江戸 時代 花魁。 <江戸時代> 花魁(おいらん)用 襠(しかけ)[打掛] 一式|小林豊子きもの学院

歴史上、有名な花魁たち(高尾太夫、勝山、小紫太夫、榊原高尾)

江戸 時代 花魁

概要 [ ] 吉原に遊廓ができた当初には、少数ではあるが江戸にも太夫がおり、その数は元年()の『』によれば、太夫3人であった。 またその下位の遊女として格子67人、局365人、669人、次女郎1004人がいた。 後期の4年()になると、吉原細見には散茶50人(内、呼出し8人)、座敷持357人(内、呼出し5人)、部屋持534人など(総計2021人)となっている 別書によると、寛永20年(1643年)に18名いた吉原の太夫は、延享元年(1744年)には5名に、寛延4年(1751年)には1名に減り、宝暦(1751-1763年)の終わりごろには消滅した 、 花魁は引手茶屋を通して「呼び出し」をしなければならなかった。 呼び出された花魁が禿や振袖新造を従えて遊女屋と・の間を行き来することを滑り道中(後に 花魁道中)と呼んだ。 花魁には教養も必要とされ、花魁候補の女性は幼少の頃から禿として徹底的にや、、、、、などの教養、芸事を仕込まれていた。 花魁を揚げるには莫大な資金が必要であり、一般庶民には手が出せないものであった(花魁の側も禿や新造を従え、自分の座敷を維持するために多額の費用を要した)。 人気の花魁は『』などの文学作品に採り上げられたり、に描かれることもあった。 浮世絵に描かれている花魁は、実際には付けるのが不可能なくらい多くのかんざしを付けて、とても豪華な姿で描かれている。 語源 [ ] この記事にはが含まれているおそれがあります。 問題箇所をしして、記事の改善にご協力ください。 議論はを参照してください。 ( 2019年11月) 中頃、吉原の(かむろ)やなどの妹分が姉女郎を「おいらん」と呼んだことから転じて上位の吉原遊女を指す言葉となった。 「おいらん」の語源については、妹分たちが「おいらの所の姉さん」と呼んだことから来ているなどの諸説がある。 ただし、これらはどれも通説であり現在典拠に基づいた説は存在しない。 上記脚注の「いろの辞典(改訂版)」編者の小松奎文は川柳研究家であり、学術的な典拠は示されておらず、また、この通説が一般化したのは近世風俗志(守貞謾稿)の記述の一部を引用した上記脚注書のような一般書籍が多数発行されているからに他ならず、近世風俗志(守貞謾稿)の記述自体が原典引用の無いものは「聞き書き」だと大前提だと断っており、また、第廿編娼家下「花魁」の項目は「おいらん」という音であって、「花魁」を「おいらん」と読む証左はなにも無い。 中国文学研究者のによると、講談・落語の『』の元になった編著の白話小説集『醒世恒言』所収の「売油郎独占花魁」の王美娘 『紺屋高尾』の高尾にあたる という登場人物のあだな「花魁娘子」から、「おいらん」に「花魁」の文字を当てられたと記述している。 江戸時代、京や大坂では最高位の遊女のことは「」と呼んだ。 また、吉原にも当初は太夫がいたが、宝暦年間に太夫が消滅し、それ以降から高級遊女を「おいらん」と称するようになった。 今日では、広く遊女一般を指して花魁と呼ぶこともある。 遊女の位 [ ] 遊女には位があり、それによって揚代が決まっていた(『吉原細見』に格付けが記載されている。 店にも大見世・中見世・小見世の別がある)。 時代による変遷もあり、詳細が不明な点もあるが、おおむね次の通りである。 :高級遊女で吉原でもわずかな人数しかいなかった、など、伝説的な遊女の名が伝えられている。 年間(中頃)に吉原の太夫は姿を消した。 格子:太夫に準ずる遊女であるが、やはり宝暦頃に姿を消した。 花魁は宝暦以降の呼称であるため、太夫や格子は花魁ではない• :元々は太夫・格子より下位の遊女であったが、後に太夫・格子がいなくなったため高級遊女を指す言葉になった。 :普段寝起きする部屋の他に、客を迎える座敷を持っている遊女。 禿が付いている。 :散茶・座敷持のうち、張り店を行わず、禿・新造を従えて茶屋で客を迎える遊女。 本来は「呼出し」を花魁と呼んだと考えられる。 これらより下位の遊女は花魁とはいわなかった。 なお、店の筆頭である遊女を「お職」と呼ぶことがあるが、本来は小見世で呼んだ言葉で、大見世・中見世では使わなかったという。 しきたり [ ] この記事にはが含まれているおそれがあります。 問題箇所をしして、記事の改善にご協力ください。 議論はを参照してください。 ( 2019年11月) 下位の遊女と一夜を共にするのとは異なり、高級遊女を揚げるには様々なしきたりが存在していたといわれる。 大店には、茶屋を通して取り次いでもらわなければならなかった。 このため、茶屋で豪勢に遊びを落とす必要があった。 座敷では、遊女は上座に座り、客は常に下座に座っていた。 花魁クラスの遊女は客よりも上位だったのである。 初会(1回目)、遊女は客とは離れたところに座り、客と口を利かず飲食もしなかった。 この際、客は品定めをされ、ふさわしくないと思われたらその遊女とは付き合うことができなかった。 客はたくさんの芸者を呼び、派手に遊ぶことで財力を示す必要があった。 裏(2回目)には、少し近くに寄ってくれるものの、基本的には初会と同じである。 3回目にようやく馴染みになり、自分の名前の入った膳と箸が用意される。 このとき、ご祝儀として馴染み金を支払わなければならなかった。 通常は、3回目でようやく床入れ出来るようになった。 馴染みになると、客が他の遊女に通うのは浮気とみなされる。 他の遊女に通ったことがわかると、客を吉原大門のあたりで捕らえ、茶屋に苦情を言った。 客は金を支払って詫びを入れたという。 ただし(18世紀半ば)以降ではこのような廓の掟は廃れている。 馴染みの客の指名がかち合うこともある。 その際は名代といってが相手をするが、新造とは床入れ出来ない。 一方で、通常の揚代金を取られることになる。 (ただしこれは花魁に限ったことではない) ただし上記の「初会~馴染み」のようなしきたりは実在が疑問視されている。 また実在したとしても、あくまでも大名や豪商が主たる客層であった江戸前期(ごろ、17世紀末)の全盛の太夫に、そのような接客を行った者もいた程度の特異な例であると考えられる。 理由として安価に利用ができる飯盛旅籠(宿場女郎)や岡場所の隆盛したことや、主たる客層が武士層から町民層に移ったことなどにより、煩雑な作法や格式と高価な吉原の運営方式が敬遠されるようになった。 それは宝暦年間には吉原では高価な揚げ屋遊びの消滅や、歴代「高尾太夫」を抱えていた高級店「三浦屋」の廃業、そして太夫の位も無くなるなど顕著に現れ、宝暦以降の吉原は旧来の格式や作法は解体され大衆化路線へと進んだ。 宝暦以降の記録では高級遊女であった呼び出し昼三(花魁)も初会で床入れしており、『古今吉原大全』などこの時期の文献にも「初会〜馴染み」の手順は記載されていない。 少なくとも「太夫」に代わり「花魁」の呼称が生じた宝暦以降では、上述のようなしきたりの一般化は考えられず、後世に誇張された作法として伝わったものと考えられる。 『古今吉原大全』によれば「初会で床(とこ)に首尾(しゅび)せぬは客のはじ、うらにあわぬは女郎のはじと、いゝつたふ」とあり、初会の客をつなぎ止めなければ遊女の落ち度となるとされていた。 なお現存する錦絵や歌舞伎芝居や落語、講談、映画やテレビドラマなどの、フィクション世界での遊女の姿は(19世紀初め)の風俗を参考としており、対していわゆる廓の掟と称されるものは宝暦(18世紀半ば)以前の作法に由来するものが多く、虚像と実像には時代的に大きな開きがある点も注意が必要である。 (参考:永井義男『図説吉原入門』学研) 関連用語 [ ] 花魁道中の再現ショー 花魁道中(おいらんどうちゅう) 花魁が禿や振袖新造などを引き連れて揚屋や引手茶屋まで練り歩くこと。 今日でも歌舞伎や各地の祭りの催し物として再現されることがある。 三枚歯の重くて高い黒塗下駄で八文字(はちもんじ)に歩くもので、吉原は「外八文字」(踏み出す足が外側をまわる)。 京嶋原と大坂新町は「」。 「内八文字」(足が内側を回る)で歩く。 きちんと八文字で歩けるようになるには3年かかったともいわれる。 忘八(ぼうはち) 遊女屋の当主。 ・・・・・・・の8つの「」を忘れたものとされていた。 禿(かむろ) 花魁の身の回りの雑用をする10歳前後の少女。 彼女達の教育は姉貴分に当たる遊女が行った。 禿(はげ)と書くのはが生えそろわない少女であることからの当て字である。 番頭新造(ばんとうしんぞう) 器量が悪く遊女として売り出せない者や、年季を勤め上げた遊女が務め、マネージャー的な役割を担った。 花魁につく。 ひそかに客を取ることもあった。 「新造」とは武家や町人の妻を指す言葉であったが、後に未婚の女性も指すようになった。 振袖新造(ふりそでしんぞう) 15-16歳の遊女見習い。 禿はこの年頃になると姉貴分の遊女の働きかけで振袖新造になる。 多忙な花魁の名代として客のもとに呼ばれても床入りはしない。 しかし、稀にはひそかに客を取るものもいた。 その代金は「つきだし」(花魁としてデビューし、水揚げを迎える日)の際の費用の足しとされた。 振袖新造となるものは格の高い花魁となる将来が約束されたものである。 留袖新造(とめそでしんぞう) 振袖新造とほぼ同年代であるが、禿から上級遊女になれない妓、10代で吉原に売られ禿の時代を経なかった妓がなる。 振袖新造は客を取らないが、留袖新造は客を取る。 しかし、まだ独り立ちできる身分でないので花魁につき、世話を受けている。 太鼓新造(たいこしんぞう) 遊女でありながら人気がなく、しかし芸はたつので主に宴会での芸の披露を担当した。 後のの前身のひとつ。 明治時代の花魁。 遣り手(左)と禿と。 遣手(やりて) 遊女屋全体の遊女を管理・教育し、客や当主、遊女との間の仲介役。 誤解されがちだが当主の妻(内儀)とは別であり、あくまでも従業員。 難しい役どころのため年季を勤め上げた遊女や、番頭新造のなかから優秀な者が選ばれた。 店にひとりとは限らなかった。 女衒(ぜげん) 遊女達を全国から集めて郭へ供給する調達役。 表向きは年季奉公の前借金渡しの形だが、実態は人身売買。 中には、人さらいと通じている悪質な者もいた。 人買い。 (くるわことば) 遊女達は全国から集められており、訛りを隠すために「 - ありんす」など独特の言葉を使っていた。 廓詞は揚屋によって異なっていた。 里詞、花魁詞、ありんす詞とも。 伊達兵庫 の三浦屋揚巻( 画『江戸櫻』大判錦絵) 伊達兵庫(だてひょうご) 花魁の格式に相応した壮麗絢爛な。 の派生形。 のを大きく左右に張り、そこにやをあしらったを左右に計六本、大玉の簪を二本、のを三枚挿したもの。 歌舞伎『』の三浦屋揚巻や『』の阿古屋に見ることができる。 (みうけ) 花魁に限らないが、客が遊女の身代金や借金を支払って勤めを終えさせること。 大見世の花魁では数千両 にものぼったという。 (よしわらさいけん) 郭ごとに遊女の名を記したガイドブック。 当時のベストセラーの一つであったといわれる。 二階回し (にかいまわし) 遊郭で、遊女と客が寝る部屋の全般を取り仕切る役の人。 遊女が特別な用事が無い時に部屋を抜け出した事が分かると、部屋へ連れ戻す事も役目の一つ。 廻し部屋(まわしべや) 一晩に2人以上の客の相手をするような、位の高くない遊女のいる部屋。 有名な遊女 [ ]• (江戸吉原)• (江戸吉原)• - 出身。 花魁を描いた作品 [ ]• 『』 1918年 - 吉原の花魁稲葉のもとに15日間毎晩通い続けて聞き出した身の上話をもとにまとめた小説。 『』 - の漫画作品。 2007年に映画化もされている。 花魁道中に関するものが見られる展示や祭り [ ] 美術館 [ ]• - 江戸時代〜明治時代の花魁道中着を多数展示している。 テーマパーク [ ]• () 祭り [ ] 「」も参照• 4月中旬• 分水桜まつり()• 羽茂桜祭り()• 〜:先帝祭()• : ()• 6月上旬:例大祭()• 10月中旬:()• :()• 11月上旬:() 脚注 [ ]• 石井良助『吉原』P122 127• Joseph Ernest De Becker 、1899• 小松奎文『いろの辞典(改訂版)(綺語文章 壹之巻 おいらんの傳)』文芸社、2002年。 他には、古語「おいらかなり」を語源とする説等がある。 源氏物語 若菜上「見返り給(たま)へる面持(おもも)ち・もてなしなど、おいらかにて」(振り返りなさった様子・所作などが、おっとりとしていて)• また、落語では 「狐や狸は、尾を使い化けたり人をだましたりするが、おいらんは尾がなくてもだませる。 大木康『明末のはぐれ知識人-馮夢龍と蘇州文化』、p. 5,14、講談社選書メチエ、1995年• 藤田真一 、。 今日の貨幣価値で数千万円から億に近い価格。 小谷一郎, 一橋論叢,1989-03-01 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 (花魁道中着を多数展示する美術館)• 外部リンク [ ]• - 江戸の遊郭吉原の歴史・人物談などを述べた本。 庄司勝富著、享保5年(1720) この項目は、に関連した です。

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【江戸の性事情】花魁から夜鷹まで…庶民はどう遊んだ?江戸時代の気になる性産業

江戸 時代 花魁

花魁道中とは? 花魁道中の絵です。 見物客が大勢いるのがわかります。 トップの花魁ならではのしきたりの一つに 花魁道中があります。 これは一体どのようなものだったのでしょうか。 花魁道中の意味について 花魁道中とは、美しく着飾った花魁が揚屋や引手茶屋まで馴染み客を迎えに行くことです。 これが行えたのは、トップクラスの遊女である花魁と、その下の階級の格子(こうし)だけでした。 揚屋とは江戸時代に、客が置屋から太夫や花魁などの高級遊女を呼んで遊んだ店のこと。 お茶屋より格が上でした。 常連客は遊郭にやってくると、最初に揚屋に上がりお気に入りの花魁を指名します。 そして花魁が来るまで、酒を飲みながら芸者や幇間(ほうかん、太鼓持ち)の芸を楽しみました。 指名を受けた花魁は、美しく飾り立てて揚屋まで歩き、客を連れて自分の妓楼(ぎろう)に戻ります。 この様子を旅に見立てたことから、「道中」と呼ばれるようになりました。 花魁道中に込められた想い 花魁道中の際は、まだ幼い見習いの禿(かむろ)や、遊女の妹分にあたる新造(しんぞ)、雑務などをこなす男性従業員の下男(げなん)らが花魁の脇を固めます。 馴染み客を迎えにいくだけでもこのようなしきたりがあるのですから、花魁も大変だったことでしょう。 しかしこれは、花魁にとって威厳を保つために必要なものだったと考えられます。 当時、花魁と馴染みの仲で居続けるには大変な金額がかかりました。 花魁の揚代のほかにも、芸者や幇間、その他全スタッフに対する祝儀や酒代など、一晩に40両かかることもあったそうです。 1両は現代の金額に換算すると約7万5千~13万円なので、たった一晩で約300万~520万円を支払うことになります。 馴染み客は大金を支払うことで自分の力を誇示し、花魁自身もそれを周囲にアピールできたといえるでしょう。 どうしたら花魁になれるのか? きらびやかな花魁ですが、誰でもその立場になれるわけではありませんでした。 遊女が花魁になるには、さまざまなステップがあったのです。 禿から振袖新造になるのが一般的 遊女から花魁になる場合、禿から振袖新造に、振袖新造から花魁になるという道のりを辿るのが一般的でした。 禿は10歳前後の少女で、花魁の身の回りの雑用をこなしながら遊郭でのルールを学びます。 彼女たちは、姉貴分に当たる遊女によって教育されました。 15~16歳になると、見込みのある禿は遊女見習いの振袖新造になります。 花魁の代理として客に呼ばれても基本的には床入りはしませんが、中には隠れて客を取る人もいたようです。 振袖新造になった少女は、花魁への道が約束されたも同然でした。 17歳で正式な遊女になると、その後は花魁へとランクが上がっていきます。 花魁の中にも大きく「呼出し」「昼三」「付廻し」といった3つのランクがありますが、容姿や教養のグレードによって振り分けられていたようです。 花魁になるには教養が必要だった! さまざまな階級がある遊女の世界ですが、花魁になるためには美貌だけではなく教養も必要でした。 特に読み書きや書道は男性に手紙を書く上でも必要で、「遊女はいつも手紙を書いている」と言われるほどだったとか。 気の利いた内容を書けるだけでなく、字も綺麗だったようです。 また、幼少期から琴・三味線・歌・茶道などの芸事も叩きこまれており、古典や囲碁といった知性が感じられる教養も兼ね備えていました。 これだけ多彩であれば、どんな客ともうまく会話ができたことでしょう。 花魁に夢中になる男性は、美しさだけではなく知的な部分にも惚れていたのかもしれません。 関連記事: 遊女たちとしきたりについて 明治時代の花魁の様子。 左は遣り手で、右は禿です。 遊郭では大勢の人間が働いており、独自のしきたりがありました。 どんなものがあったのか、その一部をご紹介します。 習得に3年かかる八文字で歩く 花魁道中の際、花魁が見せる歩き方として「八文字」があります。 これは黒塗りの三枚歯の高下駄を履いて特徴的な足運びをするもので、マスターするまでに3年かかるといわれています。 古くは京都の道中で使われた「内八文字」が始まりで、これは内側から足を踏み出すため、動きが小さく、おしとやかな印象を与えました。 しかし時代が移り変わると、女性らしい「内八文字」から派手さが感じられる「外八文字」へと変化していきます。 「外八文字」は、明暦元年(1655)頃の有名な遊女・勝山が作りだしたもので、外側に大きく足を踏み出してから八の字に置くものです。 遊女は歩き方一つとっても、いろいろなルールがあったのですね。 花魁は遊女たちの面倒を見ていた! ? 上客をつなぎ留め一晩で大金を稼ぐ花魁ですが、彼女らが裕福かといえばそうとはいえなかったようです。 花魁は多くの禿や新造を従えるため、自分の座敷を維持するのに多額の費用が必要でした。 いわば収入も支出も多い状態だったのです。 他の遊女たちの費用も負担していたと考えると、並大抵の稼ぎではやっていけなかったのかもしれません。 遊女は若さが武器となる商売のため、20代を過ぎるとほとんど需要がなくなります。 しかしレベルの高い花魁は、客に身請けされ遊郭を卒業することもありました。 これには莫大な金額が必要で、多くの場合は大名や豪商の後妻・妾などになります。 花魁としてはこれが一番幸せなゴールだったようです。 身請けされて幸福になれば、みんなの面倒を見ていた苦労も報われるというものでしょう。 艶やかな世界の裏には 一握りの遊女に許された花魁道中。 それは、艶やかに着飾って客を魅了していた花魁の特権でした。 しかし、花魁として活躍した女性全員が、身請けされ幸せをつかめたとは限りません。 そう考えると、花魁の美しさは儚さと隣り合わせといえそうですね。 遊郭では梅毒にかかる遊女もおり、そのような場合は死を待つしかなかったようです。 江戸吉原のような艶やかな世界は、日本の文化として現代にも語り継がれています。 しかしその裏には、遊女たちのさまざまな苦労があったのです。 <関連記事>.

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江戸時代の吉原で花魁になれる女子の条件 容姿などで判断

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ここでは江戸時代のおもな遊女の位を紹介したいと思います。 位の低い方から、 ・局女郎:見世女郎、端女郎とも呼ばれ、店先の格子の中から客寄せをしました。 ・部屋持:自分専用の寝室をもつ遊女。 ・座敷持ち:座敷と部屋を持っている遊女で、部屋で生活しながら客をもてなしていました。 ここから上の位の遊女を花魁と呼びました。 ・付廻:揚代が金二分の遊女。 現代の価格で四万くらいだそうです。 付廻にもいろいろ種類があります。 ・昼三:張見世をしない揚代が金三分の遊女。 (張見世とは店先での顔出しのことです。 )現代の価格で六万くらいで、昼三でもいろいろな種類があるそうです。 ・呼出し:最高級の遊女で、花魁道中をする権利がありました。 (花魁道中とは、呼び出された高級遊女が、禿や新造を引き連れて遊女屋と茶屋などの間を行き来することです。 )ちなみに呼出しの揚代は一両一分で現代の価格で約十万円に相当します。 もともと遊郭が認可されたころは、太夫(後の花魁に相当)と端女郎しかいなかったそうです。 上記したものも江戸時代の江戸、吉原の呼び名です。 太夫の呼び名もそうですが、時代や地域によって遊女の位や呼称は様々なようです。 花魁を相手にするにはいくつかのルールもあるそうで、現代の風俗と比較してもかなり高級なことがわかりますね! 歴史を遡ってみると奈良時代や平安時代の遊女は、遊芸による神仏の伝播が主な仕事でした。 しかし、このころから男系相続の進展により、母系の家に男性が通うかたちから、別宅の男性の住処があり、そこに性行為を前提に侍る女性が存在し始めます。 これによって、子孫繁栄のために対等に行う性行為から、性行為が商品化していく流れができます。 日本の歴史の中で自立できなく、貧しい女性が売春行為を行い始めるのはこの時期だそうです。 また、遊女はこれをとは少し違ったようです。 遊女は性サービスを遊芸の付属品として、芸の域に領域まで高め、古代から続く巫女のような神性を追求していたと言われています。 故に現代になっても、単なる娼婦や売春婦などの風俗としてではなく、一種の芸術的な認識が生まれたのかもしれませんね。 ここまでみると、遊郭や花魁は華やかなイメージが多いですが、現実は梅毒によって死んでしまう遊女がたくさんいたと言われています。 遊郭では特に規制がありませんでしたので、梅毒以外にも他の病気になったり、妊娠中絶によって身体を壊し死に至るケースも稀ではなかったと言います江戸幕府医学所頭取が残した記録には、当時身分が低い人の100人のうち95人が梅毒にかかっていたと記されています。 またこの遊郭ができた江戸時代、100年ほどのあいだで日本で梅毒が蔓延したと言われています。 ちなみに吉原などの隠語で下級遊女のことを鉄砲と呼んでいました。 理由はもしこういう遊女を買うと梅毒になるからです。 梅毒なんて病名は今でこそほとんど耳にしなくなりましたが、梅毒は感染して10年ほど経過すると臓器など腫瘍ができたり、痴呆になり死に至るそうです。 現代の発展した医療では梅毒で死に至ることはまずないそうです。 ・遊女と遊ぶためには茶屋に取り次いでもらう必要があり、まず茶屋でお金をたくさん使い豪遊しなければいけなかったそうです。 このあたりから現代の風俗とは少し違いがありますね。 ・花魁は客よりも上位で、座敷では客は常に下座に座っていたらしいです。 もはや風俗というよりはアイドルや芸能人の追っかけに近いのかもしれません。 ・1回目 初会 遊女は客とは口もきかず、離れたところから客の品定めをしたといいます。 遊女が気に入らなければ付き合えなかったそうです。 この回で客は大金を使い財力を見せつけなければいけなかったそうです。 お金が必要なのは風俗も遊郭も一緒みたいです。 ・2回目 裏 遊女は少し近くに座るらしいですが、基本的には1回目と同じだそうです。 ・3回目でやっと名前の入った膳と箸が用意してもらえるそうで、この回より床入れが可能となります。 しかし客はご祝儀としてお金を払わなければならない。 一線を越えれると言う意味では風俗とは違う中毒性がありそうです ・馴染みになったらなったで、他の遊女と遊ぶと浮気とみなされ、大金を払う必要があったといいます。 この辺の縛りも風俗にはないですね 上記のルールをみると現代の風俗とは全く違うシステムですね。 アイドルの追っかけと風俗が一緒になっているようなシステムで、日本のアイドルブームもここに原型があるのかもしれませんね! 江戸時代の綺麗な着物を着て、華やかなイメージの遊女たち。 しかし、いくらいい着物を着て飾っても現実は遊郭の商品でしかなかったといいます。 休みもほとんどなく、食事も大したものは出ません。 商売で使う着物や髪飾り、化粧品はすべて自分で買い揃えなければいけなく遊女たちは借金してこれらを揃えるそうです。 江戸時代、遊女が働けるのは17歳から27歳くらいまでで、この間に稼いで借金を返さなければならなかったそうです。 当然男との駆け落ちは厳禁で、見つけだされた男は殺され、遊女も見せしめで厳しい罰を受け、場合によっては死亡することもあったといいます。 遊女が外に出る方法は3つ。 満期働いて、遊女から足を洗うか、お金のあるお客様に「身請け」される場合、死んだ場合です。 「身請け」といっても太夫や花魁クラスの遊女は身請け金が非常に高額になり、まずそんなお金持ちは現れなかったといいます。 外に出るために死ぬほど働いた結果、病気など死んでいった遊女はたくさんいたと言います。 梅毒の末期で痴呆になり捨てらるケースも多かったと言われています。

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