することだろうが。 ともあれ、この林道のラインは地形的にも最も容易なため、古くからあった道とほとんど重なっていると思われる。 現在でも南昌山を訪れる多くの人が辿るルートであり、肩まで自動車を利用して、1時間ほどで山頂を往復することができる。 賢治たちも基本的には、このルートを利用したことは間違いないだろう。 しかしそれと別に、現在でももう一つ、側からのルートがある。 それがこの神社から山頂に伸びる東稜というべきルートなのである。 の地形図には破線は記されていない。 『分県別登山ガイド の山』(1993. 15 )でもふれられていない。 しかしネットで調べると容易に検索でき、それなりに登られていることがわかる。 山麓に神社がある場合、そしてそれが山とかかわりがある神社の場合、その山頂にはが置かれ、神社の裏手から直接登り始めるようになっているのが一般的である。 南昌山の場合、もともと山頂にあった神社を麓に移したという経緯がやや特殊ではあるが、山頂が(雨乞い)神事の場であるという意味で、神社と山頂の関係の深さは変わらない。 前記の林道のラインが生活と密着した容易なルートであることと、神事の場へのルートとしての東稜ルートが併存することは不思議ではない。 南昌山は「かつて活動していた火山が風化浸食を受け火道が露出した岩頸と呼ばれる地形」のため、下半はなだらかだが、釣鐘型の頂上から下、標高差250mほどの間はどの方向も傾斜がきつい。 林道からのルートは現在はが九十九折り状に整備され登りやすくなっているが、以前は一直線のやはり急傾斜だったようである。 つまり林道ルートも東稜ルートも、前半がなだらかで後半が急傾斜という構成は同じなのである。 だとすれば雨乞い神事の際に辿るルートは神社から東稜であったという可能性があり、山頂の「天気輪の柱」の所以を知っていたであろう賢治たちが少なくとも一度はその神事ルート=東稜を辿ったのではないかという可能性も考えられるのではないだろうか。 以上は私の、とりあえず机上の推論である。 東稜=神事ルートについては地元で調べれば容易に判明するだろう。 しかし、それはそれとして、正直に言えば、林道ルートで車で肩まで行き、そこから30分で頂上というのは、あまりに楽すぎて面白くないというのが本音だった。 多く賢治が辿ったであろう林道ルートは下りに歩くことにして、せめて登りは少しは面白そうな東稜からということにしたのである。 数年前に一度、箱根の駒ケ岳から神山、冠ヶ岳まで一緒に歩いたことがある。 体力等もそれなり、気心も良く知っている。 幸い天候も今日一杯はもちそうだし、2時間ほどの行程であり、不安はない。 神社わきの木の階段を上がり、登り始める。 若干急な所もあるが、よく歩かれており、歩きやすい。 なだらかな部分と時おりの多少の急な部分を繰りかえす。 熊を恐れるS氏のガランガランと鳴る鈴やら、ときおり吹く熊除けの笛がやかましい。 とはいえこの辺は熊の多数棲息する所ではあるらしい。 なめとこ山も峰続きだし。 実際途中で一か所、翌日もう一か所、少し古いものだが、熊の糞を見つけた。 ところどころに巨木も現れる。 さすが東北の山、独特の深さ、風情だ。 展望はほとんど無いが、百年前にひょっとしたらこの尾根を歩いたかもしれない賢治少年たちのことを思えば感慨深いものがある。 ここから頂上までが一気の急登である。 とはいえ標高差は250m、1時間足らずだ。 登り始めると、岩と木の根と湿った泥の急傾斜に張られたロープが連続するようになる。 ロープはマニラ麻で、湿った泥がこびり付き、コケまで生えている。 手がかりになるような結び目も無い。 旧式のロープ張りである。 三点確保を保ちながら、なるべく体重をかけずに、バランス保持程度につかまれと指示するが、S氏はそれどころではなさそうで、必死に両手でしがみついて登っている。 気持はわかるが、一番危ないパターンだ。 ロープに体重をかけると、場所によっては後続の者を弾くこともあるのだ。 歩幅を狭く、ゆっくり登れと言っても大股で息を切らせている。 確かにその気になれば、結構恐いところもあった。 途中二三度休憩をとって見下ろせば、樹が多いせいであまり高度感はないが、なかなかの急登であることは間違いない。 その分、私は楽しかったのであるが。 ルートとしてはやはり登り専用というべきであって、下りにはちょっとすすめ難い。 頂上は小広く、木立に囲まれている。 あの天気輪の柱(のイメージの源泉)と言われる奉納された石柱が何本も立っていた。 その内の何本かは柱状節理の特徴を示していた。 何体かのも鎮座している。 そしてこの山頂のどこかに、今も賢治の遺言に従って、一冊の『国訳』が埋められたままでいるのである。 いや、賢治はそのイメージの一半をこの山頂で形成したのか。 そして私はその現場に、遅れて今、佇んでいる…。 それやこれやとイメージと感慨が交錯し、何だかとりとめもなく時間が過ぎてゆく。 酒と賢治談義が弾む。 盛岡方面が見えるだけだ。 その方向に展望台というかテラスのようなものがしつらえられてある。 夜半からの雨が予想されることもあり、そのテラスの上にテントを張る。 夕食はコンビニで買ったおにぎりとインスタントみそ汁。 それなりに美味しくいただけた。 ただ一つ残念なのは、ぜひ見たいと思っていた山頂でのヒメボタル(姫蛍)の乱舞。 もうすでに出ていると言う情報もあったのだが、天候のせいかついに一匹も現れなかった。 「まるで億万のの火を一ぺんに化石させて、空中に沈めたという具合」、ああ、それを見るために、わざわざこの時期に山頂で泊まったのに。 仕方がないが、やはり残念である。 夜半、小便に起き出してみれば、しめやかな雨。 濃密なガスの中、天気輪の柱は静かに濡れていた。 簡単な朝食をとってのんびりと出発する。 雨はひとしきり本降りとなるが、問題はない。 林道までよく整備された擬木の階段の道を下る。 ちょっと整備しすぎと文句を言いたいところだが、歩きやすい。 舗装された林道を淡々と歩き、50分ほどで、車を置いた南昌山神社に着いた。 濡れた服を着替え、山行を終了した。 振返れば、休憩を入れても合わせてたかだか3時間半ほどの歩程だったが、変化のあるルートで楽しめた。 思索的要素の多い、印象深い山登りであった。 その日の午後は盛岡に行き、ともりおか啄木・賢治青春館を見る。 前者では万鐡五郎・松本峻介・船越保武の常設展を中心に見、後輩ののO氏と30余年振りで会う。 お互い年をとったもの。 年をとったからこそ再会できるのであろうが。 その夜はこれも賢治ゆかりのに泊。 やはり湯治部で素泊まり3000円。 湯も申し分なし。 ただし疲れからか、酒は弾まず、早々に寝入った。 【コースタイム】 7月13日 南昌山神社14:10~東稜~南昌山16:35 847. 5m 7月14日 南昌山8:45林道9:13~南昌山神社10:05 sosaian.

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『銀河鉄道の夜』の物理

銀河 鉄道 の 夜 舞台

宮澤賢治の描いた『銀河鉄道の夜』 宮澤賢治の代表作のひとつでもある『銀河鉄道の夜』。 「もちろん知っている」という人も、「たしかに読んだことはあるはずなんだけど、どういう話だったか覚えていない」という人もたくさんいると思います。 かなり端折って説明すると、主人公のジョバンニが親友カムパネルラと一緒に「銀河鉄道」に乗って、銀河をめぐる旅をする話です。 特に日付の記載はありませんが、物語に登場する星座から、初夏から初秋にかけての物語だといわれています。 少年の心の揺れ動き、そしていうまでもなく、宮澤賢治の描く銀河の情景を楽しむことができる作品です。 天の川と銀河 宮澤賢治の描く『銀河鉄道』は「天の川」に沿って走っています。 ところで、みなさんは「天の川」が何かご存じでしょうか? 天の川は「銀河系」と呼ばれる、数千億個の星の集まりです。 そして、私たちが暮らす地球のある太陽系も、この「銀河系」の中にあります。 銀河系は真上から見ると大きな渦巻き型をしていますが、横から見ると凸レンズのような形をしていて、ちょうど太陽系から銀河系を眺めると、ひらべったい帯のような形に見えます。 これが私たちが見ている天の川なのです。

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