ショーロホフ。 開かれた処女地

静かなドン

ショーロホフ

農民、すなわち、宗教は勿論のこと伝統または因習と迷信にとらわれた農民、経験と伝聞による知識と知恵により生きている農民、時にユーモア、機知を働かすとはいえ感情のままに動きがちな農民、そうした農民が1917年の革命を経て熾烈な国内戦、戦時共産体制などの困難を潜り抜け、ネップを中止してコルホーズ建設に突き進もうとする政府の方針を受けて戸惑うところから物語は始まります。 自分の家畜、自分の持ち物という観念がしみついている農民に、私有財産を捨てコルホーズの共有とすべく、それらを供出せよ、という村指導部の方針は、農民に大きな困惑と抵抗をひきおこします。 富農(クラーク)は、家屋など財産の没収に抵抗し、反革命の組織化に密かに加担する者も出てきます。 村ソヴェートの強引な、時に教条的な機械化、集団化の押し付けに農民は戸惑い、抵抗し、コルホーズ加入・脱退が入り交じってゆきます。 反革命の陰謀は、血を見ることもありながら失敗に帰し、急進的な集団化の押し付けが試行錯誤の中で直されたりしつつ、指導部は経験を積み、集団化も紆余曲折を繰り返しながら次第に落ち着きを見せて行くところで、この物語は終っています。 この物語のなかに、農民のユーモアが披露され、恋の行方も面白く進行し、楽しく読ませます。 それらは、上記の筋にうまく彩りを添えていますが、いわゆる大衆小説的描写になっています。 自然描写も要所要所に細かに描かれます。 小説の常である主人公の活躍などはあまり表に出ないのですが、強いて主人公はと問われれば、コルホーズの組合長ダヴィドフでしょうか。 彼は、鉄工出身の水兵上がりの共産党員。 上部の司令を機械的に村民に押し付けたり、迷ったりしながら、農作業にも参加し次第に村民に融け込み首尾よくコルホーズを動かして行きます。 後家との恋、娘との恋も経験します。 訳者の解説によると、()では、その娘と結婚し、教養をつけさせようと農学校に通わせたりするのですが、彼は、反革命集団との戦闘でいのちを落とします。 コルホーズでは、ダヴィドフの功績を顕彰し、彼女の勉学を続け、幼い弟妹を抱える彼女の生活を支えることを決めるのだそうです。 勿論、こんなに平板な小説ではなく、ショーロホフというノーベル賞作家の手になるリアリズムが緻密にダイナミックに展開されています。 その時々の困難、矛盾、葛藤などが生き生きと語られるし、やや長めの独白や時には嘆きが、ドン・コサックの農民が持ったであろう楽天性とユーモアに富んだ小話として展開されることもしばしばです。 指導部の苦労は、多分あったであろう現実の程には描かれていないのではないか、と想像するのですが、それは、導かれる側の農民の心に寄り添って描こうとするショーロホフの立ち位置なのだろうと考えられます。 訳者の解説によると、人間の成長が描かれていない、というのは、この小説への世間の評価なのだそうです。 そういわれてみれば確かにそうなのですが、人間、それほど成長ばかりが大切ではなくて、泣いたり転んだり喜んだり偶に上手くいったりして喜ぶなど、紆余曲折のひとこまひとこまが大切だともいえるわけです。 そうしたことからすると、ショーロホフの人間描写のリアリズムはすごく上手くて、たとえばヤーコフ・ルキッチという中農のユーモアに満ちた人間像はとても魅力的です。 かれは、反革命の陰謀にも密かに加担しているのですが、それをかろうじて露呈させずに過ごし、その微妙な立場を楽天性、剛胆さ、中農としての所有欲などの混沌とした塊として興味深く描かれているのです。 貧農のシチュカーリ爺さんなども、道化たところが売り物の登場人物です。 ショーロホフの手腕のひとつが現れているところでしょう。 途中に、党員に誘われる人のことが描かれていて、それを躊躇する理由に、妻を持ちたいという希望や家畜など私有財産に拘る品性を変えられないから党員になる資格がない、と言う場面があるのですが、これは、当時の実際だったのか、共産主義の原理がどう理解されていたのかということから興味のあるところです。 女性は概して逞しいです。 ダヴィドフと関係するルーシュカもそうした女性であり、決して泣き言をいわないし、男と別れる(ダヴィドフだけではない)のに躊躇しない。 マリーナという寡婦も(戦争を潜り抜けたせいか、寡婦が多い)こだわりがない。 したたかな女性が多い印象です。 しとやかな女性としては、ヴァーリャしか登場しません。 全般に女性像は少しもの足りない感じがします。 なお、題名から想像される未開の原野の開拓風景は描かれませんから、ここでいう処女地とは何を指すのでしょうか。 この時代は、スターリンの独裁がどんどん進んでいった時代です。 それを1960年まで引っ張って完成させた裏には、いろいろな事情、葛藤、妥協などがあったと想像されます。 二枚舌もあったかも知れません。 描かれた指導部の硬直した官僚主義と呼べるであろう押しつけに関しては、それへの明確な批判は極めて弱いです。 ましてや、いわゆるスターリン主義への批判は極めて弱く、批判になっていません。 最終版の筋書きは、多分に体制礼賛的にみえるのですが、実際にその版に触れていませんので、よく分かりません。 しかし、事実を以て語らせるリアリズムという意味では、「静かなドン」ともども、当時のソヴィエト社会をかなり具体的に見せてくれるという意味で、社会批判になっているということは明確にいえそうです。 :私が読んだ本は、「オクチャーブリ」1955年第5号、第6号に掲載されたものの訳です。 その後、1960年に完成、最終版が出されました。 だから、私が読んだこの物語は未完の状態といえます。 最終版での変更概要は、末尾に掲げられた訳者の「解説」に記されています。

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マヤコフスキー 最後は拳銃自殺『150000000』『ズボンをはいた雲』

ショーロホフ

解説 ソヴェト文学に高位を占めるミハイル・ショーロホフの大長編小説の映画化。 この原作は一九二八年、作者二十一歳の時から筆をおこされ、人間的成長とともに書き進められて、十余年後に完成された。 ドン河流域のコサックの民族叙事詩のなかに、社会主義の時代における個人主義の悲劇が追求され、現実の多面性が、大河小説の流れのうちにとらえられる。 脚色と監督は「若き親衛隊」のセルゲイ・ゲラシーモフ、撮影はウラジミール・ラポポルト。 音楽はユーリー・レヴィティンである。 原作の舞台となっているウクライナの小村に、コサックの集落が復元され、五カ月にわたる大々的現地撮影が行われ、スタジオや、レニングラードでの革命のシーンにも、周到な準備と日数が費やされている。 出演者は「汽車は東へ行く」のピョートル・グレボフ、未輸入「未完成の物語」のエリナ・ビストリスカヤ、ジナイーダ・キリエンコ、ダニロ・イルチェンコ、ニコライ・スミルノフ等。 考証にN・オフリコフスキーとS・クジノフが当っている。 1958年製作/ソ連 原題:Quiet Flows the Don 配給:松竹 ストーリー 静かなドン河の流れに朝日のさす頃、タタルスキー・コサックの村は野営に行く兵士達を送る妻や家族達の声、馬のいななきで騒がしかった。 老兵パンテレイ・メレコフ(ダニロ・イルチェンコ)も息子ピョートルを見送った。 彼の下の息子グリゴーリー(ピョートル・グレボフ)は、美貌で我侭な性格の男だが、近所の出征したコサック兵の妻アクシーニヤ(エリナ・ビストリスカヤ)に横恋慕していた。 乾草作りが始まって村中が総出で草原に出るある日、アクシーニヤはグリゴーリーに身を任せた。 二人の噂は村にひろがり、やがて帰ってきた夫のステファンは、アクシーニヤを痛めつけた。 事を無事におさめようとした老パンテレイはナターリヤ(ジナイーダ・キリエンコ)という、気立のいい娘を息子の嫁にした。 しかし、少女のようなナターリヤを、グリゴーリーは愛さなかった。 父から責められ、グリゴーリーはアクシーニヤといっしょに村を出て、コサック軍の将軍リストニツキーの邸に住みこんだ。 傷心のナターリヤは大鎌で自殺を企て、一命はとりとめたが、首すじに消えない傷跡を残した。 アクシーニヤが女の子を生んで間もなく、第一次大戦が起ってグリゴーリーは出征し、オーストリヤ兵と戦った。 勇敢なコサックとして戦って邸にかえった彼を待っていたのは、赤児の死と、アクシーニヤが将軍の息子で、士官のエフゲーニーと通じているという事実だった。 遠乗りにエフゲーニーをつれ出し、鞭で彼をたたきのめしたグリゴーリーは、ドンのほとりの故郷の村の、ナターリヤの所にかえった。 それから三年、大戦の戦火は止どまるところをしらず、コサックは再び動員を受けた。 三年の間、ロシヤ全土を包んだ戦火は、そこに生活する総ての人間を社会変動の波にまきこんだ。 グリゴーリーは、いまや胸に勲章を飾りながら、戦いというものの意味について考える古参兵だった。 コサックの士官ブンチェクは革命の到来を予言した。 泥濘と寒気の戦場の中で、ドイツ軍は毒ガスを使い、コサックは敗走した。 故郷の妻ナターリヤが双児を生んだのは丁度この頃だった。 そして、ロシヤ帝制政治のくつがえる日がきた。 ケレンスキー仮政府が政権を樹立したが、民衆と軍隊はまだ不満を持っていた。 内戦の勃発。 コサック達は、代表者大会を開いて、彼等の去就を決しようとした。 グリゴーリーはボルシェヴィキ派に身を投じていた。 大会はコサック軍事革命委員会を設立し、ボルシェヴィキ派のボッチョールコフ以下の対策委員を、白軍のカレディン将軍のもとに送ったが、彼等は捕虜の如き待遇をうけた。 白軍との間に戦いが起り、コサックは白軍を撃退した。 白軍の隊長はボッチョールコフに殺された。 仲間同士が血で血を洗う争いを目のあたりにしたグリゴーリーは、ボルシェヴィキの戦列から離れ、懐疑にとらえられて故郷にかえった。 家族は歓びの声をあげて彼を迎えた。 勢いを盛りかえしたドン地方の白軍コサックは動員を開始した。 グリゴーリーは白軍将校として逃亡コサック検束に当った。 ボッチョールコフ以下の軍事委員が、逮捕されて村の広場で次々と処刑された。 同胞が、同胞の手にかかって殺されていく凄惨な光景。 二つの陣営の対立する異常な時代のまっただ中にある自分達を、コサックたちは今更ながらひしひしと感じていた。

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人間の運命 / ショーロホフ【著】/米川 正夫/漆原 隆子【訳】

ショーロホフ

農民、すなわち、宗教は勿論のこと伝統または因習と迷信にとらわれた農民、経験と伝聞による知識と知恵により生きている農民、時にユーモア、機知を働かすとはいえ感情のままに動きがちな農民、そうした農民が1917年の革命を経て熾烈な国内戦、戦時共産体制などの困難を潜り抜け、ネップを中止してコルホーズ建設に突き進もうとする政府の方針を受けて戸惑うところから物語は始まります。 自分の家畜、自分の持ち物という観念がしみついている農民に、私有財産を捨てコルホーズの共有とすべく、それらを供出せよ、という村指導部の方針は、農民に大きな困惑と抵抗をひきおこします。 富農(クラーク)は、家屋など財産の没収に抵抗し、反革命の組織化に密かに加担する者も出てきます。 村ソヴェートの強引な、時に教条的な機械化、集団化の押し付けに農民は戸惑い、抵抗し、コルホーズ加入・脱退が入り交じってゆきます。 反革命の陰謀は、血を見ることもありながら失敗に帰し、急進的な集団化の押し付けが試行錯誤の中で直されたりしつつ、指導部は経験を積み、集団化も紆余曲折を繰り返しながら次第に落ち着きを見せて行くところで、この物語は終っています。 この物語のなかに、農民のユーモアが披露され、恋の行方も面白く進行し、楽しく読ませます。 それらは、上記の筋にうまく彩りを添えていますが、いわゆる大衆小説的描写になっています。 自然描写も要所要所に細かに描かれます。 小説の常である主人公の活躍などはあまり表に出ないのですが、強いて主人公はと問われれば、コルホーズの組合長ダヴィドフでしょうか。 彼は、鉄工出身の水兵上がりの共産党員。 上部の司令を機械的に村民に押し付けたり、迷ったりしながら、農作業にも参加し次第に村民に融け込み首尾よくコルホーズを動かして行きます。 後家との恋、娘との恋も経験します。 訳者の解説によると、()では、その娘と結婚し、教養をつけさせようと農学校に通わせたりするのですが、彼は、反革命集団との戦闘でいのちを落とします。 コルホーズでは、ダヴィドフの功績を顕彰し、彼女の勉学を続け、幼い弟妹を抱える彼女の生活を支えることを決めるのだそうです。 勿論、こんなに平板な小説ではなく、ショーロホフというノーベル賞作家の手になるリアリズムが緻密にダイナミックに展開されています。 その時々の困難、矛盾、葛藤などが生き生きと語られるし、やや長めの独白や時には嘆きが、ドン・コサックの農民が持ったであろう楽天性とユーモアに富んだ小話として展開されることもしばしばです。 指導部の苦労は、多分あったであろう現実の程には描かれていないのではないか、と想像するのですが、それは、導かれる側の農民の心に寄り添って描こうとするショーロホフの立ち位置なのだろうと考えられます。 訳者の解説によると、人間の成長が描かれていない、というのは、この小説への世間の評価なのだそうです。 そういわれてみれば確かにそうなのですが、人間、それほど成長ばかりが大切ではなくて、泣いたり転んだり喜んだり偶に上手くいったりして喜ぶなど、紆余曲折のひとこまひとこまが大切だともいえるわけです。 そうしたことからすると、ショーロホフの人間描写のリアリズムはすごく上手くて、たとえばヤーコフ・ルキッチという中農のユーモアに満ちた人間像はとても魅力的です。 かれは、反革命の陰謀にも密かに加担しているのですが、それをかろうじて露呈させずに過ごし、その微妙な立場を楽天性、剛胆さ、中農としての所有欲などの混沌とした塊として興味深く描かれているのです。 貧農のシチュカーリ爺さんなども、道化たところが売り物の登場人物です。 ショーロホフの手腕のひとつが現れているところでしょう。 途中に、党員に誘われる人のことが描かれていて、それを躊躇する理由に、妻を持ちたいという希望や家畜など私有財産に拘る品性を変えられないから党員になる資格がない、と言う場面があるのですが、これは、当時の実際だったのか、共産主義の原理がどう理解されていたのかということから興味のあるところです。 女性は概して逞しいです。 ダヴィドフと関係するルーシュカもそうした女性であり、決して泣き言をいわないし、男と別れる(ダヴィドフだけではない)のに躊躇しない。 マリーナという寡婦も(戦争を潜り抜けたせいか、寡婦が多い)こだわりがない。 したたかな女性が多い印象です。 しとやかな女性としては、ヴァーリャしか登場しません。 全般に女性像は少しもの足りない感じがします。 なお、題名から想像される未開の原野の開拓風景は描かれませんから、ここでいう処女地とは何を指すのでしょうか。 この時代は、スターリンの独裁がどんどん進んでいった時代です。 それを1960年まで引っ張って完成させた裏には、いろいろな事情、葛藤、妥協などがあったと想像されます。 二枚舌もあったかも知れません。 描かれた指導部の硬直した官僚主義と呼べるであろう押しつけに関しては、それへの明確な批判は極めて弱いです。 ましてや、いわゆるスターリン主義への批判は極めて弱く、批判になっていません。 最終版の筋書きは、多分に体制礼賛的にみえるのですが、実際にその版に触れていませんので、よく分かりません。 しかし、事実を以て語らせるリアリズムという意味では、「静かなドン」ともども、当時のソヴィエト社会をかなり具体的に見せてくれるという意味で、社会批判になっているということは明確にいえそうです。 :私が読んだ本は、「オクチャーブリ」1955年第5号、第6号に掲載されたものの訳です。 その後、1960年に完成、最終版が出されました。 だから、私が読んだこの物語は未完の状態といえます。 最終版での変更概要は、末尾に掲げられた訳者の「解説」に記されています。

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