みこ おり く 答え。 みこ|フリマアプリ ラクマ

みこころ庵: March 2005

みこ おり く 答え

数日前、、、 ーーーーー 「お慕いしておりますわ」 「あぁ、、、うん。 ……ごめん。 その気持ちには答えられない。 本当に、、、」 ーーーーーーーーーーーー 現在、、、 わかりきってたことだった お姉様は他の誰かを好きになるって 最初からわかってた でも1度でいいから告白したかった フラれる覚悟で告白した 案の定フラれてしまったけど だからもうこの恋は封じる 何事も無かったかのように 普通に接する 思えばこれが元凶だったのかもしれない 自分の中では普通に接せれてると思ってた でも何故かお姉様は急に態度が変わった私を見て気にかけるようになった 前までは無視したり、違う話で流したりしてたあのお姉様が今では、 『大丈夫?』『黒子、最近ヘンだからさ、、、』 『ちゃんとご飯食べれてる?』『顔色悪いよ?体、休めないと倒れるよ?』とか、、、 妙に優しすぎるんだな、これが。。。 」 「っ?!」 「どうしたの?さっきから呼んでもずっと無視で。 」 しまった…… 本当に忘れて欲しかったのに、、、 「ねぇ黒子。。 黒子はさ、まだ私の事……好きなの??」 「……えっ、、、?」 「って、ご、ごめん!!私、なんか、無神経な事聞いたよね?!ほんっとごめん、、、」 「い、いや、、、私はもう、お姉様のことなんか、好きじゃありませんわ」 なんで…… なんで? なんでこんな嘘、、、ついてしまったんだろう 「あぁー、、、そっか……うん、そうだよね、、、間に合わなかった、、、か。。 」 ……え? 間に合わなかった?何が? 「私ね、本当は黒子のこと好きだったんだ。 」 「じゃあ、なんで……」 「あの時はまだ、んー、なんていうかな、、、 自分の気持ちに整理がつかなくって、あんな形になっちゃって、、、申し訳ないなって思った。 」 「…………自分勝手なんですのね、、、」 どっちがだ 勝手に怒って、勝手に拗ねて、 お姉様は何も悪くないのに、 「……え?」 あぁもうほら、困ってる 先輩が心配してる そんな顔してほしくないのに 「黒子ーー、なんで泣いてるの?」 「っへ、、、?」 すぐに顔を両手で覆う 涙なんて人に見せるものじゃない ましてや好きな先輩に 告白した大好きな先輩の前で泣くなんて 恥でしかない 「ごめっ、なさい、、、なんで、、?目にゴミが入ってしまったのでしょうか、、、ははっ……」 なんて子供でもわかる嘘をついて、、、 「黒子ーーー、顔、あげて?」 私の方に近づいてくるお姉様 「ぃやでっ、すの、、、」 お姉様と私の距離それはもう数センチって感じで ほぼ目の前 「いいから」 「泣いてる顔なんて、見せたくありませんの…!! 」 「なんで?私は泣いてる黒子も知っておきたいのに、、、怒ってる黒子も、笑ってる黒子も。 困ってる黒子、疲れてる黒子。 全部、ぜーんぶ、知っておきたい。 それは、私が黒子のこと大好きだからだよ? だから、黒子のこと知りたい。 もっと黒子のことを好きになりたい!! それじゃあ、だめ??」 「もっ、おねぇさまっ、は、ずるいですのっ!!! っひっ、く」 「えぇ?ずるい?? ってあ、やっと顔上げてくれた。 」 「っ!! 私は今でもお姉様のこと、大好きですのっ!!! 嬉しいよ?私も、 本当に好きなのは黒子だよ?」 「じゃあどうして一度フッたのですか!?」 「フッた?誰が?いつ?私そんなこと言ったっけ?」 ・・・お姉様は馬鹿でいらっしゃいますか? 「言いましたの!!!! ちゃんと。 確かに言いましたの!!! あの時はまだ、気持ちの整理がついてなくて、、、紛らわしかったね?勘違いさせてごめん。。

次の

コンサルタント集客にワードプレスがおすすめな理由。現役コンサルタントがまるっとお答えします。|コンサルタントスクール フルマリアカデミー

みこ おり く 答え

31) 扨 (さて)、例の 「有識者会議」が、「女帝」 (女性天皇)容認と共に、「女系」皇族の皇位継承をも容認する答申を出しました。 これに対し、読売新聞社の世論調査 (平成17年12月10・11日実施)により、国民の73%が女性天皇容認、同じく60%が女系天皇容認、と言う結果が出たそうです。 然 (しか)し、私は「ちょっと待て!! 」と言いたい。 調査に参加し 回答した人達は、「女性」天皇と「女系」天皇の区別が果たしてきちんと出来ているのだろうか? 過去にを含め十代八方の女帝が存在した、その事だけで単に「賛成」等と言ってはいないだろうか? だとすれば、そう言った人達には今一度、 「女性」天皇と「女系」天皇の違いについて、しっかり勉強して貰いたい、と私は思う訳です。 そこで、今回は、過去に即位なされた十代八方の女帝お一人お一人について、系図を使って分かり易く見ていく事にしたいと思います。 史上初の女帝と言えば、飛鳥時代の第33代(在位 592-628)が思い浮かぶと思いますが、実は以前、日本には分かっているだけでも少なく共、二方の女帝が存在していました。 お一方は、第14代仲哀天皇の皇后で、夫帝崩後、身重 (みおも)の身体 (からだ)を押して(201-269)し、子の第15代応神天皇に皇位を継承させた神功 (じんぐう)皇后。 そして、もうお一方は、第22代清寧天皇の崩後、第23代顕宗天皇の即位迄の間、(484-485)と称して、政務を執 (と)った忍海飯豊青皇女 (おしぬみのいいとよあおのひめみこ)です。 神功皇后、忍海飯豊青皇女共に、現在の皇統譜に於いては、天皇とは認められず、当然の事乍 (なが)ら歴代からも除外されている訳ですが、明治以前は、に先立つ女帝として、神功皇后は第15代「神功天皇」、忍海飯豊青皇女は第24代「忍海飯豊青尊 (みこと)」・「飯豊天皇」と、それぞれ、歴代に数えられていました。 因 (ちな)みに、貴人に対する尊称として、古代の日本では「ミコト」を用い、漢字では通常「命」と表記しますが、こと天皇及び天皇に準じた待遇の皇族に対しては、「命」と区別する意味から「尊」と表記されていました。 (例:日本武尊(やまとたけるのみこと)。 但し、『常陸国風土記』等には、「倭武天皇」(やまとたけるのすめらみこと)と記載されており、天皇として即位していた可能性も否定出来ない。 次に、一般に日本史上初の女帝とされているについて見ていきます。 は、第29代欽明天皇の皇女ですから、「男系女子」による継承と言う事になります。 次に、大化改新期の女帝、(在位 642-645,655-661)について見ていきます。 は、敏達天皇の子、押坂彦人大兄皇子の子で第34代舒明天皇の兄である茅渟王 (ちぬのおおきみ)の王女ですから、「男系女子」による継承と言う事になります。 は抑 (そもそ)も、叔父である舒明天皇の皇后でしたが、夫帝の崩後、即位しました。 次に、五代四方の女帝が相次いで即位し、「女帝の世紀」共称される白鳳〜天平 (てんぴょう)時代=奈良時代について見ていきます。 第41代持統天皇(称制 686-689,在位 689-697)と第43代元明天皇(称制 707,在位 707-715)は、第38代の皇女ですから、「男系女子」による継承と言う事になります。 持統天皇はの「弟」である第40代天武天皇 (「天武天皇」については、史書の記述の矛盾から、の弟では無かったと考える。 これに付いては、コラムを別途参照されたい)の皇后でしたが、夫帝の崩後、3年間のを経て即位。 一旦は、大炊王 (おおいのおおきみ:第47代淳仁(じゅんにん)天皇)に譲位しますが、これを廃して重祚しました(称徳天皇:在位 764-770)。 光仁天皇崩後は、皇子の桓武 (かんむ)天皇が即位し、以後、この皇系が王朝時代 (平安朝)に於ける皇統を継承していく事となりました。 最後に、年代的に一番近い江戸時代の二女帝について見ていきます。 寬永6(1629)年、時の帝、第108代後水尾 (ごみずのお)天皇は、等に於ける徳川幕府からの朝廷への干渉の「当て付け」として、33歳の若さにして突如、第二皇女の女一宮興子 (おきこ)内親王への譲位を強行しました。 これが、称徳天皇の崩御より実に859年ぶりに復活した女帝、第109代明正 (めいしょう)天皇(在位 1629-1643)です。 その間、在位9年。 以後、今日 (こんにち)に至る迄、凡 (およ)そ235年の間、女帝は即位していません。 そして、今次、「女系」による皇位継承をも認めると言う事は、今迄連綿と受け継がれてきた皇室の「伝統」を破壊する事であり、一種の 革 命 にも匹敵する一大変革である訳です。 天皇家に男子が居らず、直 (じき)宮家にも男子が居 (い)ない。 そして、旧宮家にも、旧皇別摂家にも男子が居ないと言うのであれば、それはそれで止むを得ない共思います。 然し、現実には「皇統のスペア」としての「プリンス」が存在している。 であれば、連綿と続いてきた皇室の「伝統」を安易に変えずに、「皇統のスペア」から天皇を輩出しても良いのではないか? 斯 (か)くも拙速に「女帝」・「女系」を持ち出しても良いものなのか? 私は改めて皆さんに問いたい。 そして、安易に「女帝」・「女系」に賛成している人々に対しては、戒 (いまし)めの意味から以下の諺 (ことわざ)を以て再考を促したい、と思います。 即 (すなわ)ち、 覆水盆に返らず と。

次の

三宮のもみこパークはリラクゼーションサロンです

みこ おり く 答え

「何をするにしても神様が相手。 人が知ろうが、知るまいが、神様が全てみていらっしゃる」 これは神社で引いたお神籤ですので、当然 マーヤですが神々様(注)が私に下さったメッセージです。 その意味するところは、結構深いですよ~。 畏れ多いことですが、試みに神々様のお教えを解釈してみようと思います。 (注)神々様とは、唯一なる神様が創造された、吉凶禍福を人に授ける存在です。 仏菩薩、自然神、人格神、祖霊、聖霊や妖精の類まで、人類に信仰されてきた、ありとあらゆる名前を持つ神聖な存在を、唯一なる神様と区別して神々様と呼びます。 名前や属性を持つ時点で相対しているため当然マーヤ的存在ですが、それが故に人に自然、超自然的な恩恵や災禍を与える力も持ちます。 そしてこの 神々の力が動くのも唯一なる神様のみこころの内なのです。 まず全ての存在が神ですから、当然[何をするにしても神様が相手]ですね。 そして同じく全ての存在が神なのですから、個々人が悟っていようがいまいが[人が知ろうが、知るまいが]、その個々人の意志に関係なく全てを唯一なる神が行っていらっしゃる[神様が全てみていらっしゃる]訳です。 うわぁぁ~伊豆山の神々様、すげぇぇ~っ!オレにこれを伝えるかっ!!これの意味分かる人少ないかも。 (調子に乗るな<自分) 解釈がこじつけだって?いいんだよ、どう解釈しようが。 これはオレ宛のメッセージだから。 (笑) 25日の港区金曜講話会は、神様が降りてきました。 降りてきた時点で、マーヤであり唯一なる神ではないのですが、岩城先生はその一部である母なる神(マハーマーヤ)が動いているとおっしゃっていました。 これからの時代は、創造、共存、母性や女性性がキーワードらしいです。 その前に、再創造のための破壊があるのですが、それも全てみこころです。 来るものは全て神が行うことですから、委ねるしかないでしょう。 ただ、一言に委ねると言っても、全て任せて 努力を放棄することではありません。 ここら辺は、私も混乱したのですが、必要な努力は嫌でもさせられますので、みこころにある学びを怠けることはできないようです。 神のタイムスケジュール通りに進むように、必要なときに必要なマーヤがやってきます。 27日の文京区講話会もマーヤがテーマとなり、様々なエネルギーが降りてきました。 講話会も全て神様が行っていることです。 岩城先生が神様のことをお話になるという神のみこころがあり、私たちが当日参加できて、その話を聞くことができるのもみこころです。 全て神が行っていることであり、本当は私たちの意志はありません。 全て神が決めています。 そしてどんなトラブルがあってもすべてみこころです。 これにどんな意味があるのか、後になってみないと分からないと思いますが、今はエネルギーの交錯する時期なのだと思います。 ひょっとするとリトリートの前ふりなのかも知れません。 私はみこころも神も分かっていませんが、「神のみこころ」という概念が間違いなく存在し、起こることだけは、ここ4年ばかり岩城先生の周囲に起きる様々な出来事を通して確信しました。 そして神そのものも分からないまでも、信頼できる確固たる存在として実在すると信じております。 なぜならそれが今の私に示されたみこころだからです。 そしてこのブログを書いている私も、お読みに下さっている方々も神のみこころによってそうなっていると思うのです。 さてさて続きまして覚醒たら何が変わるのか?についてお話ししましょう。 (私は全く経験ないので分かりませんが…)既に覚醒した数名の方々の聞き込み調査によると… そのとき、時が止まり、大天使が祝福のラッパを吹きながら光臨して、共に仏菩薩が神秘の光と共に来迎し、超能力を授かる…な~んてことは 全くないそうです。 (残念っ!) 早い話が普通で、現実は今までと何にも変わらないそうです。 (神はあるがままなの自然の姿なので、超常的な能力の獲得もアリマセン)ただ「自分が誰か?」(=神と同じ存在)と分かると言うことは、認識に対して相当な衝撃を与えるようで、大きな意識的な変化はあるそうです。 そして自分本来の状態(絶対的な神の認識)を思い出すと、マーヤとマーヤの背後にあるみこころに対して敏感になるようです。 覚醒している人同士は、共通の神の感覚を持っているために、お互いが分かるらしいですね。 さらに現実的に起こる諸問題は、単に学ぶべきみこころであり、そのことの意味が分かるために、出来事自体が悩みの元とはならないようです。 (う~ん、自得のものであれば断言できたものを…、歯切れの悪い物言いで申し訳ない) ここでポイントなのは、あくまで主役が自分自身であることです。 自分の認識を変えようと思う人は、岩城和平先生は悟りのことについて話をするのが使命の人なので、導師として自分の師匠にするには良い人ですが、現実的な問題を解決する御利益を頂ける方ではありません。 マーヤ的な修行も相当積んでいる方のですが、知っていても使いませんので、御利益目当てでは当てはずれも良いところでしょう。 教祖として崇めるのも間違っています。 先生は悟りに至る道を示す人(道を歩くのはあくまで自分自身)なので、贖罪は行っても、奇跡や救済を行う救世主やサイババのような生き神様のようになることもありません。 あくまで個人の認識の変革と、神のみこころによる日々の生活からの学びを重視していますね。 ただ覚醒に至らなくても、私のようにみこころという概念を知るだけでも、日常的に起こる全ての物事の背後に神の意志があると言うことが分かるので、自分の人生感が相当変わりますよ~。 何せ全ての出来事に意味があるのですから、人生の重みが違ってきます。 あと何が起こっても、全て神のみこころであることを知りますので、絶対的な安心感があり、物事を受け入れやすくなります。 結局、神を求めて生きることができるのも、みこころであり恩寵なんですよね。 起こる出来事から神様のやろうとする意図もつかみやすくなりますよ。 つい先週、伊豆の温泉に行った折りに、熱海の伊豆山神社に立ち寄りお神籤を引きました。 お神籤の神の教え曰く、 「何をするにしても神様が相手。 人が知ろうが、知るまいが、神様が全てみていらっしゃる」 ……やはりすべてお見通しですか。 全てが神ですからね。 では、これから港区講話会に行ってきます。 人が見ていないのをいいことに、ここ数回、すげぇつまんね~、訳わかんねぇ~話をだらだらと続けております。 この手の話は私の自得とするもんじゃないんで、歯切れが悪いのも、話の飛躍や恣意的な主張が含まれていることも重々承知しております。 ぶっちゃけ早い話 岩城和平先生はライブじゃないと雰囲気つかめね~んですよ。 (ある意味人間の範疇外ですんで…)文章にすると言葉だけ、形だけの意味のないものになります。 んが、乗りかかった船ですので、懲りずに続けます。 (もうすぐ終わらせますんで、苦情はご勘弁の程を) さてなぜ本来神である私たちが、なぜ普段から神を認識していないのでしょうか?一言で言うと、それはマーヤと呼ばれる無知の霧がかかって、本来の自分を思い出せないでいるからです。 マーヤというのは、私たちを悟りから遠ざける全ての存在を言い、悟った後も様々な形でやってきますが、一度神の認識を経験すると、その経験があるためにマーヤを解くということができるようになるそうです。 マーヤは単純な欲望や執着からはじまり、様々な人間関係、個人の指向等々、人それぞれに異なり様々な形で存在します。 特に悟りを目指している修行者には、悟りに対する執着や、修行自体に対するマーヤが存在します。 悟りとは修行の果てにいつか至るものではなく、予め持っている神を認識するだけのことです。 簡単なことに見えて非常に難しいのは、私たちの側に簡単に成就するものでは無いという、錯覚があるためです。 では、なぜこのような苦しみの元となるマーヤが存在するのでしょうか?それは神が私たちを愛しているが故です。 我々は知るため、学ぶためにここに生きています。 そして人間は認識を変えるために、実経験を通してしか学ぶことがありません。 故にマーヤという障害を使って、それを解決してゆくことを通して学びを与えているんですね。 だからマーヤが悟りの障害となるから、逃げてばかりもいられないんです。 悟っている人にも神が計画している、起こるべきこと必ず起こり、そのマーヤの背後には必ず神のみこころ(即ち学び)があるんです。 しかも神は私たち人間の持つ、善悪、法秩序を超越した全てを含む存在ですから、一見、私たち人間が悪だと勝手に判断しても、全体の流れとして必要なものもあるんです。 全世界に起こる出来事は、私たちの善悪の価値判断に関係なく、悲劇も喜劇も全て必要なことで、神に許されているからそれが起こるんですね。 未経験のことはある程度の予想はできても、出来事が起こって、実際経験してみないと、その実情が分からないものです。 神は全ての出来事とその影響を勘案して世界を動かし、今、この瞬間にも常に、世界中で様々なみこころを表しているのです。 これからどのような世の中になるのか、先が見えない不安感を抱えている人もおられるでしょう。 しかし私は岩城和平先生のような、今までの宗教と異なった、現代人にもわかりやすい、悟りへの最短の道を示す人が現れたことも神の素晴らしいみこころだと思っております。 3月25日、港区芝浦港南区民センターで1時より金曜瞑想会が開かれます。 ここで書いたことよりも、もっとわかりやすく具体的に岩城和平先生がお話下さいます。 興味を持たれた方は、是非ご参加下さい。 みなさまのご来場をお待ちしております。 まず、なぜ「神」という言葉を定義し直すかというと、理由は明確で、その言葉の指し示す範囲があまりにも広範で把握しづらいからです。 そして言葉という枠に押し込めた時点で、それは神という完全な存在を正確に表現することにはなりません。 とはいえ何らかの表現を用いない限り、人間は他人に物事を伝えることができないので、今、試みにみこころ会での「神」の概念を私なりに述べてみようと思います。 一言に「神」と言っても、日本語の神という言葉は、大変広い意味を含んでいます。 真っ先に思い浮かぶのは八百万の神々でしょうか。 日本人は古来から万物の中に霊威を見いだしたため、森羅万象ありとあらゆるものに神が潜んでいると考えられていました。 そのため神の指す範囲がとても広範で多様なものになりました。 我々の神と呼ぶ存在は、そのような名前を持つ各個の神性ではありません。 どちらかというとユダヤ・キリスト・イスラム教的な唯一なる神という概念に近いのですが、彼らの信仰のように天上に坐す審判する存在でもありません。 現代社会では価値観が多様化しているため、共通の認識を持つことは不可能です。 科学も非常に細分化複雑化して、知れば知るほど分からないことがより増えるというのが実情でしょう。 全知全能にして万能の価値観は存在しません。 そこで把握できなくても時間・空間・運命・物理・あらゆる法則を超越して、この世をはじめから終わりまで秩序正しく運営している万能の意志・存在を、古来からの呼称に習って我々は「神」と呼んでいるのです。 この宇宙が生まれる以前にも、宇宙の素材となった何らかの素材が存在しました。 物質も質量もない無の状態かもしれませんが、全くの無ではなく、同時に宇宙の全ての素材となるものを含有する、何か完全で普遍的な1つの存在があったはずで、これを「サムシング・グレート」と呼ぶ人もいます。 しかし把握できない超越的なこの存在は、万能性でいえば人類の概念で言うと神という存在に相応しいでしょう。 この神が何らかのきっかけで変化を起こし、分裂・相対することにより陰と陽に分かれ、それぞれが母性的・父性的な雛形になりました。 そして父性的な父なる神が計画し、母性的な母なる神がその計画に従い神話にあるがような、世界の万物を産みだし創造したと我々は考えます。 故に世界の多くの生物は、雄雌の両性を持ち、それぞれの性別に即した本能を持ちます。 相対した故に異なり、それが様々な多様性や相違生み出しているといえます。 しかしそもそもの前提として、神に超越的な意志があり、それが次元・空間・時間と万物の法則や関係を綿密かつ微細に設計・実行しない限り、このように多様な世界や宇宙が偶然に成り立つことはありえないと思うのです。 宇宙にある万物は分裂細分化していますが、同時に過去も現在も未来も変わらず永遠に存在し続ける、完全で普遍的な1つの存在である神の一要素です。 そして、あらゆるものが唯一の神の要素を含有していると考えられます。 故に「私は誰か?」という問いを突き詰めてゆくと、この唯一なる神にたどり着くのです。 それぞれが個々に分化した意志と個性を持ち運動をしているように見えますが、それは唯一なる神が計画通りに働くように計算した上で、所定の位置に配置されているだけです。 宇宙の全ては神の計画取りに進み、この計画を我々は「みこころ」と呼びます。 これに個人の自由意志の介在する余地はありません。 自由意志はあるように見えて消え去る一過性のものです。 我々の活躍する地球という舞台自体、神の創造したものです。 始まりがあるものには終わりがあります。 我々の人生も、人類の歴史もまた同じです。 しかしみこころ会の急務は、我々が日常生活を普通に送ると同時に、自分の元である唯一なる神を思い出し悟ることです。 より多くの人が意識が変わることによって世界が変わります。 それは今まで神に許されていなかった新たな人類の進化とも言えると思います。 全て神の計画通りに進むのですが、その過程で我々は努力して学ばなければなりません。 今度はなぜ普段の我々に神の認識がないのか?という点について試みに書いてみようかと思います。 (重要なご注意)前回も申し上げておりますが、最近、書いている記事は岩城和平師のお話の抜粋です。 私の視点語っておりますので、誤解や偏見もあるかもしれませんので、ご承知の上お読み下さい。 (詳しくは講話会にご参加下さい。 ) 「私は誰か?」 この問いには様々な答えがあると思いますが、形や表現が異なっても言葉にはできない共通の認識の変革があるようです。 自ら得た答えは貴方だけのものです。 ただそこに至るまでの過程が、雑念を持たずに自己に神を見いだす「智恵の道」は非常に困難です。 修行を積んだ相当集中力のある意志の強い人でも、妄想は出てきますので誰にでもお勧めできる方法ではありません。 (実は「私は誰か?」という問いにもトリックがあります。 禅と同じように思考過程よりも、問うことによって雑念を消すことの方が重要なのです。 なぜかは考えてみて下さい) 瞑想には「私は誰か?」を探求していく以外にも、そんなに気構えなくてもできるリラクゼーションを主体としたものもあります。 様々な方法があるから、自分にあった方法をいろいろ試してみるといいと思います。 岩城和平氏の瞑想会でも初期の頃は、イメージ等を利用した誘導瞑想が主でした。 ただ、この方法を使うと、時に瞑想する側の心理的トラウマや過去世のカルマ、霊的な影響が出てきてしまうことが多く、自己探求の一部ではあるけれども、回り道や混乱に拍車をかける方法は徐々に省かれ、真我や神に焦点を集中する瞑想に切り替わりました。 最近の岩城和平氏の誘導瞑想は、『瞑想』~自己の根源への瞑想~というタイトル(価格2000円)でCDにもなっています。 全国のジュンク堂書店や紀伊國屋書店、神保町の書泉グランデやナチュラルハウスでも取り扱っています。 和平氏の声のみで瞑想するのもいいですし、バックで別のお気に入りのBGMを組み合わせて流してもよい、お勧めCDです。 瞑想の一助となること請け合いですので、もし機会がありましたらぜひお手元にどうぞ。 また、私、「みこころ会」の金曜日瞑想会・横浜以外にも、東京港区の金曜瞑想会の世話人もさせて頂くこととなりました。 詳しくはのHPの講話会の3月25日をご参照下さい。 今まで瞑想会に参加されたことのない方、金曜の午後を自己探求や、古今東西の様々な教え、瞑想の一時としてご一緒に楽しみませんか?ぜひ、お気軽にご参加下さい。 さて、自己認識のためにお勧めできるもう一つは「愛の道」と呼ばれる手法です。 (ある意味、「みこころ会」の講話会もそれを目指すものです。 )「愛の道」とは、簡単に言うと神への奉仕に生きる道です。 「智恵の道」は自己の内に神を見いだし、「愛の道」は自己の外に神を見いだす方法です。 どちらに見いだそうが、神は普遍的な存在ですから同じで、同時にどちらも究極的な自己実現の道です。 しかしこれについて書く前に、神という言葉の概念の定義が広すぎますので、まずそれについて(文章にできるかどうか分かりませんけど)試みに書いてみます。 (続きます) そうは言っても古来から行われてきた最有効の手段と言われていますので、お時間がありましたら興味のある方は、ぜひ静かな環境をお選びになって「私は誰か?」と自己を見つめ直してみて下さい。 案外自分のこととなると、分からないものですよ。 自分が何者か知ることは「智の道」とも呼ばれ、人類の歴史上でも最大のテーマとして、過去連綿と聖者賢者によって探求されてきました。 試みにその思考過程を追ってみましょう。 まず「肉体は私かどうか?」 肉体は自分の意志のとおりに動きます。 間違いなく私の一部だと思うかも知れませんが、例えば不幸にも腕や足を切断した人がいるとして、その欠損した部分は私であるといえるでしょうか?代謝する皮膚や髪や爪などが私でしょうか?死した後、残った遺体は私でしょうか?違いますよね。 では、「心は私かどうか?」 心は自分だけのものです。 間違いなく私だと、そう思われるかも知れません。 しかし眠っているときはどうなのでしょうか?人は眠ると意識無くなりますよね。 起きているときだけ私があって、眠っているときには私はないのでしょうか?私は、現れては消える不連続な、そんな不安定なものなのでしょうか? 「同じく感情は?」「記憶は?」「名前は?」…このように私でないものを排除して、私を追求してゆくと、私という存在自体がかなり曖昧なものであることに気づきます。 しかし私はありますよね。 私という存在をインド哲学や心理学などでは意識のレベルに分けて、自我、個我、真我、と言っています。 (岩城氏は、セルフ、ハイヤーセルフ、ハイエストセルフなどとも言っていました。 (^^;) 「自我」は、顕在意識で目が覚めている時に存在します。 これは消え去ることがある幻のような偽りの私であり、「個我」は、潜在意識の高度な自我で眠っているときも、起きているときも「自我」に影響を及ぼしているが、死すると消えると言われています。 そして「真我」…神意識とも呼ばれる、永遠にして不滅のそして偏在する私。 ラマナ・ハマリシは私でないもの全てを否定し続けて、ここに到達しました。 仏陀の言う「空」と同じ状態です。 自分が何者であるか分かることを悟りと呼びます。 私は分からないのですが、自己探求の瞑想を続けていると、単に知識として知っているだけでなく、本当に悟り(覚醒)の状態に至るそうです。 そのような人が数は少ないけれども、世の中にはいます。 そのような人を見ると、一見普通の人と何の変わりも無いのですが、全く迷いがありません。 特別な力を持っているのではなく、普通の平凡な人間でも悟れると言います。 そして彼らは神の存在を肯定しています。 それは世界創生以前に存在し、今も存在し続け、未来永劫、時間や次元、空間等を超越し普遍的に存在し続けるただ一つの神だそうです。 人間によって名前で呼ばれている神は、岩城氏は神々と呼び、人類創生以降に認識された存在であり、唯一の神の創造物として分けて考えるそうです。 その唯一なる神は、偏在するのだから万物の中に存在し、私の中にも「真我」と同一のものして存在するのだそうです。 真我に達した人は、世の中で起きる出来事がなぜ起きるのか知っています。 起こる出来事の全てを神の「みこころ」として受け入れることができるそうです。 「みこころ会」は、この個々人の人生上で起こる様々な「みこころ」から学びを得るための講習会と言えます。 (続きます) 注)分かっていない私が書いているので、間違い等があると思います。 気づいた点は後日、加筆・修正します。 疑問のある方は是非「みこころ会」にご参加頂き、岩城氏に直接質問して下さい。 (私にはさっぱり分かりませんので) え~、当ブログで頻繁に出てくる「みこころ会」って一体何なのよ?…という疑問をお持ちの方もいらっしゃると思います。 過去ログを確認すると、実は まだ何の説明もしてなかった(滝汗)。 詳しくはをご覧頂くとして、(一見、和平氏が修行者であったために宗教っぽく見えるのですが、内実はまるで違います。 )偏見を恐れず私流に言わせて貰えば、自分流に認識を変えることによって、生き方をより良くするための人生哲学講座ですね。 少しだけその一端を書き込んでみようかと思います。 (何回か続きます) 人の認識は、それぞれ違います。 そして世界の全てのことを、人は自分の認識を通じて判断しています。 そのため認識の持つ価値観の違いによって、同じものを見ても違うとらえ方が存在し、そこに個性と相対が生じてきます。 人の意識は常に流動的に変化していますが、自分自身の個性を認識するために、他人との比較を無意識のうちに行っています。 つまりよっぽど孤独な環境に生まれ育ち、居続けない限りは相対することにより、自己認識を行っているのです。 しかしこの相対する自己認識がくせ者で、これだけ複雑に情報化された管理社会では、社会と自己の関係を見失い、時に自己の存在意義(アイディンティティ)の崩壊させたり、自己認識の喪失、無力感と厭世観を招いたりします。 これだけ物質的に満たされた国に生まれながら、自分が何者だか分からない、何のために生きているのか分からない、という人が増えています。 これは衣食住に困らない国に生まれたが故の悩みでもあると言えます。 環境により生存自体が難しい国では、生きること自体が人生の目的となり、自殺など全く考えないでしょう。 そのような悩みを持つ人は、自己の価値観が崩壊してしまう位の環境に身を置いてみるのも一つの手なのですが、別の手段もあります。 人は自分の意志で、自分以外の他人の意識を変えることはできません。 言葉や文字を使って意識を変えるように促すことはできますが、それは本人が受け入れてこそ可能なことですし、まして精神的なことは言葉や文字では伝わらないこともあります。 そこで他人との比較、相対による自己認識を改め、純粋に自己をとことんまで追求してみるのです。 内省のために最も有効な手段は、古来から行われてきました。 自分の意識を最も単純な方法は、インドの聖者ラマナ・マハリシが行った、「私は誰か?」と問い続ける自己瞑想でしょう。 しかしこの方法は、問いに精神を集中し続けること自体がとても難しいのです。 現代人にはあまり合った手法とはいえないかもしれません。 (続きます).

次の